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ゆたかさと能書き


#ゆたかさって何だろう

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

bowです。

ハッシュタグ

何か募集されていたので、ネタもないし、「ゆたかさ」について思いを巡らせて見たいなと思い、拝借しました。

ゆたかさ

まず、平仮名なんですよね。
「豊かさ」ではなく「ゆたかさ」。なんでだろう。
漢字だといけない理由があったのかな。豊かな語彙力と言う点からみれば、漢字を用いる方が豊かな気はしますが。いや、こうやってなんでもかんでも漢字で書くことに縛られることは豊かではないのかもな。
自由な発想。自由な言葉。漢字じゃなければいけないという固定概念を取っ払うことで、いろいろな「ゆたかさ」を引き出すことができるのかもしれないな。深いな「ゆたかさ」。

平仮名の「ゆたかさ」についての疑問にはなんとなく答えが出たところで、「って何だろう」ってところにすすんでみよう。何だろうは漢字なんですね。「なんだろう」って読んでしまっているけれど、もしかしたら「なにだろう」かもしれない。
「いや、そんな細かいところ、どうでもいいだろう。」
と思われるかもしれないけれど、「なんだろう」と「なにだろう」は割と考え方に大きく関わってくる。
「なんだろう」だと、「ゆたかさ」とはなんなのか。「ゆたかさ」を定義するものはなにか、と言った命題になろうと思われる。
対して「なにだろう」と読んだ場合、なにを持って「ゆたかさ」とするか。物か事か、それらのどれが最も「ゆたかさ」であるだろうか、という命題になろうかと思われる。
前者は「ゆたかさ」を論じるに対し、後者は「ゆたかさ」はあるものとして、なにが「ゆたかさ」の象徴であるかを論じる形になる。その上で、今回のハッシュタグの論旨から鑑みるに募集している記事は、前者であろう。なぜなら、今この時代の「ゆたかさ」について問うていると思われるからだ。

「ゆたかさ」とは、普遍なるものなのか否か。

人々にとっての「ゆたかさ」とはなにか。富か名声か、はたまた愛か。

時と共に変化し、今なお移ろい続ける「ゆたかさ」と言う言葉の持つ意味。生きること。それそのものが苦労する場所と、どう生きるべきかと言う贅沢な悩みを持つ場所では、全くもって意味合いが変わってしまう「ゆたかさ」の持つ重さ。

この時代、この情勢において、「ゆたかさ」とは一体なんなのか。個人の「ゆたかさ」なのか。はたまた、集団、社会における「ゆたかさ」なのか。

そもそも、人は「ゆたか」であらねばならないのであろうか。「ゆたかさ」を求めるが故に「ゆたかではない」と思ってしまうのではないだろうか。

「ゆたかさ」の再定義は「まずしさ」を取り除き、ゆたかであることを強要しない、誰もがゆたかであることに気づかない、つまり、「ゆたかではない」と思わずに生きられる社会になると、素晴らしいと思う。

なんて

くだらないことが書けるnoteがある毎日って、じぶんにとって最高に豊かだなって思いますね。こうしなきゃいけない。こう書いてはいけない。そんなもののないnoteがこれからも続くといいなぁ。

それでは、本日はこの辺りで。

失礼します。

bow


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