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ミンダナオ紛争を知ろう②

ミンダナオ紛争を知ろう第2弾です!第1弾では植民地時代までのミンダナオの概要を説明しました。今回はフィリピンの独立後、現代に至るまでの各政権のミンダナオ統治政策について触れていきたいと思います。
ここから新たにイスラーム系の反政府組織「MNLF」というアクターが誕生し、国家とクランの関係軸に変化が訪れる重要な局面です。国家の排他的な政策とMNLF(MILF)による統治実践がどのようにクランの人々に影響を与えたのかを説明していきます!

独立後のフィリピン統治(1946年~)

まずは独立後のミンダナオがどのような状況であったのかをまとめていきたいと思います。フィリピンは1946年にアメリカから独立します。1946年は第二次世界大戦終戦の次の年ですね。

ムスリムとキリスト教徒

しかし植民地時代の入植プログラムにより、ミンダナオに入植したキリスト教徒が持ち込んだ近代的なシステムが、経済的・政治的にムスリムを追い込んでいきます。ムスリムにとってはいきなりよくわからない近代的システムにより土地を奪われ、雇用や教育の機会で劣り、数では圧倒的に多いはずなのに肩身の狭い思いをすることになったのです。一方キリスト教徒はムスリムを無法者として扱い、土地などを巡る暴力や不正義が横行します。このようなムスリムの構造的な排除を国家に訴えることもできず、一部のムスリムの武装化、暴力化を進めてしまいます。

政府はこれを受けて何とか治安回復を行おうとしますが失敗を重ね、MNLFの原点となる近代的な教育を受けたクラン出身のエリートが出現します。こうしたクランが権威を高め、ムスリムの権利拡大のための政治活動を行い、フィリピンからの分離独立運動へとつながるのです。

MNLF発足

モロ民族解放戦線(MNLF)は、主にマニラで教育を受けたムスリム青年や、中東諸国のイスラーム教育機関で学んだムスリム青年を中心に、1971年に正式に発足されました。彼らはフィリピン国民やキリスト教徒を「他者」とし、南部フィリピンのムスリムを「モロ民族」と定義しました。つまり今まで「フィリピン・ムスリム」という”フィリピン国民の中の少数派”という位置づけから、政治性を持ち、共通の歴史、社会などをもつ誇り高き民族として「モロ」を自称するようになるのです。
ここでのポイントは、ムスリムといっても実際には13の言語集団に分かれ、歴史的に見ても同じ共同体に属していたことがなく、一括りにはできないことです。彼らは多様な民族を包摂し、政府とキリスト教徒に対抗する名称が必要だったのです。
MNLFは政府の協力者となった一部の伝統的クランを批判するもの取り込み、支持層を拡大していきました。さらに世界のムスリム諸国と外交を展開し、政府のムスリムに対する不正義を国際的に知らしめ、フィリピン・ムスリムとしての正当性を高めることに成功します。その後ムスリムが多数派のマレーシアやOICからの財政支援を基に、MNLFは軍事活動を展開していきます。


マルコス政権期(1965~86年)

ではここからは詳しく各政権ごとの国家-MNLF-クランの関係の変化を見ていきましょう!

マルコス大統領はMNLFの軍事抑圧を図る一方、有力クランの取り込みを強化し、ムスリム間の分断を行いました。どこかで聞いたと思ったら、アメリカの植民地時代と同じことをしていますね、、、
クランを利用することでクランに従属する市民へ統治の正当性示し、MNLFの弱体を試みた結果、ムスリムは ①政府へ協力する人々 ②分離独立には反対するが、ムスリムの不満にも共感する人 ③MNLFへ加入する人 などに分かれていきました。
このようにMNLFの弱体化には成功しましたが、政府のMNLFに対するあまりにも残虐な軍事抑圧はムスリムの政府への憎悪を醸成します。

和平合意

こうした国内の事情がありながら、外から政府とムスリムの和平をもちかけたのがOIC(イスラム諸国会議機構)です。1976年にMNLFと政府は停戦とミンダナオの13州の自治に合意する和平協定(トリポリ合意)が結ばれました。しかし紛争が終結して勢いを失ったMNLFはさらに内部分裂し、もはやミンダナオの自治どころではなくなってしまいます。マルコス政権の目論見通り、ミンダナオはMNLFの自治とは名ばかりの行政区になりました。和平交渉は膠着化し、政治的解決は困難と思われる事態が続きます。

時を同じくしてMNLFのミスアリがトリポリ合意を結んだ一方、同じMNLFに所属するサラマットは合意に反対し、1984年にMNLFから分派したよりイスラーム性の強いモロ・イスラーム解放戦線(MILF)が公式に設立されました。


アキノ政権期(1986~92年)

国民から圧倒的支持を集めて誕生したアキノ政権は、文民優位の立場から脱マルコス、国民和解などを掲げ、ミンダナオ問題の解決に積極的に取り組もうとしました。

2回目の和平合意

OIC仲介の下再びMNLFとの和平交渉を開始し、1987年にはジェッダ合意を結び、ミンダナオの完全な自治の付与を協議しました。しかしMNLFの改革派とMILFはこれを拒否し、政府への武力攻撃が再開します。その上MNLFとのミンダナオ自治に関する話し合いも成立しなくなり、MNLFは和平交渉から離脱し、再び武力衝突と和平交渉の膠着状態が続くようになりました。そこでアキノ政権は、大規模な戦闘の抑止を図るために和解プログラムを導入し、MNLFの兵士を政府側に取り込む宥和政策を行いました。
あれ、ここでも仲間割れ大作戦ですか?と思いますよね。アキノ政権下でも結局はマルコス政権下の政策と本質的に変わらず、MNLFの制圧にも程遠い結果に終わりました。

ARMM政府の創設

アキノ政権は新しい和平の取り組みとして、ミンダナオの自治に関する新憲法を制定し、1990年にARMM(ムスリム・ミンダナオ自治地域)政府を設立しています。しかしMNLFもMILFも参加を拒否し、住民投票の結果もミンダナオ13州のうち4州のみの加入で発足されました。そこでは政府が取り込んだ伝統的なクランが選出され、行政管理を行っていましたが、汚職や不正により人々の生活状況は改善することなく、結果としてモロ社会からの信頼を失いました。


ラモス政権期(1992~98年)

ラモス政権においてもMNLFとの和平交渉に着手しました。ここでは住民参加型の和平プロセス「和平への6つの道」を打ち出し、一般住民の和平への意識向上や指示拡大につながりました。

3回目の和平合意

ラモス政権は膠着状態にあった和平交渉を進め、1996年に最終和平合意の締結に成功しました。MNLFは30年に及んだ武装闘争を放棄し、初めてフィリピンの国家体制に正式に組み込まれるようになったのです。さらにMNLFリーダーのミスアリはARMMを受け入れ、ARMM知事に就任しました。
ではなぜここで成功したのか?といいますと、ラモス政権が秀でて素晴しい政策を行ったということでもなく、MNLFが政治的妥協を余儀なくされたからです。今までMNLFは政府の軍事抑圧+宥和政策という”アメとムチ政策”によって、ムスリムの分裂やMNLF内の権力闘争を引き起こし、組織を弱体化させていました。それに加えて、実はミスアリは海外にいたので組織の統一を図ることが難しく、忠誠心を獲得することができなかった事情もあったのです。こうしたことが重なり、MNLFは有力クランと政治的にも競合する立場に置かれたので、所謂仕方なく合意することになりました。

MILFとの新たな和平交渉

最終和平合意によってミンダナオ問題は解決し、めでたしめでたしとはいかないものです、、
MNLFの代わりに、今度はMILFがMNLFの和平路線に幻滅したムスリムの参加を得て、勢力を拡大させていきました。さらにこの勢いを後押ししたのが、ミスアリがARMM知事に就任した後も続いた汚職です。ARMM政府と同時にMNLFの政治的正当性が低下し、それに呼応する形で、MILFが政府の一貫性に欠けた和平政策に対し、「バンサモロ」という新たな言説の下で政治的正当性を高めていくのです。

いよいよ複雑にアクターが絡まりややこしくなってくるので、ここまでの相関図を簡単にまとめておきます!

ミンダナオ紛争:前半の相関図


MNLFとMILFのちがい

本格的にMILFが動いていく前に、MILFはMNLFと何がちがうのかを明らかにしておきましょう!
MILFの目的は「不法かつ不道徳に略奪されたバンサモロの人々の自由と民族自決を取り戻すこと」であり、フィリピンからの独立とイスラーム国家の建設などを目指しました。MNLFと目指していることは同じように見えますが、MNLFが世俗主義であるのに対し、MILFは政教一元のイスラーム国家建設を志向している点に違いがあります。
またMNLFがモロというアイデンティティを定義した一方、MILFは新たに「バンサモロ」「民族自決」という和平プロセスにおける言説を構築しました。つまり政府とMNLFの最終和平合意はあくまで政府にとっての「ミンダナオ問題」を解決するものであり、民族自決の正当な権利の侵害に関する「バンサモロ問題」を解決するものではないと主張しています。
最後にMILFの特徴には、組織として政治的正当性の根拠があることです。国際規範を適用することで「バンサモロ」への歴史的不正義と主張の正当性を国際社会に訴え、平和構築を具現化することで支持を得ていました。

続いて、エストラーダ政権から現在のドゥテルテ政権までのミンダナオ地域に関連する政策や対応について見ていきたいと思います!
ミンダナオ紛争は複雑化しながら長期に渡り続きました。そこには分離独立を求める戦闘だけではなくクラン間での抗争がありました。つまり「政府VSミンダナオのムスリム」という分かりやすい単純な構造ではなくムスリムも一枚岩ではないという状況があったのです。


エストラーダ政権(1998〜2001年)

エストラーダ政権時には、フィリピン政府とMILFが和平交渉を続けながら衝突と停戦合意を繰り返すということが行われていました。そして2000年、政府はMILFとの全面戦争を始めます。これは国民からの支持率回復の思惑から行われたものでした。しかし泥沼化の様相を辿り、大量の避難民が出てしまいます。
つまり紛争の平和的解決に向けて真面目に取り組むどころか、エストラーダ大統領は私益のためミンダナオ問題を利用したのです。MILFとの停戦合意は次の政権へと持ち越されました。
そしてこの時期からクラン間抗争が頻発するようになっていきます。ここで少しその概要と影響について述べたいと思います。

頻発するクラン間抗争

クラン間抗争は経済や政治的な理由だけではなく、殺人や不名誉を被ったことに対し報復するという意味合いを持ちます。国家の統治が届かないところで行われる社会管理の仕組みと言えます。「やられたらやり返す」ものと考えると分かりやすいかもしれないですね。
また、その過程ではクラン有力者が警察や国軍などにメンバーを送り込むということも行われました。つまり、【クランメンバーを含む国家暴力VS敵対するクラン】という構図でクラン間の抗争が展開されたということです。そうすることでクランにとっては地位の獲得にも繋がります。
時には政府からの武器供与も行われました。国家の統治が行き渡らない地域の治安維持の名目で武器を入手するというわけです。わかりやすく言えば、国家の治安部隊=クランの私兵団になるのです。国軍と反政府武装組織という対立軸にクランが関わると…どうでしょうか。頭が混乱しますよね。まさに紛争が複雑化する要因はここにあるのです。


アロヨ政権(2001〜2010年)

アロヨ大統領は、当初はMNLFとの和平を進める姿勢をとり、前政権時に全面戦争となったMILFとも和平交渉を行いましたが、融和政策をとったり強硬姿勢をとったりと方針が二転三転しました。
行われた和平交渉の特徴は、マレーシアといったOIC加盟国やアメリカなどの国際社会に仲介によって行われた点です。日本も関与していますよ。しかし、アメリカの「テロとの戦い」を支持し反テロリズムの姿勢を強めた時には、MILFとテロ組織との連関性が指摘され和平交渉は停滞しました。

また、平和構築のための制度整備も行われていました。この辺りでは既にMNLFに代わりMILFが将来的に統治を行う方向へ向かっていっています。政府はMILFとの交渉を経てバンサモロの領域確定と統治に関する合意に至り、MILF主導の自治について準備が進められました。しかし、これに反対の声が上がることで再度和平は遠のきます。反対した中には少数派になることを恐れるキリスト教徒に限らず、伝統的クランも含まれていました。その背景には彼らが国家に組み込まれる事で権力を保っていたということがあります。

アンパトゥアンとの結託

さらに、アロヨ政権時はARMM政府=アンパトゥアン政権(2005―2009)との関係が特に強化された時期でもあります。弱い政権基盤の強化と権力維持のため政府とARMMの政権が結託する構図が生まれました。

アンパトゥアン・クランとは、初めてミンダナオにイスラームを持ち込んだ人物の末裔とされる、中部ミンダナオの伝統的クランです。両者が結託した理由はいくつかありますが、一つには、アロヨが父アンパトゥアンに「好き勝手させる」ことと引き換えに大統領選挙に向けて集票力を利用したかったという国内政治的な理由です。
元々アロヨ大統領に政治的資本がなかったこともありますが、フィリピンでは地方票が国政選挙の結果に大きな影響を及ぼします。これはポスト・マルコス期に地方分権化と民主主義が進んだことに起因するもので、選挙での勝利のために権力のある地方の有力者に頼るという構造ができているのです。
二つ目は、国際情勢的な背景として同時多発テロ事件以降アメリカが行った「テロとの戦い」においてアロヨが同調路線をとっていたことがあります。前述の通り、この時MILFはテロ組織との関わりを指摘されます。そのため政府は停戦合意はあったものの再びMILFとの全面戦争の宣言にまで舵を切り、その反対にアンパトゥアンとは結託したのです。まさに、敵の敵は味方の法則ですね。
 

MILFとアンパトゥアンの関係性

さらに、アンパトゥアンの長男殺害を政府がMILFの犯行だとし、アンパトゥアンとMILFの対立関係が形成されたことも政府(アロヨ政権)とアンパトゥアンが結びつく理由となりました。その後アンパトゥアン・クランはARMM内で支配を強めていきます。
例えば大統領はARMM知事選挙で与党候補として息子アンパトゥアンを立てました。自身の権力維持のため以前から政治取引をし、その集票力に助けられた大統領はアンパトゥアンに借りがあるからです。
このように、政治資本が不十分だったアロヨ大統領は政権維持のためにクラン取り込もうとし、彼らに権威を与えるような政策をとったのです。

帰結としてのマギンダナオ虐殺事件

では、アロヨ政権とアンパトゥアンが結びつくことではどのような結果がもたらされたのかというと、実は「マギンダナオ虐殺事件」として帰結します。これはアンパトゥアンが政治的な対立を背景に政敵の地元有力クランを殺害した事件です。クランの親族に加え、一緒にいたジャーナリストらも殺されました。
ただのクラン同士の喧嘩じゃないの?と思うかもしれませんが、大統領とアンパトゥアンの癒着がもたらした影響は大きなものでした。この時、大統領と結びつくことでアンパトゥアンの民兵の増強とその過程での国家治安部隊の私兵化、つまり暴力の私物化が起こっていたのです。さらにアンパトゥアンによる犯罪行為や選挙不正、ARMMの公的資金の不正支出・管理などが見逃されていくことにも繋がりました。

これまで紹介した政権の大統領は、私益を重視する政治を行ったりクランとMILFなどのムスリムとの反政府武装組織の対立を煽ったりと、ミンダナオ和平に真面目に取り組んだとは言い難く、こうしたことが重なってミンダナオ和平が何度も遠のいたと言えます。


アキノⅢ政権(2010〜2016年)

一方、続くアキノⅢは支持率が高く政治基盤も十分にあり、汚職や不正の問題を受けてARMMの改革を押し進め、コントロール化に置こうとしました。
具体的には立法機関の整備があります。有力クランが議員を務める立法議会では、その対立関係やクランの私益を追求する動きに影響を受けてしまいます。そのため先住民や女性など多様性のある地域立法議会に再編し、マギンダナオ虐殺事件の再発を防ぐため人権保護の制度を整えました。
また和平交渉に取り組む中では、日本での政府とMILFの会談が行われたことで事態が進展しました。ARMMに代わるバンサモロ政府設立に向けても動き出しましたが、失敗に終わります。

和平の失敗と不満

アキノⅢ政権時、和平がなかなか実現しなかったことである事件が起こりました。それがマラウィ占拠事件です。これは、イスラム過激派組織と国軍がラナオのマラウィ市で衝突した事件です。
国軍の襲撃を受けたアブ・サヤフ・グループ(ASG)から援助を求められたマウテグループがマラウィ市内の市庁舎など複数の建物を占拠し、武装組織と国軍の間で激しい銃撃戦に発展しました。立てこもりは長期にわたり、アメリカや中国の軍事協力も受けながら市街地の空爆などが行われ、多くの犠牲者を出し、マラウィ市は廃墟化しました。マウテグループを率いるのは有力クラン出身のマウテ兄弟で、アブ・サヤフ・グループ(ASG)と共にISIS傘下の組織でした。

ここで重要なのは、イスラム過激派による広報活動の影響のみで若者がこうした事件を起こしたのではなく、もっとミンダナオ固有の背景があったということです。実はマウテ・グループ側にはMILFの元兵士が多く参加していて、ISISは和平プロセスがうまく進まないことに不満を抱えていた若者を取り込んだのです。
こうしたことからも政府による和平に向けた取り組みがうまくいかないことの影響、政府の責任の重さがよく理解できると思います。


ドゥテルテ政権(2016〜現在)

ドゥテルテはこれまで述べてきた大統領とは少し毛色の違う人物です。ミンダナオの地方政治家だったこともあり、選挙戦時にもミンダナオの和平に積極的に取り組む姿勢を見せていました。
国家がムスリムに対して行なってきた不正義を認めたことも重要なポイントです。廃墟化したマラウィ市の復興再建に向けても取り組んでいます。しかし、現地住民の意向や地域の慣習、文化などを踏まえて実行されていくべきですが、計画は十分なものだとは言えない状態です。
またドゥテルテ大統領はMILFやMNLF、クランなどミンダナオ紛争に関わるアクターを包摂して和平の推進を図ろうとしました。そしてARMMに代わるバンサモロ暫定自治地域の設立までこぎつけたのです。現在は、強権的な大統領によりようやく自治政府発足の光が見えてきたという状況にあります。


最後に

いかがだったでしょうか。今回は国家クラン、そしてイスラーム系反政府武装組織が絡みあって事態が複雑化している紛争の実態を政権ごとに整理して説明しました。ミンダナオ紛争は現在に至るまでの過程がとても複雑で、長い年月が過ぎる中で国際社会状況の変化や政権交代、モロ側の主体の変化などに応じて状況が二転三転してきました。

ここまで長引いた背景にはフィリピンの政治制度、政治文化の問題があるとも言えます。関心が高く選挙で票が集まりそうな問題には本気で取り組み、そうでないならやらないという風潮があったり、大統領に強大な権限があり、それを維持できる間は事態の打開が進むものの支持率が低下すると和平交渉が停滞したりするという課題があります。またMNLFなど他のムスリムたちを包摂しきれていない、ムスリムが一枚岩ではないという点も重要です。こうした事が重なってここまで時間がかかってしまったと言えると思います。

皆さんにも「フィリピンは民主主義の国」というイメージがあるのではないでしょうか。フィリピンはかつてのアメリカ統治時代を経て民主主義が定着し、選挙も行われています。しかし、今回の投稿で国家の統治能力が低かったり、選挙不正や政治取引があったりとフィリピンの意外な一面が見えたと思います。ドゥテルテ政権でようやく一定の成果は見られたものの、ミンダナオ紛争はまだ解決してはいません。私たちにとっても、和平やミンダナオの自治実現という着地点に至るまでの長い道のりを学ぶことで、フィリピンの政治の問題が浮き彫りになるとともに、民主主義についても考えさせられる機会となりました。


出典
谷口美代子『平和構築を支援する ミンダナオ紛争と和平への道』、名古屋大学出版、2020年。
公安調査庁「地域別テロ情勢等 東南アジア・オセアニア、https://www.moj.go.jp/psia/ITH/area/ES-asia_oce/index.html閲覧日2022年1月17日)。


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