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“ウ形容詞”と日本語の未来

四ヶ月前くらいからゆる言語学ラジオというYouTubeチャンネルを登録して楽しんでいる。文字どおり「ゆる」なので、「ガチ」でやる気のない私にちょうどよいのだ。

言語の研究と音楽の研究はたまに似通うところがあって、「これは音楽にもあるなあ」とか思いながら聴いている。

例えば言語の獲得について研究する際、「もし言語を一切教えなかったら人はどうなる」みたいな人権を無視した実験が出来ないため、検証したくてもできないことがあるなんていうのは、音楽でも全く同じだ。「生まれた時から無調音楽だけを聴かせて育てたらその人の調性感覚はどうなる」みたいな実験はやりたくてもできない。

で、先ほど「ら抜き言葉」の回を観ていて、本編より気になったのはコメント欄にあった『違くて』という言葉の乱れについてだった。

違くて、または違うくて

「楽しい」が「楽しくて」になるように、「違う」が「違(う)くて」になる。でも本来「〜くて」は形容詞だからこそ使える形で、動詞である「違う」に当てはめるのは“言葉の乱れ”である。

同様にして、過去形にする際にも「違った」ではなく「違かった」と言うことがある。これも「楽しかった」という形容詞タイプの変化が適用された結果である。

この“乱れ”が生じた背景として、名詞ではあるが「違い」というイ終わりの形があること、そして「違う」の意味がそもそも動作というより状態を表す形容詞的な部分が強いといった理由が指摘されている

分かりみの話

「形容詞的な動詞」と聞いて頭に浮かんできたのは、『分かる』だった。

以前のnote記事で、2018年に『分かりみ』が「辞書を編む人が選ぶ今年の新語」に選ばれたことに触れた。『分かりみ』が特異なのは、「〜み」という本来形容詞だけにつく語尾が、動詞である「分かる」を受けている点である。
その点が評価されて、2014年で既に『つらみ』『ヤバみ』に代表される「〜み」がまとめて新語としてノミネートされていたにも関わらず、4年後に『分かりみ』が単独でまた新語としてピックアップされたという流れがある。

『分かりみ』という表現を知った時には気づかなかったことだけど、「形容詞に特有の変化が動詞で起きた」という点で、『分かりみ』と『違くて』は共通している。

そして『分かりみ』という表現が広まった背景には、「分かる」という言葉がやはり動作よりも状態を表す形容詞的な部分が強いという側面が寄与しているように思う。

▼「分かる」の形容詞性
「分かる」という言葉はなかなか特異で、例えば「私は、それを理解できる」という時に、「それは分かる」という。「私」が出てこない。「I understand it」というよりは「It is understandable」というBe動詞的な文章を構築する。

これはこれで面白いところで、理解をする動作主は「私」であって、「それ」は理解の対象であるのだが、「それは分かる」という言い方をする。目的語に対する助詞として『は』が付いているわけで、『は』が主語を形成するための助詞だと考えると不思議な構文に思える。

▼『は』の特殊性
しかしながら日本語における『は』は必ずしも「動作主」を示すものではなく、むしろ「主題」を提示するもの、みたいな話も、これまたゆる言語学ラジオの「象は鼻が長い」の回で取り上げられていた。
そこでの内容を聴くと、こうした文の解釈に際しては、「○○が省略されていて〜」といった省略論で解釈をするよりも、『は』という助詞の特殊性に帰着した方がエレガントなようである。

日本語の『は』の特殊性が、本来は動詞である「分かる」を形容詞的に機能させるサポートとなっている側面が感じられる。

ウ形容詞

このように、ウ段で終わって、現行の分類上は動詞だけども形容詞的な側面を持つ、“ウ形容詞”とでも呼べそうな単語が日本語にはちょこちょこ存在しているようである。

「違う」「分かる」のようなベテラン選手はそんなに多くないかもしれない。「似る」「優る/劣る」「伝わる」「乾く」とか、幾つかは思いつくかというところ。

ただ最近の砕けた言葉であれば、わりあい多く見つけることができる。

▼主語欠損タイプ
ひとつの系統として、「気分が」「心が」といった本来の主語が頻繁に省略された結果独立した語としての意味を帯び始めた、気持ちの上がり下がりに関する表現である。

・アガる
・サガる
・萎える
・燃える(萌える)
・しびれる
・震える

「この展開を見ると私の心が燃える」が「この展開は燃えるわ〜」となる。もちろん実際には、展開は燃えていない。

仮に「この展開は」に続けるなら、「この展開は私の気持ちを燃やす」という他動詞の関係が本来のところであるが、どちらかというと「私の気持ちをたかぶらせる性質を持っている」という形容詞的ニュアンスを伴って「燃える」という形が使われる。

これについてもやはり、省略論よりは『は』の特殊性に理由を求めた方がナチュラルであろう。

▼目的語欠損タイプ
似たところで、「心に刺さる」という表現の目的語が省略されて、『刺さる』が近年は単独で形容詞的なふるまいをしている。『分かりみ』に並行して「刺さりみ」という表現もスラングとして散見する。

こちらは「主語欠損」と比べると話がシンプルなので、別に『は』の特殊性を持ち出さずに省略論で済ませてもいいところかもしれない。

▼動作誘引タイプ
そしてもうひとつ、「その動作を誘発する性質を持っている」といったニュアンスで、動詞が形容詞的に使われるパターンがある。

・笑う
・死ぬ
・太る

「このオチは笑うわ」「この宿題の量は死ぬ」「このラーメンは確実に太るわ」といった風に、「あるモノが、それに関わった人間にその動作を引き起こすだけの要因を持っている」というような関係を、「【A】は【自動詞】」の形で表現する。

「太る」に関しては、先ほどの動画でも「こんにゃくは太らない」という文章で大々的に取り上げられている。だから確かにこうした文が簡単に成立する背景には、助詞「は」の貢献があると考えられる。

一方で、いまここで話のポイントになっているのはそれとは少しずれたところで、こうした「【A】は【自動詞】」の文を楽々と作れることで、動詞と形容詞の境目が曖昧になりやすい環境が日本語にはあるのではないかという点である。

この動詞と形容詞の混濁がどのような言葉の乱れを生み出してきたかをもう少し探ってみることにする。

"ウ形容詞"の活用

こうした「形容詞的にふるまう動詞」は、形容詞的に認識されることで、『違くて』『分かりみ』のような形容詞風の活用をし始めた。これは日本語ならではの面白い出来事かもしれない。

▼「〜くない?」
色々ある活用の中で一番すんなりと発生しやすいのが「〜くない?」の形だと思う(これは単なるネイティヴスピーカーとしての直感である)。

「その言い方は違くない?」
「これ2時間も続けたら死ぬくない?」
「いきなりこれ出てきたら笑うくない?」
「最後の最後に逆転負けとか萎えるくない?」
「このラストシーンは刺さるくない?」

現状は違和感を感じこそすれ、意味とニュアンスは伝わってくるし、実際Twitterなんかで調べれば、非常に砕けた言い方としてこれらが使われているのが確認できる。

▼形容動詞と「〜くない?」
ちなみに“クナイ”の適用に関しては、ナ形容詞(いわゆる形容動詞)でも発生している。

「この服装、変くない?」
「あと2時間続けるのは無理くない?」
「今日はやけに静かくない?」
「こっちの方がきれいくない?」
「あの転び方はわざとくない?」

いずれも本来は「〜じゃない?」と表現するべきものだ。

こと『きれいくない?』『静かくない?』には、「汚い⇄きれいだ」「うるさい⇄静かだ」という風に対義語間で形が統一されていないという背景も影響していそう。

このクナイの拡張現象に関してはこちらの記事こちらの論文などでもう少し詳しく書かれている。どうやら関西や東北の方言という側面もあるらしい。

▼「〜くて」
次にありそうなのが、『違くて』に代表される「〜くて」の形だ。こちらは「〜くない?」と比べたらぜんぜん浸透率は全然低いけれど、『違くて』という先駆けが既にいるし、最近のスラング「草」が「〜してて草」という形をひとつの定型として取るのが後押しになっている感じがある。

「いざ推しに会ったら何も喋れなくなるの分かるくて草」
「このパターンすごい性癖に刺さるくて好き」

クテはクナイに比べるとホントに弱小勢力ではある。とはいえ『違くて』が確立されている以上は、どれかが後を続いていく可能性は十分にある。

クナイ・クテの侵略

さて、"ウ形容詞"は『死ぬくない?』『刺さるくて』のように、終止形そのまんまにクナイ・クテをくっつけた形をとる。「死ぬ」が「死なない」に変わる時に見られる母音の活用がないぶん、シンプルである。

この「終止形+くない,くて」という用法は、どんどん幅を利かせはじめている。

▼他の動詞への侵食
まず、取り立てて形容詞性のない普通の動詞にもこの用法が使われるようになってきている。

「それ地味に時間かかるくない?」
「いや、遅刻しそうだったら普通走るくない?」
「マック行ったらポテトは食べるくない?」
「大体なんでもポン酢かけたらイケるくない?」

元々は一部の動詞でだけ発生していたはずの表現が、いざ誕生してしまったらどんな動詞でも波及的に使えてしまうという、連鎖的というか、滑りやすい坂というか、そういう現象が起きている。

▼イ形容詞への逆流
一方でイ形容詞においては「楽しい」が「楽しく」になるように、語尾の「い」を消して「く」に換えるのが本来の処理であるが、ここでも『濃いくて』『疎いくて』『凄いくない』 といった表現が発生している。

これは、他品詞で「クナイ・クテは終止形の後ろにつける」という認識が生まれて、その「スラングとしてのクナイ・クテ」が形容詞のところに凱旋してきて、形容詞でも「終止形+くない,くて」の形を構成したということだろうか? 面白い話である。(方言として昔からあった、とかそういう筋もあり得るだろうけど)

言語は利便性や合理性に従う

「ら抜き言葉」の回では、言語はより整合性のある体系になろうとするという仮説が説明されていた。整合性については分からないけど、少なくとも「その表現に実利があれば、乱れた表現であっても生き残る」という側面は多分にあるように思う。

例えば「ら抜き言葉」は、動画中でも指摘されているように、「られる」の中で“可能”の意味だけを明確に表せる点で利便性があるので、今のところ廃れる気配はない。

「〜み」の拡張に関しても、一部の形容詞だけ「〜さ」と「〜み」で客観主観を使い分けることができて、一部の形容詞はできないという状況は、不便だし体系の整合性としても問題がある。
だから、『分かりみ』のような特殊例はともかく『ねむみ』や『ヤバみ』といった表現は、単なるスラングで終わらずに長く生き残る可能性が十分にあると思う。

クナイの機微

では「動詞の終止形+くない」はどうなのかというと、私はこの表現にも利便性を感じる。つまり、この形でしか表現できない機微があって、単にスラングである以上の価値を持っているように見えるのだ。

実際の文で比べてみる。

A : 「えー、アイツが犯人っていうのは中盤で分からない?」
B : 「えー、アイツが犯人っていうのは中盤で分かるよね?」
C : 「えー、アイツが犯人っていうのは中盤で分かると思わない?」
D : 「えー、アイツが犯人っていうのは中盤で分かるくない?」

ミステリー映画を一緒に見たあと、感想を言い合うような場面である。

微妙な差だけど、A-Cが全て自分という個の在り方を直接的に問われているように感じるのに対し、Dだけはどこか「普通は分かるものではないか」という一般論への置換え、ちょっとだけ婉曲したニュアンスを、私は感じる。

全部自分の鈍感さをバカにされてはいるのだけど、Dだけはちょいカーブがかかっていて、ダメージが軽減されて軽妙になっている気がする。

"Didn't you notice?" という、自分を主語として尋ねられる疑問文と、"Wasn't it noticeable?"という、自分のいない疑問文との間にある、潜在的なプレッシャーの差のようなもの。それをクナイが絶妙に表現している。

▼「〜くない?」が持つ機微の源泉
このニュアンスの差は、やはりクナイが元々形容詞につく言葉だったという側面が影響しているように思う。

「これは笑うわ」のような"ウ形容詞"は、実際に誰かが笑うという動作性よりは、誰とは言わず人を笑わせる性質があるという状態性にフォーカスのある表現だ。そして、「笑う」の動作主となる主体は文中には現れない。そこには「私」も「あなた」も存在しないという、主体の消失がある。この2点はどちらも、表現を婉曲させるのに良い効果を持っている。

だからクナイを使うとき、動詞は少しだけ形容詞ぽくなり、主体的な動作としてのパワーを減じるのではないかと思う。

A :「名前くらい綺麗に書かない?/ 書くくない?」
B :「網棚に鞄置くとさ、降りるとき忘れない? / 忘れるくない?」
C :「消費期限切れてもさ、3日くらいなら食べれない? / 食べれるくない?」

比べるとやはり、通常の「〜ない?」の方が私という主体について問われていて、そしてその動作をするかしないかを尋ねられている感覚がちょっぴり強い。
そして「〜ない?」は勧誘の意味でも使うので、Aでは「それ一旦消しゴムで消して書き直した方がいいよ」とか、Bでは「忘れちゃうから下に降ろした方がいいよ」とかいった動作を遠回しに促されているようにも感じる。要は「個」の「動作」に対して介入してくる感覚があるので、端的に言ってストレスを感じる言い回しだ。

これが「〜くない?」となると、その「主体性」と「動作性」がどちらも消失して、「今私がするかしないか」ではなく「一般論としてどうか」に議題を移している感じがする。
「私が鞄を忘れるかどうか」ではなく「網棚に置いた鞄は忘れやすいかどうか」というフォーカスの移動。「私が-忘れる」ではなく「鞄は-忘れる」という、不思議な助詞『は』のパワーによって守られる私という存在。そういう安心感を、クナイはもたらしてくれるように思うのだ。

これは単に感覚の問題であるので、人によってはまずこの表現自体が気持ち悪くてSHUT OUT! という人もいるかもしれない。でも今後「くない」の婉曲表現としての都合の良さ、コミュニケーションにおける利便性が評価されていった場合には、クナイにはスラングより格上の、きちんとした生き残りの道が見えてくることになる。

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最後に少しだけ音楽の話に戻しておくと、音楽も言語と同様に、ゆっくりと変化が起こっている。そして音楽理論はときにMusical Grammarと称されるように、さながら言語における文法のようにうまく音楽をまとめていくことを目標にしている。

我々言語ユーザーは“現行の文法”なるものに照らし合わせて言葉使いの正誤を判断すれば良いことだが、肝心の文法そのものを構築・更新するデベロッパーは、ユーザーと同じ態度でいては話にならない。新奇な言葉遣いを「間違っている」「気持ち悪い」で切り捨てていたら、蓄積のないまま文法は現実と乖離していくのみだ。“乱れ”であることは理解したうえで、なおその“乱れ方”をニュートラルに観察して、データとして棚にしまっておかねばならない。

だから新しい表現の登場に際して、「正誤」という観点とは別に、過去を参照し、未来を予測しながら、今目の前で起きていることの意味や背景を考察する姿勢が、“文法”を編む人間に求められるものである。

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