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今年の新語と音楽理論の話

三省堂から辞書を編む人が選ぶ「今年の新語 2020」が発表されました。今年の大賞は「ぴえん🥺」。

「今年の新語」という催しについて

「今年の新語」は“辞書を編む人が選ぶ”というサブタイトルからも分かるとおり、今後辞書に載りそうな言葉をピックアップするという主旨で言葉が選定されます。
今年の大賞は、ぴえん🥺」と聞くといかにも流行りの言葉をサクッと拾ってきたように見えますが、決して軽率なものではなく、大真面目に選考した結果です。選評を読むとその受賞背景が分かります。

従来、泣く様子を表現するには、「わーん」「うえーん」「びえーん」など「大泣き」系か、「しくしく」「めそめそ」「くすんくすん」など「すすり泣き」系か、どちらかのオノマトペを使うしかありませんでした。「大泣きするほどでなく、少しだけ声を出す泣き方」を表す一般的なオノマトペはありませんでした。言わば、泣き声の体系の中で、「少しだけ声を出して泣く表現」が穴になっていました。

「泣き声の体系の穴」というおそらくもうこれから一生聞かないであろうワード。この賞は毎年こんな具合で、多くの人が「言葉の乱れ」の一言で済ませるような言葉を真剣に批評しています。

辞書を編む人たちという、元来言葉を守る立場の人たちが、あえて“乱れた”言葉にスポットライトを当てる。逆説的な現象がここにあります。

▼相対的な歴史観
特に近代から始まり古語まで遡っての講評は読み応えばつぐんです。例えば2016年の「ほぼほぼ」についての批評にはこうあります。

「ほぼ」を2回繰り返す形が嫌だ、と言う人もいます。語形について弁護しておくと、古代から「いと」を強調して「いといと」と言うなど、日本語には繰り返しことばが多いのです。「ほぼほぼ」もその伝統に則っています。

伝統に則った新語」という一見矛盾しているようにも聞こえる概念は、私たち自身もまた歴史の一地点にすぎないという認識があってこその言葉ですね。変化にも歴史があって、変化にも伝統があるのです。

▼分かりみと文法
ほか2018年では「分かりみ」が「〜み」の中でも動詞や名詞を受けている点が特異であることを指摘しています。これは品詞や語形変化にまつわる新しいトレンドですから、“泣き声の体系”どころか文法全体の体系に関わる問題になり得ますね。

もし「刺さりみが深い」「萌えみが強すぎ」など同様に動詞を受ける例が積み重なれば、いずれ体系が変わるべきかどうか真剣な議論を必要とするターニングポイントが来るかもしれない。それが100年後か200年後かは分かりませんが、とにかく何時そうなってもいいように、彼らは今起きていることを真剣に観測し、記録を残して未来に資料を託しているのです。

文法と流派

日本語の文法体系というのも完全には統一されていなくて、実は流派があります。我々が中学校で学んだ文法はどうやら「橋本文法」などと呼ばれているらしく、それとは別に「時枝文法」といった風に、提唱者の名前をとった流派があるようです。
われわれ音楽理論の民が「島岡和声」「バークリーメソッド」などと呼ぶのと通ずるものがありますよね。

国文法の議題として有名なのが、形容動詞の存在です。「穏やかだ」「健康だ」のような「形容動詞」は、実はその品詞の必要性が今でも問題になっていて、流派によって見解が分かれます。特に非ネイティヴ への日本語教育に際しては、「形容動詞」を使わず「ナ形容詞」という概念を用いるのが主流であるよう。

また時代による変化という点で言えば、今なら「ら抜き言葉」なんかがまさに変化の真っ只中にいて、文法を編む人たちはその行く末を見守りながら、もし認めるとしたらどんな形で体系に織り込むかというのを考察していると思います。

▼言葉の編み人と守り人
新語を観測する人も、文法を改訂する人たちも、決して今の言葉や文法を蔑ろにしているわけではない。彼らは単に、言葉が変わっていく様さえも愛しているにすぎません。

昔はなかったことばや、ほとんど使われなかったことばが、いつの間にか広まって、日常語として当たり前に使われるようになる。「ことばの定着」という、この興味深い現象に光を当てたいと考えるのです。
(2016年の選評より)

だから“編み人の精神”それ自体には、言葉が乱れないように変化の流れを堰き止めておきたいという気持ちはなく、むしろ変化を目撃するよろこびがあるのだと思います。

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音楽理論を編むこと

音楽理論の世界も、時代と共に常に変化が要求されてきました。その変化のプロセスは言語のそれに近く、まず新しい表現が生まれ、それが定着した頃合いに理論がそれを追従し、さらにその理論が定着してようやくひとつのアップデートが完了する。
理論の提唱から普及までタイムラグがあるため、その期間に音楽はまた先に進んでいて、一般に定着した理論というのは現実に対して遅れをとるのが世の常です。例えばクラシック界がクロマティシズムに進んでいった19世紀後半、理論界はまだダイアトニック音楽のための理論系を整備・普及している真っ只中でした。

その変化のスピードというのは時代によって異なるけども、少なくともコンピューターとITの革命によって情報が爆発する昨今は、天下泰平の時代からはかけ離れているように見えます。

▼新語の発生と定着
音楽の“新語”が定着するか否かは聴き手と作り手の両方にかかっていて、ようは新しい音をカッコよく使う先駆者が“点”として点在して、それに続くフォロワーが一定数連続して現れると、それが歴史に“線”として刻まれる。理論サイドは、頃合いを見てそれに名前をつけて我がもの顔で紹介するのだ。
古いところで言えば「ナポリの六」がそうだし、最近で言えば「Blackadder Chord」なんかも──新語かどうかはさておき──点が線になった典型例でしょう。

たとえいずれ死語になろうとも新語を観測することに意味があるように、ミーム的に発生した音使いを観測することには意義があります。

▼体系への変更要求
音楽の新語の中には「分かりみ」のように体系自体へ変化を要求するタイプのものもあって、例えば近年メキメキと頭角を表す「V→IImの接続」はその一例です。

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現行の理論では不自然・非推奨・逆行感・例外的・イレギュラーといったネガティヴな説明がされがちなこの進行ですが、そろそろ転換点を迎えている感があります。

個人的に捕捉してきた範囲で特に象徴的な楽曲を挙げると、2009年にLady Gagaが「Just Dance」で6-1-5-2の進行をフィーチャーし、2011年に少女時代が「MR. TAXI」にて全く同じ進行を用いました(これにはオマージュみを感じます)。そして2013年には「アナと雪の女王」の「Let It Go」で6-4-5-2の進行が用いられて、日陰者だったV→IImはいよいよスターになりました。

むろん“点”を探せばそれはビートルズなりバッハなりまで遡っても見つけられるかもしれませんが、それと“線”とは別ものです。点が線になるためには、「この音はこういう場所でこういう風に差し込めばハマる」という“例文”が作り手たちの間で共有され常用される必要がある。今はもう誰もがV→IImをどんな風に活かせばいいのか知っています。スラングだったものが、日常の語彙として定着していく過程がこの00-10年代に見えました。

V→IImが浸透した背景には、「4コードの執拗なループ」「3rdや7thを欠くベースとビートだけの編成」「和声的でない水平指向のメロディ」といったEDM様式の影響というのも確実にあります。技術や様式の変化が音楽を変化させ、それが音楽理論に変化を要求するのです。

▼理論サイドの対応
この時代の趨勢に呼応するかのように、2015年に東京藝大の新教科書として作られた林達也氏の「新しい和声」では、V→IImに対し「旋法的和声においてよくみられる。」というニュートラルな見解がとられ、譜例が紹介されました。これは画期的なことです。

旧教科書の著者である島岡譲氏は、V→IImのような5度上行全般に対し「決して自然的なものではない」という否定的な見解を「和声の原理と実習」で示していました。このようなネガティヴな見解が継承されず廃されていくというのが、新しいものを受け入れる変革の第一歩、布石となります。雨だれが石を穿つが如く、長い年月をかけて理論の世界も少しずつ変化しているのです。

音楽理論の進歩と進化

結局のところ、音楽が変わり続ける限りは音楽理論も変わり続ける宿命にあります。音楽理論が世界に芽生えてから今まで、程度と速度の差こそあれ、理論が変化していない時代というのはないと思います。

音楽理論は知識体系であると共にツールでありインターフェイスであって、理論が複雑化しすぎるとその反動でコンパクトな理論へのニーズが生まれ、その逆もまた然り。携帯電話が小ちゃくなってったと思ったら最近は逆に大型化してるみたいに、その変化には終わりがありません。

このあたりは生物の進化と似たものがあって、何か絶対的な「進歩の道」があってそこを前進しているというよりは、その都度環境の変化に対して適応し、より適応度の高い種が自然的に選択されてprevailingな存在となるという競争を歴史上繰り返しているように見えます。一見すると退化に見えることが実は生存戦略として有効な変化であったということも、あるわけです。

だからこそ音楽理論を編む者たちは常に音楽と音楽理論を俯瞰した位置から観測し続けて、ときに理論の改修を試みる必要がある。実際にどんな進化をした種が栄えるかは、後になってからでないと分かりません。ただひとつ言えるのは、種が多様であればあるほど、繁栄の道はたくさん残されるということです。

P.S.
この賞の選考委員のひとりである飯間浩明さんのTwitter 面白くておすすめです。


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