飯田龍太『山の木』
『山の木』(立風書房、1975年)は飯田龍太(1920ー2007)の第6句集。龍太51歳から55歳までの420句が年代順に収録されています。
本集からは、主体の日常生活に根付いた句をいくつか見出すことができます。それは繊細な感覚を伝えることもあれば、骨太な抒情や諧謔に転ずることもあるようです。
雪眠りゐる俎板のしづく垂れ
花つけて畦みな眠き帰省かな
水槽に大亀うかび春隣り
秋めくとすぐ咲く花に山の風
繊細でささやかな景をおおらかな言葉遣いで捉えることで、ゆっくりとした時間が流れるような句になっているようです。
大鯉の屍見にゆく凍のなか
冬深し手に乗る禽の夢を見て
紫蘇もんでゐる老人の地獄耳
うぐひすのこゑの智慧の輪古びたる
前二句のような厳しい抒情の句から、〈地獄耳〉の滑稽な句、〈智慧の輪〉の言葉遣いで不思議な世界を作り出す句まで、龍太の句の幅の広さを感じることができそうです。
とはいえ、龍太の本領は広々とした空間を書くことにあるように感じます。本集には〈かたつむり甲斐も信濃も雨のなか〉〈水澄みて四方に関ある甲斐の国〉といった有名句も収録されていますが、個人的にはそれよりも、
山あはあはと紅梅の彼方かな
朧夜のむんずと高む翌檜
貝こきと嚙めば朧の安房の国
のような、距離や立体感がより感じられる句に惹かれます。紅梅の近くからはるかの山を見ている一句目、朧夜のなか翌檜の高木を仰ぎ見ている二句目、貝の噛み応えを起点に朧夜の広がりを感じ取っている三句目、どれも主体と対象物との距離により、骨太な抒情が表出されています。
この遠いものへの抒情がさらに強くなるとき、龍太作品の時空間は歪み始めます。そこではふだんは出会い得ない二物が出会ったり、かなりの長さの時間が一瞬にして過ぎ去ったりするようです。
草木瓜の実に風雲のみ空あり
白梅のあと紅梅の深空あり
一句目、低木になる実であるところの草木瓜の実と風が強い空が助詞「に」を介してつながることで、風吹き荒れる大空が地面に接しているような、ある種異様な空間が立ちあがります。二句目は人口に膾炙した句ではありますが、白梅と紅梅の開花時期の時間幅が句に書き込まれつつ下五に空が描写されることで、本来もっとゆっくりなはずの時間の流れが異様に早くなるような感覚が生じるように感じました。
歪んだ時空間のなかにあって、主体の感覚はきわめて鋭敏になります。
涼しさに鳥が深山の声を出す
極月の大瀬を雨の通るなり
きらきらと山羊に小菊がこゑかけて
例えば、上の三句は聴覚が過度に働いている句と言えるでしょう。一句目、「深山の声」とはなにやら不思議ですが、ふだんの鳥声よりも鋭い、大きな声を思いました。二句目、句末の「なり」の効果か、川を雨が通過していくときの雨音が異様に大きく響いてきます。三句目にいたってはあるはずのない菊の声を聞き取ってしまっています。
秋冷のさだまる岸の深みどり
鶏白しにはかに菊の青蕾
群嶺群雲紫陽花の季なりけり
また、視覚もおそろしいほどの敏感さを示しています。一句目、川岸に近い川水の緑色に秋の冷えを見て取ったと解しましたが、「深」の一字がこの句の景に意外の鮮やかさを与えています。二句目、鶏がにわかに蕾の菊の前に至ったということだと思いますが、白と青の対比があざやかです。三句目、「群雲」にまで紫陽花の季節の到来を見てしまうこの感覚は、研ぎ澄まされた視覚を感じます。
そして、この時空間はまばゆいばかりの光に満ちているようです。
冬果てなむと雪光は宙にあり
蛇岩に垂れ水光は夏のいのち
白波に松毬うかび春の昼
特に二句目は「夏のいのち」とまで言ったことが手柄で、主体自身の生命が、岩に垂れさがる蛇を起点に、外界と共鳴しあうような感触があります。この、特異な時空間のなかでの研ぎ澄まされた感覚、まばゆいばかりのひかりが印象的でした。
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ところで、龍太の作品を考えるうえで、風土なるものをどのように捉えるかは重要な論点だと思います。例えば、山本健吉は龍太作品を評して次のように述べています。
しかし、私には、『山の木』に書かれている時空間は、現実の土着性に基づいたものというよりも、言語によって作られるきわめて抽象的なもののように見えます。これはあるいは私が都市生活者で、龍太のように自然に密着した生活をしたことがないからなのかもしれないけれど、とはいえこれまで確認してきた伸縮自在の時空間において研ぎ澄まされる感覚は、やはり土着性や風土という評語によっては捉えきれないようにも感じます。現実にはどこにもない世界、言葉によってその輪郭が作られるある種の異界のまばゆさにひととき遊ぶことのできるような句集でした。
なお、引用は『飯田龍太全句集』(角川ソフィア文庫、2020年)に依っています。