「なあ」
 歩が太一を見る。
「あ?」
 太一が歩を見る。
「なににする?」
「なにが?」
「夏休みの宿題」
「ああ」
「座右の銘ってやつ」
「全然決めてない」
 歩が立てていた足を伸ばし、
「そもそも座右の銘ってなんだよ」
「それな」
「四字熟語みたいなこと?」
「別に四字熟語じゃなくていいんじゃね」
「え、てゆうか座右の銘ってなに?」
「なにって言われても」
「モットーみたいなことかな…」
 歩は川の向こう岸に、女が一人立っているのに気づく。制服を着ているので、どこかの高校の生徒のようだった。少なくとも、自分らの高校ではない。その女子生徒は、こちら側に体を向け、佇んでいる。歩は太一に、
「なあ」
「なに?」
 顎で向こう岸を差す。
「女子」
「お、ほんとだ」
「俺らのこと見てんのかな」
「いやあ」
「手振ってみる?」
「え、お前やれよ」
「俺か…」
 歩はわずかに手を挙げ、一度前髪に軽く触れ、軽く振ってみた。すると数秒のち、女子生徒も手を挙げ、こちらに手を振ってくる。歩と太一は顔を見合わせ、
「おお…」
 太一が、
「しかもめっちゃ美人、スカート短いし」
「お前、話しかけてみろよ」
「おお、俺か…」
 太一が立ち上がる。尻に付いた雑草を手で払い、両手を口の端に置き、
「え、ちょっとなんて言えばいい?」
 歩を見る。
「どこ高とか」
 腹に力を入れ、
「どこ高~~?」
 しばらく立っても反応はない。歩が、もう一回、と促す。ふたたび腹に力を入れ、
「どこ高~~~?」
 やはり反応はない。歩が、
「まず俺らが名乗るべきか」
 歩も立ち上がり。
「俺ら、西高! サッカー部! 君は?」
 反応はない。太一が、
「聞こえてないのかな?」
「いやあ、聞こえてるだろ」
 歩はもう一度手を振る。すると女のほうも、手を振り返してくる。歩はその手を高く上げ、大きく振ってみる。女も大きく振り返してくる。心なしか、笑っているように見えた。歩はふたたび、
「名前は~? おれ三浦!」
 太一が横で、
「名字かよ、とツッコむ」
 しかし女は言葉を返してこない。
 太一が、
「もしかして、耳聞こえないのかな?」
「いやあ」
「あるいは喋れないとか」
「いやあ」
「確率は低そうだよな」
 二人は、
「どこ高~?」
「名前は~?」
「この辺住んでるの~?」
「いま一人~?」
「何部~?」
 質問を重ねていくが、ことごとく反応はない。すると太一は思いついたように、
「なあ」
「ん?」
「座右の銘は?」
「え?」
「そんなん訊いてどうすんだよ」
「知らんけど」
「まあいんじゃね」
 太一が、
「ねえ、座右の銘は~?」
 すると女は小さくうなずく。
「お?」
 歩と太一が目を合わせる。
 女は、小さく一歩踏み出し、それから川表まで歩いてくる。両手を口の端に置く。おい急げ急げ、と二人が川表に寄っていく。川の流れる音が、耳の底に届く。女は近くで見ると、やはり美人だった。歩、太一、それぞれ目が合う。二人は女の口元に意識を集中させる。女の口がゆっくり動く。だが川の音が被さり、声が聞こえない。
「もう一回!」
 歩が言うも、女は小さく首を振る。それから背中を向け、行ってしまった。歩が、
「マジかよ」
「わあ、行っちゃった」
「お前聞こえた?」
「いやあ」
「花園、花園って聞こえなかった?」
「花園…、ああ聞こえたかも。あとさ、待っている、って」
「ああ」
「てことは、花園で待っている?」
「いやあ、もう少し長かった気がした」
「なんだろう」
「なんかのセリフ?」
「わかんね、文学とか? 詩?」
「詩と文学って違うの?」
「ぜんぜん違うだろ」
「なにが違うんだよ」
「よく分かんねえけど」
「え、座右の銘って、文学?」
「いや関係ないんじゃない?」
「そっか」
 二人は向こう岸を見つめる。それから顔を左右させ、なんとなく橋を探すが、どこにも見当たらなかった。

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