見出し画像

新本格ミステリーの映画化について

新本格ミステリーのオタクになる(涙)

「一生困らない金を与える代わりに映画鑑賞を禁止する」と、都合のいい悪魔に囁かれた私は、涙を流しながら「愛する妻と子どものために」と宣い、ライフワークとしていた映画鑑賞(と仕事)をスッパリと切り離し、延々と新本格ミステリーを読み漁る嘘泣きオタクになろう、というくだらない妄想が、時々私を元気にさせる。これは現在の住処へ引っ越し、猛烈に書籍スペースを失い、全ての新本格ミステリー本を処分した大いなる慰めにもなっている。それでも、話題の新作に新本格の息がかかっていると聞けば、すぐさまその本を買い、読み、友人にあげるという新本格ミステリ循環器としての役割をかろうじて果たしている。本題に入る前に、最近読んだおすすめの新本格ミステリーを紹介しておこう。『お前の彼女は二階で茹で死に』(2017)である。この本は、私にヘラヘラしながら友成純一を勧めてきた後輩女性に手渡しておいた。仕返しである。

新本格ミステリーの映画化

映画化原作としての新本格ミステリーはあまりに向いていない。向いていなさ過ぎる。そもそも新本格(本格もそうであろうが)ミステリーとは探偵役が事件を解決するというのが定義でもある。ここが見せ場でもあるのだ。この見せ場たる解決パートが「語り」というのが致命的である。探偵が人々を集めて滔々と語り出し、モノローグで事件の様子を繋ぎ、暴かれた犯人役が狼狽する…という一連の流れが映画に向いていない。人物は静止し、エネルギーの遷移もなく、紡がれる物語は原作の朗読となる。役者をこれでもかと揃えて、優良な新本格ミステリーを揃えたとしてもだ。監督のせいでは…?と疑う余地すらもない。もし新本格ミステリーの名作映画を思いついたのならば、その映画の面白いポイントは新本格ミステリーたるところにはない。翻案の妙により付け足された映画としてのエッセンスが底上げしているのである。名探偵コナンの劇場版が爆弾ばかりだ、などと馬鹿にしてはいけない。あれはヒッチコック『サボタージュ』(1936)に倣う映画の肝なのだ。

とある成功例

映画を知る人ならおおよそ誰にでも思いついていたであろうことを私が書こうとした理由は、他でもない。新本格ミステリーの解決パートを映画化する上で私の知る限り唯一とも言える成功パターンがあるからだ。ファスビンダー『シナのルーレット』(1976)という映画がある。車椅子の少女が仕掛ける謎のゲームが、家族たちがひた隠す心情を暴いていく。このルーレットゲームこそ、まさに新本格ミステリーの解決パートにぴったり。絶妙な位置に配置されたガラスと鏡、交錯する人々の目線、それらを完璧な位置で捉えるカメラが密室内を踊り狂う。この構図の気持ちよさ。どの程度事前に考えていたのか、もしかして現場で直感的に撮ったのか、などと恐ろしい妄想すらしてしまう。私は退屈な新本格ミステリーの映画化作品を観るたびに「ああシナだったらな〜」と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?