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選んではいけない教育コンテンツ

4・2・1歳の子育てに勤しむ教育業界の人間、という今の立場になると、どこまで本気でかはわからないが(社交辞令的に話題を振ったら思いのほか相手が語り出して困ることとかある)、よく家庭内教育方針とか、教育コンテンツは何がいいとかの相談を受ける。社会的にも激変期なので、今までの教育を信頼して良いのか、疑問に思う気持ちが強くなっているのだろう。
正直、聞かれてもわからない、という答えになってしまう。あるべき姿はいくらか描けても、同じ理想を国全体で合意し、学習指導要領が先進的に変化するとは考えにくい。教育は効果測定のスパンがどうしても長くなる(信頼おけるものでは、50年にも及ぶ追跡調査で就学前教育に効果があった事を証明した話もある)ため、その発展に関しても検証が遅い分PDCAを早く回すことができない。正しいものなんて今の時点でわからないんだから、親が信じたように信じたものでやってりゃいいんじゃないかというのが結論。何れにしても一貫性は大事だが、これはまた別のお話。

とは言うものの、それでは話が盛り上がらないので、歴史を踏まえて事実を押さえていくだけでも「少なくともこれは違うかな」という事は分かる。

「個人別教育が大前提になり、プレイヤーはそこで差別化できなくなる」

従来の教育はインプットの質が高ければ必然的にアウトプットの質が高くなると考えられていた(例:教材の訪問販売が商売として成立していた)。やがてインプットの質は教材そのものから個人別教育という手法の程度に置き換えられ、その細やかさが価値になって市場が拡大した。それが近年では、教材がデジタル化されるだけでなく、AIが生徒の回答によって習熟度を学習し、理解を促すために次の問題をカスタマイズして提示する精度が向上しつつある。これは今まで人が考えて行ってきた個人別教育のコストが劇的に下がることを示している。インプットの質の良し悪しは、インプットそのものの質に起因するものの他に、インプットと生徒とのマッチングがうまくいっていないことに起因するものと2種類あるが、AIの登場は後者の課題が改善されるという話。必然的にインプットの質では差別化できなくなっていく。

「主役は『教育者』から『学習者』に」


インプットの質が問われていた時代では、“質の高い”コンテンツをいかにうまく教えるか、教授法の優劣が重視されてきた(例:一斉授業の学校教育)。一方で個人別教育の台頭を契機に、教わる側の学ぶ資質に着目が集まった。これは学校後の社会でアウトプットを出し続ける人材とそうでない人材が出てきた事や、個人別教育を同様に行ってもアウトプットに差異が生まれる事から、学習者自身の学ぶことに対するセルフモチベートが重要と判断された経緯がある。2000年代、教材をデジタル化しただけのE-ラーニングも、結局は学習者の意欲向上が課題であるという共通認識が生まれた。現在は、ゲーミフィケーションをはじめとした意欲向上手法が開発されているが、その多くが外発的動機付けを用いたものであり(例:学習する事でポイントが付き、応じて電子書籍のマンガが読める)、その学習自体に手応えややりがいを持つといった内発的動機付けを仕組みとして取り入れたコンテンツはまだ見られない。この様に教育現場の主役は『学習者』になり、従来の教育者の役割は伴走・支援・コーチングといった内容に変わっていくだろう。

「アウトプットで求められるものが変化し続ける」


従来の教育は、1957年のスプートニクショック以降、工業化社会・大量生産大量消費社会に準拠した人材を育成する目的が明確化されていた。やがて産業構造がサービス業に偏っていき、こと日本では生活水準が底上げされていく中、社会で求められる資質も多様化。コミュニケーション力やクリエイティビティなど、育成や測定が困難な要素が社会から大学以下の教育課程に求められ、その要請に応えられない状況が続いた。現在、AIの登場と一般化により、工業化社会の時に求められていた資質は機械に代替される見通しが示されている。一方で役割を失った人材に求められる、これから必要とされる能力は未だ定まっていない。今までの教育業界の変化スピード(100年前と今、教室に黒板がある風景は変化が無いと揶揄される)に比して、アウトプットの変化要請は急激であり、しかも現時点で定義したものが陳腐化するスピードも早いだろう。教育は、社会が変化するスピードに耐え得る様にシステムの変革が求められている。

以上より、教育業界に身を置くものとして、これからある程度普遍的なポジションをキープするテーマは「意欲」だろうと考えている。その手前では「関心」も重要だ。ただ、年齢の低い子どもであればなおさら、意欲にはムラがあるし関心は刹那的。これに持続性を持たせることが次なる我が家の研究対象なワケだ。

教育コンテンツを見る視点として、コンテンツそのものに留まらず、そのやり方に着目すべきだと思う。子どもは、そのコンテンツを使って何を始めるのか?それは子どもの意欲や関心を向上させるに足るものか?外発的動機付けに依拠し過ぎていないか?

少なくとも、教育コンテンツの年間契約はやめた方がいい。価格的にいくらお得でも、1年間変えられないということは、確実にそれ以上のものを失うだろう。

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