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リディラバの会社紹介をしようと思ったら、思いの外こじれて「分断」について語る事になった

前職を退職する際、ご挨拶のメールをBCCで400人近く送信した。まあ16年も在籍すればそれなりに交友関係もできたなと自己満足した次第である。その中から、転職先を返信で質問して下さった方が40名ほどで、その40名の中で社名を知っていたのは2人だった。
「リディラバ 」という会社である。
言いにくい社名だと思う。電話で名乗るとかなりの確率で聞き返される。何回言ってもうまく発音できなくなれば飲み過ぎのサインだし、爆風スランプのリゾラバを連想したあなたは高確率で私より年上だ。そんな会社に7月に中途入社している。
何をしている会社?と聞かれると、正確に全容を理解してもらうには時間がかかってしまう。何せベンチャーなのに事業部が既に4つ(法人事業部、教育旅行事業部、地域協働事業部、メディア事業部)あるのだ。理念は「社会の無関心を打破する」である。社員数は非公開だが、おそらくこれを読んでいるあなたが想像した数の半分以下である。もしあなたが一般に、一事業に割く人員のイメージがついているなら、その1/4くらいかも知れない。どこを切り取っても変わった会社。だから入社したのだけれど。
「何をしている会社?」と聞かれた時、私なりに自分で納得のいく説明をするなら「社会の分断を繋ぐ事業で、社会そのものを変えていく会社」と言うだろう。この「分断を繋ぐ」という考え方が、最近専らお気に入りなのである。


21世紀になってはや20年が経とうとするのに、未だ20世紀の呪縛は至る所に残る。例えば資本主義社会。大量生産大量消費のシステムやマスマーケティングは既に旧世代のモノだ、なんて、最近主張する人が増えこそすれ、本当にそうなのか、企業の振る舞いを見ればすぐ分かる。明らかにシステムとして古いが、そこから脱するには至っていないのが今ここ現代なのだ。この大量生産大量消費システムは、単位時間当たりの効率を限りなく上げる方向へ進化する。結果生まれた最良の仕組みが「分業」である。人は同じ作業を繰り返す事で習熟し、効率が上がる。この「同じ作業」の範囲に幅はあるが、20世紀型資本主義社会の下では、全ての仕事は分業された結果生まれている。
夕飯の食卓にキャベツの千切りがあったとしよう。それは分業の結晶としてそこにある。最初の分岐は、そのキャベツの千切りを卓上に運んだのは誰か、から始まる。盛り付けたのは?千切りしたのは?キャベツを買ったのは?スーパーの棚に置いたのは?スーパーにトラックで納品したのは?スーパーに卸したのは?市場で競ったのは?市場に卸したのは?収穫したのは?(端折るが)生育したのは?タネを売ったのは?タネを作ったのは?…とここまで、全て自分でやったという人はほとんどいない。最大11人、最小4人が分業している。資本主義社会は分業を促進する。
同じように、例えば家庭での役割も夫婦で分業された。学校の役割も、幼保小中高大で分業された。「みんなで豊かになろう」という高度経済成長期に添ったモデルである。自分の持ち場を守り、最速で最高の成果を次の工程へ渡す。その事が社会貢献そのものだった。しかし今は、先進国として豊かになった後の時代。その時出てくるのは、分業のメリットではなく、弊害である。
分業すると、その経験からそれぞれに価値観が作られる。経済的に家庭を潤そうとフル回転で働くお父さんには、仕事を通じて身につく価値観がある。経済的な保証がある上で、家庭を充実させようとフル回転で働くお母さんには、家事やママコミュニティを通じて身につく価値観がある。分業が価値観を分かち、不和を生む事例は後を絶たなくなる。
営業と製造、開発の部署間対立も同じ。後工程の価値観に従わざるを得ないのは小中高大の学校で顕著だが、課程間の接続は長く問題視されている。
そしてそれを修復すべく、会社は機能別組織から事業部制へと移行するし、学校は高大連携を叫んだり、中高一貫校を作ったりする。イクメンの誕生は家庭内分業の破綻である。
そしてここまで分業が生む分断に関心が集まると、そこかしこにある分断がようやく目に入ってくる。
例えば待機児童の問題。一般には保育所を増やせば良いとされる。しかし、実際に子育てする立場を経験すると、保育所の増設だけでは不十分に見える。保育所が増えると、その地域へ転入者が増える。たちまち起こるのは保育士不足。新しくできた保育所の労働環境は過酷だ。次に起こるのは病院不足。保育所は大なり小なり病気の感染源であり、小児科は常に混む。休日診療所も混む。そしてここでも過労問題が出てくる。全て子どもに関わる事だが、分業の上に成り立っているので連携し難くなっている。
例えばフードロスの問題。結構取り沙汰される事が増えたので、もはや食べ残しやめよう的な話ではないという認知は広がっているとは思う。ここでも分業がもたらす必要悪としてのフードロスが、サプライチェーンの各所に存在している。中でも農産物の生産現場でのフードロスは問題の根が深い。日本昔話の世界では、豊作の年は農民が潤う幸せな年だった。全国にあるお稲荷様は全て五穀豊穣の神でもある。しかし、現代において豊作は「フードロス」の年になっている。市場が飽和するのだ。美味しい大根がたくさん取れた年は、大根が多く市場に出回った分、大きく値崩れする。人のお腹の容量は経年で大きく変化しないから、安い分多く売れるかと言えば限界がある。たちまち農家の収入が減る。これを防ぐため、農家は過剰に大根を市場に出さない。つまり、一定量は廃棄することになる。農家に捨てるな!と言ったところで、じゃあうちの収入減をどう補てんしてくれるの?となる。
その農家は農家で、より美味しく安全で見た目キレイな作物を作ることに情熱を傾ける。しかし、いくら美味しく安全でキレイな作物ができても、前述の市場原理には逆らえない。かける労力への対価が発生していないとも言える。このアンマッチが起こるのも、生産から流通、小売が分業化した結果、消費者が求める作物がどの様なものか、直接農家に伝わっていない事が要因の一つになっている。(続く)

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