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私はかつて全共闘ファンでした

Facebookのとあるグループで、とある方がちょくちょく全共闘の思い出を書いていらっしゃる。
バリストをやったり、警官隊に投石したり、団交で教授を吊し上げた思い出を楽しそうに書いていらっしゃる。「あれが青春だった」と。歳の頃からすれば75歳前後の方だろうか?
それを読むたびに私は切なくなる。
「投石や火炎瓶で負傷した警官の事も考えないのか?」という、たぶん左翼に批判的な人のコメントもあったりするが、私の思いはもう少し複雑である。
私は全共闘世代から十数年下の世代であるが、なぜか全共闘に強い憧れを持っていた。中学生の頃から妙に政治づいていたこともあるし、「されど我らが日々」や「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読んだ影響もあったのだろう。
そんな私の全共闘像が激しく崩れたのは、確か「全共闘20年」みたいな朝日ジャーナル(?)の特集だったように思う。
そこには、やはり「あれが俺たちの青春だった」みたいな告白がいっぱいあったのだが、「とにかくエネルギーが余ってたから、発散させたかった」「角棒を振り回し、火炎瓶を投げたらスカッとした」「全共闘をやってなかったら、暴走族をやってたと思う」みたいなのが目白押しで、愕然としたのだった。
私の頭の中に描いていた全共闘像は、高橋和巳の「全共闘運動は政治運動ではなく、正義運動だ」という言葉が中核となっていた。もちろん、高橋は、同じ本(たぶん「我が解体」)の中で、一流企業のサラリーマンになった元闘士に「マルクスはどうしたのかね?」みたいな皮肉も書いていたが、それでもベースとしては「正義運動としての全共闘、スチューデントパワー」というイメージがあったのだが、それがもろくも崩れ去ってしまった。ひょっとしたら、思想や信条なんかどうでもよくて、とりあえず大人に反抗して思いっきり暴れたかったのか? 残念ながら、多分そうだ。彼らの大多数は「造反有理」の立て看が、次の日に「八紘一宇」に変わっていても気づかない程度の些細な問題だったのだろう。
しばしば全共闘運動について「総括がなされていない」ことが問題とされるが、考えてみたら総括なんかできるわけがない。単なるストレス発散なのだから。せいぜい「気持ちよかった」「スカッとした」ぐらいだろう。
だからこそ、「イチゴ白書をもう一度」のように「就職が決まって髪を切って」来ることに葛藤などあるはずはなく(「青春が終わった」程度の感傷はあろうが)、彼らのほとんどが日帝、米帝の先兵となって行ったことも、必然なのである。(「さよなら怪傑黒頭巾」にそのあたりについてのことが書かれてあることに気づいたのは、しばらく経ってからのことであった)
しかし、考えてみるとものすごく罪深いストレス発散であったわけだ。例えば大学当局との団交においては、相手の「主体性」を糾弾し、自己批判を迫るのが常であった。主体性のかけらもない連中が、よくも他人の主体性を追及できたものだ。
もちろん、一部には真面目に額面通りに「正義運動」を行おうとした人々もいた。しかし、その人たちは、その生真面目さ故に「主体的」に苦しみ、葛藤し、自己否定や破滅の末路を辿った。高野悦子しかり、高橋和巳しかり。同列に並べるべきではないかもしれないが、連合赤軍事件で死んでいった若者たちも、全共闘運動を真正面に捉えていたという点では同じだろう。そして、肯定するものではないが、70歳を超えて未だにカップラーメンを食べながら潜伏し続ける○○派革命軍の闘士の存在も。
ただ、しかし、大衆運動や革命運動というものは、こういった「ストレス発散」派の多数をも巻き込まねば成立しないことも事実である。すなわち、ベクトルを定めない「体制への不満」のカオスなエネルギーなくしては、それらは成り立たないのだ。
故に、それらは時として革命運動となり、文化大革命となり、時としてファシズム運動となり得る。その意味では大衆運動や革命運動はポピュリズム以外の何物でもないし、それを制御する「革命的前衛」の存在は必然なのかもしれない。ただ、その「革命的前衛」の強大な権力性故に、その立場に立つ者は、決して高野悦子や高橋和巳ではないのも悲しい必然である。

そう言えば、同僚にも元全共闘の人がいたが、やはりご都合主義と無責任体質は共通していた。

進学教育、受験教育を強く否定して校長や進路部長を激しく糾弾していた人だったが、急に「自分の子供が受験生になると親の気持ちがわかった」と、平然と転向して進路部長になって過激な進学教育を始めたりした。おいおい、それぐらい初めからわかって他人を批判しろよ!と思った。

そして、当然、自分の過去の考えについては、総括も自己批判もしない。

彼らは、いつでも自分が正しく正義であり続ける。

そういうご都合主義の生き方が、多少羨ましくもあったが、そうなりたいとは思わなかった。

だから、最近よく耳にする、コンビニにおける暴力老人の乱暴狼藉についても、さもありなんと思う。あれこそが全共闘世代のなれの果てなのだ。


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