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文フリ! 感想!

 はじめて文フリに行ったときは、知人・友人など一人もおらず、ただただ会場の熱気に圧倒されるだけだったけど、今回は何人も知っている人がいて、人波に揉まれながらも、なんとなく安心できる空間になっていた。なんというか、必死に売り込んでこない感じがいい。会場には外のベランダのような逃げ場もちゃんとあり、疲れたらそこに避難をして、近くのローソンで買ったグミや持ち込んだヴェルタース・オリジナルを食べてたりした。
 ほんとうはもっと買いたい本があったけど、読みきれないだろうなと思い、最低限の冊数を買うことに。

『いつか食べきる予定のアイス』(深澤うろこ)を読んだ。どの作品もそうだが、会話が面白い。地の文から会話に移るとき、ふつうはエンジンかけて、ゆっくり速度を上げて、とやりがちだけど、いきなりアクセルを踏んで本旨に入る感じ。表現にも抜かりなく、ため口で話し合うような関係でも謝るときだけ敬語になっちゃうところとか、全然話聞いてないけどとりあえず返事しちゃうときの「うん」とか、愛あるつっこみとしての「殺す」とか、低体温のやりとりだけど、心地のいい熱がある。すぱん、すぱん、と野菜でも切るみたいにやりとりが進んでいくが、少しでも自分の思ったニュアンスと違う言葉が出てしまうと即座に内省する。言葉を発して回収する、この自己完結、というかある意味で読者を巻き込まないかたちでの循環というのが、見ていて大変ここちよい。物語はというと、どこか日記のようで、天気のことを考えていたと思ったら友人との日々を考えていたり、幼かったあのころの家族との思い出に浸っていたり、雑多な脳内を、そのまま開いて見せている感じ。ぶつ切りになるところ、厚みをもたせるところ、このバランスが絶妙だった。とくに好きだったのは『流れる』。「私」がかわいいし、それに対する「ワタチ」の突き放し方もいい距離感、あとマジで「大きな川見に行く」ってなんだよ。

『夢五十五夜』(白湯ささみ)。文脈なく「森本レオ」が出てくる感じとか、目の裏にぶどうの皮が入ってしまったもののそれとは関係なく物語が進む感じとか、芸能人と相互フォローになる感じとか、わあ夢だ~と思いながら、読んだ。たぶん夢って、実際の時間にするともっと長く見てるんだけど、それをこの短文でまとめて、整然と目の前でつづられると、こんなにも馬鹿っぽくなるのかと思った。あと自分の夢と明らかに違うところは、固有名詞が出てくるところ。自分の夢に出てくる有象無象には基本的に名前がないので、「雛さん」「黒瀬あかね」「兜木兜子」など次々出てくるところが、新鮮だった。二十九夜と、四十二夜がとくに好き。

『二度と会わないはずの人』(同上)。実際にあった話ということだが、これもどこか夢日記のようだった。古びた寮に泊まって、部屋にはテントが張られていて、夜中に川に行って、変な友人が「イムジン川」を弾き始めて…。不思議な、面倒くさい「縁」を避けようとしつつも、どこかで求めてもいて、結局その中心に巻き込まれてしまう筆者の宿命みたいなものも感じ取れた。個人的には「タキくん」がもっとも気になった。朗らかで、軽い足取りで人生を歩んでいる感じの彼の中にある空洞みたいな部分、あれは一体なんなのだろう。

『親も子も、愛せなくていいんだ』(作田優)。筆者が父を諦め、いまとなっては「無」「物体」であるからか、出来事がとにかく淡々と綴られている。そこに執着する様子もなく、文章が整理されていて、物語としても非常に読みやすい。とにかく面白い。作中に引き込まれながら、筆者と父の関係に過度な感情移入をすることもなく、一定の距離感を保って最後まで読めた。出来事と感情が絡み合うことなく、出来事は出来事、感情は感情、という書き方がされているのも、それらに貢献していると思われる。また、たとえば遺書の上に置かれたペットボトルを、「アクエリアスの」とまで書くようなディティールが全体にわたって根を張っていて、そこが読者の、没入のフックになっているような気がした。淡々としている、だからこそ、最後の「逃げること、助けてと言うこと」「言うんだ」「その一歩で変わることはたくさんある」という、筆者の作中における最初で最後の主張が、鋭く、強く、届いていくのだと思った。

『汀心』(芥川心之介)『未解決未発生事件』(杉森仁香)は、ホワイトボードを使いながらみなで相関図を書く、というのを酒でも飲みながらやりたい物語だった。証言が、当時子供だった人→その地域に長く住んでいた人→市長というふうに流れていくことからして、大人が子供の持っている真実を隠蔽していく話のようにも読めたが、ぜんぜん違うのかもしれない。あくまで「未発生」なのだから、本当に発生していなくて、各々記憶の錯誤、あるいはなにかしらのポーズに基づいて証言しているだけの話なのかもしれないし、それはそれで面白い。『共棲のレッスン』(不浦暖)。夢の中にいるような物語が、ぎりぎりのところでリアリティを保っているのは、食に関する描写が秀でているからだと感じた。食をフックに没入していく物語と言ってもいいかもしれない。目玉焼きを噛むたび蜘蛛がうごめく、その不快さが、最初から最後まで続いている。『ミックロンソンおばけ』(長澤沙也加)は、「恐怖」と「可愛さ」のバランスがとてもいいと思った。床下に生首はあるが、テーブルの上には少女がいるし、まやちゃんはフライドポテトを食べている。ちんくんは、女の首を狩るらしいが、でもその生首が床下にあることを知らない。たぶん生首はずっとニコニコしている。あと会話が面白い。「一生絶対一緒に住めないと思う」に対しての「一生一緒に絶対一緒に」の復唱のところとか。『サラムン』(芥川心之介)は、『☓没』を思わせる感じで嬉しかった。『☓没』のときは、フレーズの重複、描写の上塗りが面白かったけど、今回は状況そのものが面白い。『☓没』のときは一気に「状況」が明かされた感じがあるけれど、今作は、三歩進んで二歩下がりながら明かされていくから、早くしろよ、と思いながらも、その感じを楽しめた。なぜそんなにもゆっくりなのかというと、主人公の思考回路が、樹形図を描いて、描き切ったあとでそのひとつひとつを吟味し、可能性を精査していくような感じだからなのだけれど、その描写にも中毒性がある。『☓没』でいう「サジリングドスペースさん」(だっけ?)みたいな語感の面白さもふんだんに味わえて、とくに「サマーサヘハン」が好きだった。なぜそんなに『☓没』と較べるかというと、『☓没』が好きだからです! 『「哭悲 THE SADNESS」はゾンビ映画にあらず』(山本雨季)。哭悲、気になってたんですよねえ。自分は『新感染』を観たときに、あまりにゾンビゾンビした感じに辟易してしまい、それ以来韓国のソンビ映画は観ないようにしてたのですが、これはどうやら違うらしい…。観るかもしれないし、観ないかもしれません。とても読みやすい、好感の持てる文章でした。

『VACANCES』(原航平、上垣内舜介 編)。なんか全部よかった。『ただ7分のための準備』(布施琳太郎)の最後の「はじめまして、寝るところだった?」のぶつ切り感は清々しいし、『それぞれの文芸 われわれの抵抗』での島口大樹さんのスランプ(ゲシュタルト崩壊)はきっと対象に向き合っている人ほど起こる現象でまったく人ごとではないし、『all-night screening』(縞馬は青い)は、普段読んでる小説ではあまり見られない、映画のようなプツリ、プツリ、という細切れのシーンの切り替えが心地よかった。最後の『あれってなんだったんだろう』も地味によくて、上垣内さんの「blank」のよく分からない人とのよくわからない一時なんて誰にでもあることなんじゃないかなあ。「待つ」って一体なんなんだろう…。僕は、たとえば大好きな人に会うとか、めちゃくちゃ楽しみなイベントがある、ってときに、その前日くらいまでは楽しみ度が等加速度的に膨れ上がっていくものの、当日の朝とかになると「ちょっとだるいな…」となってしまう現象が起こるんですよね。あれってなんだろう。「待つ」ことにエネルギーを使いすぎて、ガス欠を起こしているのかな、とも思ったりしました。

今回、いろいろな方のいろいろな作品を、それも「小説」「日記」「エッセイ」「短歌」など形式をまたいだり往復したりするように読んでいたので、日記を小説として読んだり、小説をエッセイとして読んだり、といった奇妙な状況になりました。それでも楽しく読めたのは、けっきょく形式による垣根なんてそんなもので、そういう意味で、文章で作られたひとかたまり、総体を、自分も自由に書いていきたいなと思いました。

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