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パン職人になろうと思ったワケ①

パン屋を開きたい。と明確に思い始めたのは、社会人になってからです。
そして今、サワードウブレッドの専門店で開業に動き出すなんて自分でも思ってもいなかったです。

目次をつけておきます。

何かの職人になりたい。

この気持ちが何よりのきっかけではありました。
大学生時代に就職活動をする中で、ざっくりと思い抱いていたくらいです。

職人。という響きに憧れがあったのだと思います。何か一つに集中して、極めていく。今までの自分の人生では縁のない人生を大人になったらやってみたいと思っていたんでしょう。

高校までそれなりに頑張っていたサッカーにまた関わるなら、芝生を育てる職人かな〜。好きな選手に近づきたいからスポーツトレーナーかな〜。栄養面を管理する料理人。。。いや、趣味のブラックバスの釣り師になって選手の余暇をガイドする。。。なんて陽気な発想しか浮かばず、、、
就活失敗したら、何かの専門学校行って考えよ。と思ってました。

その思いの中でも、パンって毎日食べても飽きないな。なんだかんだ毎日食べてるな。甘いものってどうあれ美味いよな。って頭の片隅にパン職人という文字があるくらいでした。

大学での就活は無事というか、その年に就職したいランキングの上位に入っていた菓子メーカーに受かっていた友人から、
「うちの会社追加募集しているからノリで応募してみたら?」
と誘われ、ほんとお試し受験のような感じでなんとなく応募したら、まさかのご採用をいただきました。
リーマンショック直後の就活だったのでほんと運だったのかなと思っています。

(やったー!俺も社員証ぶら下げて定食屋でランチとかするんだ〜。なんてドラマでよく見る光景が自分の手に。。。。)
という気持ちと、やっぱ職人にはならない人生になるか〜。という思いをぐちゃっとさせながら、日本の大人の社会を知るには良いことだし、まだ職人になるのチャンスはいつでもあるしな。と、社会人人生をスタートすることになります。

入社した菓子メーカーで、お菓子をスーパーに並べたりするのかな。とやんわりしたイメージしかないまま入社した私でしたが、
配属された部署は、自社向けと他社向けの原料を調達して、供給(自社向け)、販売(他社向け)をする商社営業部でした。

別記事で書いておりますが、当時TOEICなんて200点台でした。履歴書にもスコアを書けず、「数字じゃ表せない力はあると思います」とその場凌ぎで面接をパスしていたし。。。
なので、なぜ僕が?という思いと、やったるか、意図しない配属とかサラリーマンぽいじゃん!ってポジティブな気持ちになっていたのを覚えています。

そして、縁あって配属された

商社営業部での社会人生活

が僕に「職人」という意識というよりも「作り手になりたい」という気持ちを芽生えさせます。

入社早々、「日本の原料業界のしがらみ」「既得権」ということをしっかり頭に叩き込まれました。というか、世の中の現実を叩き込まれた感じでした。

買いたいのに買えないしがらみ。売りたいのに売れない制約。売れないものをどうにか客先の倉庫にでも押し込んでくれと押し売りしなきゃいけないノルマ。なんてことが本当にあるなんて思いもしなかったです。でも、これが一次産業原料の輸入大国、日本の現実とも理解しました。枠を消化しないと自給率に影響するし、来年の枠が減る。既得権以上の行動をしてはいけない。などなど、たかだか6年足らずですけど、ほんと自分にとって日本の食業界でいきていく上で良き経験ばかりでした。

食品の照りだし原料を調達に出張していた際の一枚です。


そんなしがらみや既得権など原料業界人として生きる術を学んで営業生活を送っていく中で、

答えが出ました。

素材の良し悪しもわからず「原料」という文字を右から左へ流し売っているような自分で良いのかな。

しがらみ、既得権に縛られた原料だけで営業するのは誰でもできんじゃないか。

もっと幅を広げた原料提案ができる営業マンになりたい。

けど、レシピや資料を読んで付け焼き刃の知識を増やしただけの薄っぺらい営業マンになりたくない。

原料に触って、自分の手を動かして、素材の特性を知りたい。

作ってる側になってみなきゃ。


営業マンのスキルアップ、差別化をどうすれば良いかという考えを越えて、作り手になりたい。という、極端に振り切った思考回路なってました。

さらには、
原料業界の川上から川下までの流れも仕事に携わった自分がお店を持ったら、関わる人にとって無理のない交渉をしてwin-winで気持ち良く仕事ができるかな。
と、妄想は膨らみテンションが上がってました。
(開業を志す身として、原料の元値を大体把握してしまっている自分は相当嫌な客になるなと思いつつ。。。)

そうこう頭では楽しいこと考えている間にも、どんどん仕事は降ってきます。そんな仕事に対して、不器用に若者の体力任せで仕事をしていた思います。

・寝るくらいなら仕事したい。
・チャンスを掴むためなら、同期が嫌がる仕事は自分がやってやる。(社内外接待などなど。。。)
・夢を現実にするためなら、建前なんていらない。客先、上司に怒られようがなんだろうが、素直に自分が伝えたいことを訴え続けて、納得させたい。

社会に立ち向かう段取り知らずの全力少年でした。

縦社会の世界が磐石に整っている会社と業界で無理をしまくっていたと思います。
メンタルも体力もすり減っているのをわかってながら、熱意で押し殺してました。
その分、ストレス発散も豪快になっていき、飲んで叫んで遊び回ってと、体力はどんどん減っていきました。

そしたら、

体が壊れました。

全身に蕁麻疹が出て、倒れました。社内外の会食続きに加えて休みの日も飲んでいたのも原因だったとも。。。
根性で出社をしないと、、、と思いながら駅に向かったのですが、走る電車が虹色に見えて、乗車口がわからなかった時、流石にやばいなと思いました。

なんで食品業界で健康を売りする商品をも販売するメーカーに勤めている自分が不健康になって、倒れてたのか。
小中高サッカーに明け暮れて、大学でも遊びながらもブレイクダンスの回る技の練習はいちおしていた自分。社会人になってからも人並みに食事や健康を管理していた自負があったので自分が自分に衝撃でした。
まさか自分が。というやつでした。

お試しで入ったつもりの会社と社会人の世界であっさり負けた気がして悔しくて仕方ありませんでした。

加えて、同時期に大学時代お世話になった先輩にお会いした時に、放たれた一言にショックを受けました。
一生懸命働いていたことが逆に会社の機械のようなことになっていたのを気付かされました。(僕の意識を変えてくれた言葉集②の記事で詳しく書いていますのでよければご覧ください)

ここで、僕は、落ち込むとかではなく、開き直りました。

やりたいことを掴む前に倒れたり、仲良くしたい人に煙たがられたら、人生意味ないな。

と急に冷めて焦りを感じたのを覚えています。自分の性格に感謝です。。。

高校のサッカー引退時(試合中なのに3年間思いに浸って泣き出す謎行為をした自分)のやりたいことが続けられない怖さと仲間と離れる悲しさを感じた瞬間を思い出してしまいました。

そんな出来事が社会人になって積み重なって起きたのです。

結論としては、

・作り手になりたい。
・倒れた。
・尊敬する先輩に怒られた。


この3つのポイントが自分が会社を辞めて、オーストラリアに向かう動機になったのは間違いないです。

次の記事で
なぜオーストラリアなのか、なぜ職人という枠からパン職人を選んだのかを書きたいと思います。

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