見出し画像

絵を見にゆく(散文)

高校の文芸部の同期と一緒にネットプリント「錨」を作成しています。第1号を昨夏に公開し、昨年末に第2号を公開する予定だったのですが、参加者がそれぞれ忙しく、気付けば公開しないままに年度を跨いでしまいました。編集責任者と相談した結果、新たに作成するのであれば原稿も改めた方がよいのではという話になり、準備した原稿を破棄するのも勿体ないように感じたので、第2号に掲載する予定だった散文を加筆修正のうえこの場にアップします。拙い散文ではありますが、ご興味のある方がもしいらっしゃればご笑覧いただけますと幸いです。

「モネ 連作の情景」展(2023.11.08)

立冬は過ぎたはずだったのに生暖かい日が続いていた昨年11月、大学の友人と一緒に、上野の森美術館の「モネ 連作の情景」展を見に行きました。国内外の美術館から厳選したクロード・モネの作品を通じて画家の生涯に迫るというコンセプトで、特にモネの「連作」がフィーチャーされています。「積みわら」や「睡蓮」といった有名な作品も展示されており、それらももちろん良かったのですが、個人的には海辺や草原などのさりげない光景をスケッチしたような風景画に惹かれました。それらの作品には人が描かれない場合が多く、描かれていても風景画である以上主題にはなりえないのですが、それでも構図の取り方から、その風景を見ている人(画家自身であるかもしれないし、ほかの人かもしれませんが)の気配は濃厚に漂ってきます。その気配を感じつつ描かれた風景を眺めるという体験に、普段の生活にはない安らぎを得ることができました。

モネ展に限らず、大学生になってから美術館によく行くようになりました。浅学な自分には美術史の知識や観賞の技術といったものはなく、したがって展示室を漫然と回って「この絵は好きだな」「この絵はピンとこないなあ」などと考えながらひとつひとつの作品を眺めるくらいしか楽しみ方がないのですが、それでも美術館を訪れる経験を何度か重ねると、好きな作品とそうでもない作品の区別くらいはつくようになります。自分の場合、やはり風景画には好きな作品が多いようです。気に入った風景画を眺めていると、自分自身がその風景のなかに佇んでいるような気分になってきます。そうすれば、あとは満足がいくまでその絵の前を眺めるのみです。そうやってひとつの絵を長い時間ぼんやりと見ていると、普段の生活でたまった淀みというか、社会生活を営むなかで自分に付加されるさまざまな属性が洗い流されて、絵に対峙する鑑賞者としての自分が顕在化してくるような感覚になってくるのです。

最近、自分が読んでいてよいと思う俳句はこういった絵に似ているような気がしています。さりげない素材がシンプルな措辞で書かれていて、ギラギラしたところはひとつもなく、一見すると平凡に見えるのだけれど、その実何度も読み返してその作品世界に浸りたくなるような句。ここで、句の作者の所属はまったく関係ありません。また、鑑賞者も社会的な属性や俳句界での所属に関係なく、その作品世界に好きなだけ耽溺すればよいのです。私の師である小澤實氏は〈春更けて諸鳥鳴くや雲の上/前田普羅〉について、「繰り返し誦して、思いを春深き山中に遣る。そして、木々の間にさまざまな鳥の声のさざめくに思いを馳せればそれでよいのである。この句の世界にしばし遊ぶことができればいい。」と書かれていますが(小澤實「俳句は謙虚な詩であるー俳句個性考」『セレクション俳人5 小澤 實集』邑書林、2005年、103ー104頁)、愛誦されるに足る強度をもった句というのはこういったものなのではないかと思うのです。

ほんとうは、自分の句もこうであってほしいのですが、措辞ばかりが先走ってしまい、なかなかうまくはいかないようです。