「よい」は非常に厄介である。

 数年前から私には考えてることがある。それは「もし明日吉沢亮もしくは、橋本環奈に生まれ変わったら。」ということである。それは中高生によくある願望である「イケメンに生まれたかった。」とか「美女に生まれたかった。」ということではなく、「もし自分がイケメンか美女に生まれ変わったら今の自分を保っていられるか。」ということである。他の条件でもよい。「もし自分がお金持ちになったら。…」、「もし自分が社会的地位を獲得したら。…」、「もし自分が今より幸福になったら。…」いま自分が持っている自分らしさを保っていられるかということである。
 そして最近私はフリードリヒ・ニーチェの「道徳の系譜」という本を読んだ。この本の第一論文には「善と悪」、「よいとわるい」について書かれている。この本の難解さ故に、私は浅い読みしかできていないかもしれないが、読後に思ったことがあるのでその事を文章にしようと思う。
 この文章の冒頭でニーチェは「もともと非利己的な行為は、それを示され、従ってそれによって利益を受けた人々の側から賞賛され「よい」と呼ばれた。後にはこの起源が忘れられ、そして非利己的な行為は、ただ習慣的に常に「よい」として賞賛されたというだけの理由で、実際また「よい」と感じられるようになった。-あたかもその行為がそれ自体として「よい」ものでもあるかの如くに。」と述べている。このことから起こる問いとしては誠実であることや謙虚であるということは果たして「よい」ことであるか?ということである。一般に誠実であることや謙虚であることは「よい」こととされる。しかしそれはその行為の受け手にプラスであるからという理由だけで、「よい」ことだとされてはいないだろうか?誠実や謙虚を無批判に「よい」ものとすることに対する問題点は大きく2つあるように思われる。
 1つ目は、誠実、謙虚である主体が、悪しき状態であったときによりその性質を強めてしまう可能性があるということである。ニーチェはキリスト教信者におけるルサンティマン(反感)を指摘した。キリスト教信者は「敵に対する愛」(「汝敵を愛せよ」に見られるもの)の実践を美徳の1つとする。そしてその「敵」を悪人と考想し、その対照物として自分自身を「善人」と案出するのである。その結果ルサンティマンを持った人間は、例え自分が不幸な状況や恵まれない状況にあったとしても自分が「善人」であることを盾にむしろそのことに喜びを覚えるのである。このような人間は結局(吉沢亮や橋本環奈には現実的に考えてなれないが)お金持ちになろう、社会的地位を上げよう、より高みを目指そう、より幸福に生きようとする意志を放棄する。つまり自分が「善人」であると思ってるが故に、現状のステージに満足し、這い上がろうとしないのである。(性格が悪いという評価を受けた人は無意識に、性格が悪いことが社会的に求められていると思い、性格が悪い言動を自然としてしまう。ということがアドラー心理学でも指摘されているが、上記のことも同じような防御機制なのかもしれない。)
 2つ目は、冒頭の問いと重複するが、自分が吉沢亮や橋本環奈になった場合に誠実さや謙虚さを保っていられるかということである。誠実さや謙虚さは、前提条件を持って生じることが多いように感じる。例えば「自分のグループでの評価が低いから謙虚。」、「相手が自分よりスペック(あまりこの言葉が好きではないが)が高いから謙虚。」といった具合である。しかし自分のグループからの評価が高くなったらどうであるか?自分よりスペックが低い相手(失礼)だったらどうであるか? 私は、今まで評価を受けた瞬間に性格が豹変する人を沢山見てきたし、自分自身も残念ながら少なからずこのことに該当したこともあったように思う。また自分が謙虚であるということを美点としてしまうことや見返りを期待してしまうこともしばしばあった。しかし本当の謙虚さはこのようなことではないと思う。私はもし謙虚であろうとするなら、「その謙虚は無条件であるか。」といったことを常に自問すべきであると考える。もしくは謙虚であることの1つの条件が認められるとしたら「謙虚でなくとも許される状況下であるのにも関わらず謙虚である。」といったことに限ると思う。


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