リーマン・トリロジー(2回目)みました※ネタバレあり雑感

リーマントリロジーを鑑賞したので、頭の冷却のために感想などを取り留めもなく書いていく。
鑑賞は昨年のシネ・リーブル池袋でのアンコール上映時と今回とで2回目となる。良質な舞台を鑑賞する機会を作ってくれることに感謝しかない。まだ見ていない人はとにかく上映時間が長いが一度見てほしいという気持ちである。お尻が座りすぎで痛くなる以上の圧倒的な価値がある舞台体験だと思う。

舞台自体の研ぎ澄まされた徹底的な脚本の構成力と舞台衣装や装置、役者の演技力は言わずもがな、という部分であると思う。
それに加えて印象に残っている点は、宗教的信仰と資本主義経済という一見すると正反対に思われる制度が、人々の漠然とした信頼や信用によって成り立っているというもろさを痛感させる物語になっていたことだ。

劇中でも、"trust me" という言葉が兄弟たちの命運を分ける転機となるシーンで繰り返し登場する。「顔とモノの見える商売」から始まったリーマン一族の物語が、徐々に制御不能、かつ、実体のない「価値」へと転換されていく時間の流れは、舞台上の1つの軸である。
当初、創始者の兄弟たちは綿花やコーヒーといったモノの取引という人間同士の信頼関係というウェットに思える部分に依拠していた。「アメリカ生まれ」のリーマン一族はより大きな数字や不滅の価値を追い求めるようになる。
しかし、人間が何かしらに価値を見出す行為の根源は、うすぼんやりとした「壊れるはずのないものが存在する」という根拠のない信念に他ならない。その虚弱な信念の構築は、対象がモノであれ、金であれ、場合によっては神に対する信仰ですら根本的には変わらないのかもしれないと感じた。少なくとも私は、明日、紙の紙幣が無価値になるとも思わないし、日常がぼんやりと続いてくのだろうという予測をこの文章を書きながら考えている。しかし、その「信仰」は資本主義経済というシステムに対する信頼があるからこそ成立している、何ら絶対的な確証など存在しない価値観にすぎない。

物語が進んで第三部までになると、だいぶ価値観や宗教観が現代に近づいてくるので役者の演じる逼迫した現実がより伝わってくると感じた。この舞台そのものが、多くの人がリアルタイムに経験したリーマンショックで幕を閉じているので当然といえば当然なのだが。。。
第三部は舞台が現在の時間軸に近づき、かつて創始者のリーマンたちが新しい「みえざるもの」におびえていたように、その子孫たちが「見えざる偉大なリーマンの亡霊」として創始者たちにおびえている構図の逆転が何とも皮肉だなと思った。

そして、第三部のラストシーンの画の美しさは本当に打ちのめされるものがあった。構図的にかなり意図的に(キリスト教絵画ではあるが)「最後の晩餐」に似せていると思うのだが、宗教的な荘厳さが演出されていたと感じた。ラストシーンでは、もはやそこに弔うべき対象も、伝統的なユダヤ教の信仰も存在しない。亡霊のように再び登場したリーマン三兄弟の唱えるヘブライ語の祈りには、字幕や注釈が添えられずに、かつて存在したものとして彼ら兄弟のみの間で共有されている。
月並みな表現をすれば、「死者は忘れられたときに本当に死ぬ」ようにリーマン・ブラザーズの最期は、かつてアメリカを夢見た三人の青年たちによってしか弔われなかったのだろう。

今月、邦訳された原作小説が発売になるらしいのでそちらも読もうと思う。



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