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J-POP創設に関わった人々とシティーポップ #1『はっぴいえんど』

1.【筆者のコメント】

竹内まりやさんが、生田絵梨花主演ドラマ主題歌「歌を贈ろう」を担当し、生田がMV主演しており、シティーポップの記事を昔書いたのを放置していた事を思い出した。

K-POPに負けたから、英語で世界に行け!という意見をネットで見て、日本語ロック論争を思い出しました。
今の若い人たちは知らないと思いますが、『ははっぴいえんど』は日本語でロックを歌った先達です。

扉写真:左から「大瀧詠一氏」「松本隆氏」「細野晴臣氏」「鈴木茂氏」


【前に挙げた関連する記事】


2.前提の説明

何故J-POPを取り上げるのか?について説明します。

★ 日本は昔から海外の文化や料理等を取り入れる事に貪欲であった。

文明の中心地欧州から見て最果ての地域なので、それが入って来るタイミングは遅かったのだと思う。つまりかなりレベルが上がった成熟した状態で入って来たと思う。それなのに、いつの間にか世界のトップレベルになってしまう不思議な国です。フレンチシェフもパテシエもコンテストでいつの間にかトップになってしまう。


★ 産業革命の技術も世界のトップ水準になって、家電も自動車も性能及び品質はトップになった。

しかし、そうなると欧州はルールを変える規制を掛けてくるという暴挙に出て来るが、それを乗り越えて又トップになってしまう。そんな日本人を見て、彼らはどう思うのでしょうか?

ホンダがF1サーカスでアイルトン・セナ(ブラジル)とアラン・プロスト(フランス)を擁したマクラーレンとのコンビで、16戦中15勝を挙げた1988年の翌年には、大規模なルール変更をされてしまった。これが彼らの答えなのだと思います。


★ 世界に進出して正面から戦うという事は、彼らと戦えるだけの政治力やしたたかさや汚さを持ち合わせていないと難しいのでしょう。
実直に仕事に向き合い、日々地道な改善をするだけでは正面から世界で戦えない事、我々は強く認識すべきなのだと思います。


★ K-POPに負けたから、英語で世界に行け!という意見をネットで見て、日本語ロック論争を思い出しました。

大御所「ロックンロール!」で有名な内田裕也をはじめとする海外ロック愛好者が、「これから日本のロックは海外に出なきゃならん! 日本語で歌って認められんだろうが」と『はぴいえんどの日本語ロック』にキレた事を思い出します。内田裕也さんらが目標にしたのは、欧米バンドの「模倣者」でしかなかったという事です。

エンターテイメントが世界に進出するなら、一番必要な事は日本国内で支持されている・その人ならではの世界観やサウンドをもっている事が一番重要です。それが無い・欧米の誰かを模倣するだけならだれからも賞賛されません。


★ 数年前からか、『シティーポップ』が注目され人気が出てきたらしいですが、正に欧米にルーツがある音楽を下敷きにして日本流に取り込んでアレンジしたサウンドです。

カントリー&ウエスタン、オールディーズ、ドゥー・ワップ、リズム&ブルース、ラテン・ボサノバ、ロックと様々なルーツを持ったジャンルを驚くほど上手に一つのジャンルに取り込んできました。
かつて料理の世界で見た光景ですね。

シティーポップ45

50年経過した今、J-POPは今後世界に認められる様になるでしょう。
日本来訪者に賞賛される日本という国が持つ「文化」や「精神性」や「人間性」をポピュラーミュージックに昇華させる事が一番必要なのです。ないものねだり、人の模倣では尊敬されません。

まるで、漫画アニメの様に、『鬼滅の刃』が米国で大ヒットした様に、J-POPの歌詞(日本語)を翻訳するのは現地の人達となるでしょう。日本文化に憧れるのは、欧米人となるでしょう、家電や自動車の様に。
政治的な動きが出来ない日本人には、世界のルールを決める力が無い日本人には、そういう世界進出しか方法は無いのです。


★ そんなJ-POPが始まったのはいつだったのか?はっきり確認しておきたいと思うのです。

J-POPの創始者である『はぴいえんど』は、まるで漫画作家の様に世界進出なんか考えていなかったから、逆にJ-POPが創出できたのでしょう。
渋谷桜丘町にあったライブハウス「BYG」に出入りしていた「風都市」の中心的な存在である「はっぴいえんど」とその仲間たちが、手塚治虫、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫等が日本アニメの原点であるトキワ荘に住み着き、赤貧の中漫画を描く情熱だけで日本の漫画・アニメ界を創作して行った事にダブります。
トキワ荘との違いは、赤貧ではなく東京出身の都会の中心「風街に住むおしゃれなシティーボーイ達」という処が違っていますが、それは日本が豊かになったという事でしょう。



3.日本のポップシーンを変えた初期の人々


①はっぴいえんど(1969年~1972年)
メンバー細野晴臣氏、大瀧詠一氏、松本隆氏、鈴木茂氏

②ティン・パン・アレー( 1973年 ~1977年頃)
別名キャラメル・ママ
メンバー細野晴臣氏、鈴木茂氏、松任谷正隆氏、佐藤博氏、林立夫氏

ティンパンアレイ47

③シュガー・ベイブ(1975年~1976年)
に関わった山下達郎氏、大瀧詠一氏、吉田美奈子氏、荒井由実氏、竹内まりや氏、大貫妙子氏、南佳孝氏

④上記以外で活躍された、今シティーポップと称されて海外からも賞賛されている方々
伊藤銀次氏、久保田麻琴氏、後藤次利氏、斉藤ノブ氏、坂本龍一氏、佐藤博氏、高中正義氏、南佳孝氏、山本達彦氏、稲垣潤一氏、杉山清貴氏、角松敏生氏


【シティ・ポップ】

音楽性の面でシティ・ポップの源流と一般に挙げられるのは、軽快なロックサウンドに日本語歌詞を乗せた先駆的バンドのはっぴいえんど(1969年-1972年)であり、またシュガー・ベイブのアルバム『SONGS』(1975年)もシティ・ポップの嚆矢と言われることが多い。そのシュガー・ベイブのアルバムを起点とし、その後に活躍した大瀧詠一、山下達郎、吉田美奈子、荒井由実、竹内まりや、大貫妙子、南佳孝などがシティ・ポップの基盤を作り上げていったとされる。
なお、シュガー・ベイブに限らず、シティ・ポップの主要アーティストは殆どが東京出身者もしくは東京を拠点に活動した者たちだった。
従ってシティ・ポップで歌われる「シティ」とは高度経済成長を経た「現代の東京」であり、それもリアリズムから一歩引いた、広告都市的な消費の街というフィクション性を多分に含んでいた。そうした「シティ」における、お洒落なライフスタイルや都会の風景、時には都市生活者ならではの孤独感や哀愁を、良いメロディと洒落たコードに乗せて歌い上げたのがシティ・ポップだった。


3.はぴいえんどが日本語ロックの創設者

はぴいえんど49

はっぴいえんど、ティン・パン・アレーはいまでもしゃれたサウンドの源。
シティーポップとしてなんか海外で人気になっているみたい。
都内23区出身者、特に白金とか青山とかだからのサウンド。以下wikipedia

はっぴいえんど『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1969年~1972年
日本のロックバンド。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂によって結成された。日本産ロック史の草創期に活動したグループの一つ。

特徴:バンドの作詞担当だった松本隆が、ダブルミーニング等の技法を歌詞に取り入れて日本語ロックを構築した。第2回全日本フォークジャンボリー、第3回全日本フォークジャンボリーにも出演した。
松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けたことを公言し「この曲がなければ、はっぴいえんどはなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている。
細野晴臣は、メンバーは宮沢賢治に影響を受けており、その世界観がバンドの音楽性にも影響を与えていると述べている。
サウンド面においては、アメリカのバッファロー・スプリングフィールドなどの影響を受けていた。もっとも1960年代末から1970年代初頭には、日本でもすでにハードロックやプログレッシブ・ロックが注目されていたが、1970年の洋楽専門雑誌では特集で彼らが回顧されていた。
しかし、ブリティッシュロックが人気だった当時の日本でフォークソングやフォークロックの音楽性を標榜したのは、日本のロックを作るためにはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあったためで、細野がアメリカ音楽からの影響を強く受けていたこともある。
大瀧詠一と細野晴臣は音楽性を重視していたため、ロックに日本語の歌詞を付けるという松本の提案に最初は反対した。
はっぴいえんどが取った方向性やその音楽性は、後続となる日本のロックバンドに大きな影響を与え、乱魔堂、センチメンタル・シティ・ロマンス等の後継者を生んだ。
遠藤賢司、岡林信康、加川良、高田渡、小坂忠らのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音等を行っている。
代表曲の「風をあつめて」は、2003年のアメリカ映画『ロスト・イン・トランスレーション』と2009年の日本映画『おと・な・り』の他、漫画『うみべの女の子』でそれぞれ取り上げられた。

実は、はっぴいえんどが最初のアルバムを作っていた頃、吉田拓郎や小室等というフォークソングの世界に近いポジションに居た。


■【はっぴいえんど オリジナルメンバー 】

★細野晴臣(ボーカル・ベース・ギター・キーボード)   
東京都港区白金出身   1947年7月9日(77歳)
父方の祖父は鉄道官僚で、タイタニック号処女航海唯一の日本人乗客であった細野正文。母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。
港区立白金小学校から越境で港区立青山中学校入学(※1)。バンカラな校風の青山中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高校(現:立教新座高校)・立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。

※1:地下鉄日比谷線(2号線)開通が1961年だったから、細野が中学校入学した1960年に白金からで港区立青山中学校にどうやって通ったのか興味がある。都電という説が有力だが。
とにかく、年齢と通った学校は違えど、細野と松本は生まれ育った街は極近接していた。青山や乃木坂や六本木や麻布十番ですれ違っていたのかもしれない。だから「風街」には共感したのかね。
うらやましい限りですね。その時期の風街に居たかったけれど、東京オリンピック1964年前だとしたら無理だった。


★大瀧詠一(ボーカル・ギター)

岩手県江刺郡梁川村(現:奥州市)出身 1948年7月28日~2013年12月30日
母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している。
1967年上京し、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日在籍期間3ヶ月で退職。同年夏に、布谷文夫と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。
1968年に早稲田大学第二文学部に入学。布谷を通じて交友があった中田佳彦 から細野晴臣を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"としてヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」(シングル盤)を見えるように置いておいた。それに部屋に入りしなの大瀧が気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させたという。
1970年「はっぴいえんど」として、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。
1979年からはプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBSソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。

1981年3月に『A LONG VACATION』を発表、「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞した。

1981年から松本隆と組んで1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。多くのアイドルソング・コミックソングなどを手掛け一躍名声が高まる。森進一の『冬のリヴィエラ』では歌謡曲の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し、小林旭の『熱き心に』では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせた。
1988年に小泉今日子に提供した『快盗ルビイ』以降作曲から遠ざかっていたが、1994年からソニーのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。1995年の渡辺満里奈の『うれしい予感』が作曲家としての復帰作となる。1997年には12年ぶりとなる新曲『幸せな結末』を発表。月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌としてミリオンセラーを達成。

     

★松本隆(ドラムス・パーカッション)
東京都港区青山出身 1949年7月16日(75歳)
父は大蔵省の一般官吏。東京都港区にある「財務省 青山公務員宿舎※2」で生まれた。港区立青南小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学商学部中退。
生まれ育った青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした乃木坂や麻布、六本木や渋谷界隈の範囲を「風街」と呼び、心の拠り所として愛している。

※2:通っていた港区立青南小学校に通えた範囲の公務員官舎は今は無いみたいなので、想像すると外苑西通り近辺か、環状三号線(青山一丁目から麻布十番に抜ける道)の近くに有ったのだろう。
その界隈は松本隆が学生時代は地下鉄も通ってなかったので、地域住民かその当時の遊び人しか行けない場所だったでしょう。
又広大な青山墓地を含む地域なので東京の中の過疎地でもあった。
六本木ヒルズの敷地は時代に取り残されたぼろ住宅が並んでおり、地上げ屋が活躍した地域。デビ婦人が東京都港区西麻布に貧しい家が有ったと言っていた。決して富裕層の住宅地では無かった。
環状三号線沿いにある国立新美術館から数分歩くと乃木坂なので、この近所に官舎があったと思われる。国立新美術館は東京大学生産技術研究所跡地であり、広大な敷地が残っていたのは、米軍の六本木ヘリポートが有った事もその理由の一つだったろう。
千代田線開通は1969年であり、松本隆が「はっぴいえんど」を始めた年だから、千代田線にはあまり乗ってなかったと思う。うらやましい限りですね。

音楽的にはビートルズの影響を強く受けたと語っている。
また、妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており(1980年)、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。妹の事を歌詞にしたのが『君は天然色』であり、妹の死のショックから立ち直るきっかけを歌詞にしたのが、『瑠璃色の地球である』

この2曲は私の心に刺さった代表的な曲である。私は、作者や演者の実際の人生が反映したドラマが透けて見える楽曲にしか刺さらない。


★鈴木茂(ギター・ボーカル)
東京都世田谷区出身。1951年12月20日(73歳)
日本のギタリスト・作曲家・編曲家である。はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなどのメンバーとしてギターを担当した。

何と!エレキギターをフィンガーピッキングで弾いていたそうです。
だからあの音なんかやさしさを感じたんだな。

1968年、林立夫、小原礼らとともにスカイを結成。1969年に細野晴臣に誘われはっぴいえんどに加入しギターを担当、「花いちもんめ」などの楽曲ではボーカルを務め、バンドの解散後に細野らとキャラメル・ママを結成、ティン・パン・アレーへと発展させる。

元々は鈴木茂、小原礼、林立夫の三人が高校生時代に組んでいたアマチュアバンドで、英国系の「ヤードバーズ」や「クリーム」等のコピーを主に活動していた。鈴木が「はっぴいえんど」に誘われて脱退した事から消滅した。

2019年、俳優の佐野史郎のレコーディング時に小原の呼び掛けで鈴木、林が参加し、再結成。キーボード奏者として林の勧誘で松任谷正隆が加入。「佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆」として「禁断の果実」を発表。
2021年、フルアルバム「SKYE」を発売。

※林立夫: 1951年5月21日(70歳)
1969年に青山学院高等部卒業。1972年にキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)に加入した。ドラマー。
以降、1970年代から1980年代にかけて多数のレコーディング・セッションで活躍する。

※小原 礼:1951年11月17日 (69歳)
東京都に生まれ。ベーシスト、作曲家、音楽プロデューサーである。妻はシンガーソングライターの尾崎亜美。
父は松竹蒲田撮影所出身の撮影技師・小原譲治、母は開業医であった。のちに父同様に青山学院に進学し高等部卒業。林立夫と同級生。
医大進学のために一浪したが、高橋幸宏(1学年下)を誘って一緒に武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科に入る。

はっぴいえんど加入時点で17歳の高校生であった。いかにギタースキルというか音楽性が高かったか?世田谷区生まれだからだよね。


松本隆とそれに関わった人々とシティーポップ J-POP #2
に続きます。

続く

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