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NTlive シェイクスピア原作「十二夜」みました ※ネタバレあり雑感

 NTliveの日本での新作公開作品である、シェイクスピア原作の「十二夜」を観た。あまりにも有名な古典作品なので、ストーリー自体にネタバレの配慮も何もないと思うが以下感想を書く。
有名な古典劇であり、今まで数多の舞台化を繰り返されてきた十二夜だが、本作品ではキャストの性別がいくつか原作から変更されており、その変更がストーリーというか、脚色の大きな要となっていた。公式でのトレーラーのアイキャッチがマルヴォーリアを演じる役者の方になっているように、本作の主人公の一人は彼女といっていいだろう。

https://www.ntlive.jp/twelfthnight

 マルヴォーリオというオリビアに仕えている執事が、本作ではマルヴォーリアという女性に変更されている。この変更点とマルヴォーリアを演じる役者の方の演技力によって、十二夜は従来の「男女入れ替わりもののの古典劇」というテンプレ的なシナリオに対して、クィア的な観点と「愚者と阿呆という役割」を痛いほどに浮き上がらせていると感じた。
 原作では、鼻もちならない高慢ちきな執事として描かれていたマルヴォーリオ(マルヴォーリア)の扱われ方は、基本的に前半部分では今回の演出でも変わりがない。しかし、仕組まれた偽物のオリビアからのラブレターを受け取ったマルヴォーリアは、これまでの自分への抑圧を解放したかのように「豹変」する。この場面でマルヴォーリアの発した「自分のしたい恰好をする」というのは、ただ単に外見的な服装のことを指すのではなく、「なりたい自分になる」ことや自身の性的指向を受け入れることを意味しているのだと思う。この点において、本作の登場人物の中で最も「自分の外側の身なりや立ち振る舞い」から脱皮した人物はマルヴォーリアだったと思う。しかし、この変身が全く報われず、従来のプロット通りに「笑いもの」の役割のまま終わってしまう、というところも一つのキーポイントだと感じた。
 その役割とは、劇中において常に笑いものの役割を社会的にも引き受けている道化の存在によってより明示的になっている。劇中冒頭、マルヴォーリアが道化に対して「笑うものがいなければお前のような存在はどうにもならない」というような旨を伝えるシーンがある。まさにこの言葉は、劇中終盤、マルヴォーリア自身に跳ね返ってくる。観客たちはメタ的に見て、マルヴォーリアが作中での「役割」が笑いものにされることを知っている。しかし、その筋書きなど知る由もないマルヴォーリアにとって、一連のいたずらの出来事は、主人や周囲の人からの裏切りを意味する、許しがたい行為だったと思う。マルヴォーリアがすべての種明かしをされ、かつらを外しながら「復讐してやる」とつぶやきながら舞台からはけていくシーンでは、観客側を一瞥する演技があった。この舞台では意図的にメタ認知的な小ネタや第四の壁を破っていく演出が存在することからも、私たち観客も彼女を「笑いもの」にした一員なのだという事実を突きつけるすごみがあった。
 マルヴォーリアが恋心に我を忘れて爆走(あるいは暴走)する姿を「阿呆」として笑うならば、基本的に本作で登場するのは阿呆ばかりだ。兄の死に喪に服していると言っていたオリビアは変装したヴァイオラに一目ぼれした途端、行動は目に見えてとんちきになっている。あるいは、オーシーノは作中随一の阿呆といっていいふるまいをしているだろう。オリビアへの愛は崇高なものであるといいながら、変装したヴァイオラに対して明らかに好意を示す(どころか半分手を出している)自己矛盾に全く無自覚である。オリビアとオーシーノは両者ともに恋に狂う阿呆でありながら、社会的地位や物語上での「役割」によって、あからさまな笑いものになることはない。この事実は、道化とそれを笑うものが、本質的には変わりがなく、力関係によって一方が「笑われるもの」という役割を負わされていることを象徴していると感じた。
 本作では、ジェンダーを含む社会的役割が社会からの外圧によって負わされているものだということを男女という軸だけでなく、「阿呆(愚者)と賢者」という軸でも明確に説明している点が私は特に好きだった。加えて、ハッピーエンドの外側に追いやられてしまう人の悲痛さを、きちんと説明しているというか、省略していない点も好きだと感じた。先述したマルヴォーリアしかり、セバスティアンを助けたアントーニオの立場のなさや怒りを説明するシーンがあることは、ハッピーエンドを迎える男女のペアの外側に追いやられてきたクィアの立場を明確に表現していると思う。
 話は変わって、Ntlive の舞台で毎回感じる舞台装置の巧みさは本作でも際立っていた。舞台中央に据えられた階段状のセットが沈没する難破船、侯爵家のお屋敷、アングラな酒場と次々と姿を変えていく点がすごくおもしろかった。1つのセットが展開していく面白さは「リーマン・トリロジー」でも感じたが、本作はよりダイナミックに姿や場面が変わるので、ショー的な面白さも満喫できた。
 
 400年の歳月を経て、単なる「ハッピーエンド」ではない、時間が解決してくれない人間関係のもつれをきちんと描いてくれた十二夜であり、とても満足した。


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