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第3回◆「ウトロ」から考える、植民地支配から続く今

朴順梨(ライター)

ネット情報を信じた青年が放火

 焼け残った建物をじっと見つめていると、焦げ臭いにおいが鼻に飛び込んでくるようで、思わず息をのんだ。「あの日」から1年経っているのだから、そんなわけがないのはわかっている。
 
 京都駅から近鉄京都線に乗り、宇治市内にある伊勢田という駅を目指す。各駅停車を降りて歩くこと約10分。「ウトロ51番地」と書かれた看板の向こうに、ウトロ地区と呼ばれる在日韓国・朝鮮人の集住地域がある。その一角にある空き家に2021年8月30日、当時22歳だった青年が放火した。奈良県からわざわざウトロに足を運び、空き家にあらかじめ用意していたライター用オイルを撒き、キッチンペーパーに火をつけて周囲の6棟も全半焼させた。半焼したうちの2軒には、人が住んでいた。たまたま留守だったことで人的被害がなかったが、うち1軒の飼い犬が火災直後に亡くなっている。もちろんこの2軒の住民は、引っ越しを余儀なくされている。

 現在23歳の加害者は、なぜウトロ地区に火を放ったのか。裁判の過程で彼はこう言っていた。

「日本に在住している、していないにかかわらず韓国・朝鮮人に敵対感情があった」

「いわゆる不法占拠とされていた方や歴史観、慰安婦像設置に関与していたと思われる方に対する抗議を示すもの」

「(不法占拠の)経緯の正当化を主張する看板を祈念館に掲示し、それを平和と主張することは、客観的にみて平和と捉えられるものではない。そうした部分からしても、開館そのものを止める、それと同時に、この地区がどういった地区であるのかを示したかった」

 彼は「ウトロは不法入国した在日に不法占拠されている」という情報をネットで拾い、「不法占拠」の言葉の意味が気になり始めた10日後に、放火に向かったという。

 ウトロ地区の在日韓国・朝鮮人は不法占拠で、そこに平和祈念館を建てるなんてもってのほかで許しがたい。この地区がどういう場所かを示すために、あえて火を放った――。

 短く主張をまとめるとこんなところだが、ウトロ地区に現在住む在日韓国・朝鮮人は不法占拠しているわけではない。もっといえば、朝鮮半島が植民地にされたことで人生が変わった人たちが、行き場を失った後に身を寄せ合ってずっと暮らしてきた場所だ。ネットに漂う胡乱な情報によってこれ以上誰かが傷つくことがないように、ウトロとそこに住む人たちの歴史について、辿っていきたいと思う。

飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者

 時は1939年、当時の大日本帝国政府の後押しで、京都府宇治市のウトロ地区に、国策による京都飛行場が建てられることになった。中村一成の『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』(三一書房)によると、この地は京都府内有数の優良耕地だったという。先祖代々受け継いできた田畑や果樹園を潰されるのはたまったものではない。住民たちが抗議すると、当時の赤松小寅京都府知事は「お前ら百姓をしたかったら満州に広い土地があるので、みんなそこに送ってやる」と言い放った。こうして恫喝に近い方法で、約320ヘクタールの土地が飛行場と関連施設に転用されることになった。

 飛行場建設のために集められた労働者は約2000人、うち1300人が朝鮮人労働者だった。
 その頃、朝鮮半島は宗主国である大日本帝国のために機能する場所となり、土地を接収されるなどで貧困にあえぐ人も少なくなかった。生きるために日本内地にやってきても、彼ら彼女らは大日本帝国の「臣民」ではあるものの二級臣民として、厳しい差別の対象となった。さらに徴用令の対象となり、ひとたび徴用の対象となると、どこに連れていかれるかわからない。その上、命令にそむく自由も途中で離脱する自由も奪われてしまう。逓信省と京都府が絡む国策事業の京都飛行場建設に加われば、徴用を免れることができる。そのような理由で、朝鮮人労働者はウトロに集まってきた。実際に働いていた在日一世は、こんな言葉を残している。

「直接連行してきたとか、あるいは募集してきたとかいう人はなかった。ただ逓信省の仕事、それから京都府の仕事は徴用へ行かんでよい。そういう関係で、民間の工場で働いていた人もやめて、徴用へと捕らわれるのが嫌だから、やめてここへ来ました。あるいはよそで土方していても、ここで働けばいいということで自然と寄って来た」(『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』より)

 労働者の多くがそれまでの仕事を辞めて、ウトロにやってきた。しかしこれを「好きで来た」と思うのは大間違いで、「徴用に捕らわれて奴隷労働させられるよりは」という理由だった。徴用されると、それほどまでに酷い目に遭わされていたのか。

 確かに無理やり連れてこられたわけではない。しかし「好きで自発的に来た」のでも決してない。ただ京都飛行場の飯場労働も決してラクではなかったし、空襲に襲われることもあったが、それでも人間として生きることができたのだ。

戦後も都市計画から排除された「ウトロ」

 1945年8月15日、ウトロにも「玉音放送」が流れ建設工事は中断する。放り出された労働者たちは、食べるものにも困るようになっていった。日本政府からは何の補償もないし、帰国したくても朝鮮半島の住まいや家族を失くした人も少なくない。残された人たちはバラックを建てたり学校を作ったりと、自分たちでウトロを開拓していった。だがその環境は、劣悪極まりなかったという。終戦直後、日本人コミュニティで暮らしていたある在日はウトロに赴いた際に、こんなことを思ったそうだ。

「とにかく人の住めるような場所じゃなかった。豚と人間とほんとに目の先、鼻の先というのは嘘やけど」「下水もないからそのまま流して洗いもしない」「雨降ったらぬかるみになる」(同)

 これはひとえに朝鮮人が集住しているからと、地域の都市計画から排除されてインフラが設備されなかったことが大きい。ウトロでは1980年代に入っても、上下水道が整備されず雨が降ると床上浸水したり、生活用水を地下水に頼ったりという状態が続いていた。 
 
 しかし彼はそれでも、ウトロに通うようになった。そこには人との交わりや親近感があり、日本人コミュニティでは知ることができない、朝鮮のしきたりもたくさん教えてもらえた。彼はウトロで、「人間として大切なことを教わった」とも語っている。

 この交わりや親近感は在日だけではなく、ウトロに来る日本人も包み込んだ。ウトロに通うようになった日本人たちは、インフラがまともに整備されていないことを知り、生活改善のために動き出していく。その結果、1988年にやっと上下水道が敷設された。

 スラムと呼ばれたウトロが一歩前進したのと同じ頃、事件が起こる。国策企業から土地を引き継いだ日産の関連会社である日産車体が、西日本殖産という会社に土地を転売した。この西日本殖産が、住民を追い出しにかかったのだ。住民と支援者たちは西日本殖産を訴えたが、2000年に最高裁で敗訴してしまう。これを根拠に、放火事件の加害者は「不法占拠」と信じ込んだのだ。

韓国と日本の財団が支援に乗り出す

 最高裁で敗訴したが、この裁判と支援者による運動が韓国にも伝わり、2005年に韓国で「ウトロ国際対策会議」が結成された。募金を集めると韓国内の約16万人が参加した。私のリアル友人も2人募金している。さらに韓国政府が30億ウォンを支援することが決まり、2010年には日本のウトロ民間基金財団が、2011年には韓国政府系の財団が合わせて約2000坪の土地を買収した。その土地には現在、ウトロの住民たちが暮らす市営住宅とウトロ平和祈念館が建っている。不法占拠ではないことは一目瞭然で、裁判の過程でも加害者は自身の弁護士に、「(不法占拠というのは)それはおそらくあなたの独自の法律解釈だと思う」と喝破されている。

「ウトロの人は徴用されてないのだから好きでやって来た」とか、「不法占拠していた」というのは、歴史を知らなすぎる物言いであることがこれでわかったのではないか。それでも疑問があるのなら、ウトロ平和祈念館を訪ねてみるといい。時に悪意に晒されても、住民や支援者たちは常に門戸を開いている(休館日がないという意味ではない)。そこで自分の目で見て触れて、知りたいことは質問してみればいい。そうすることで歴史を正しく知ることができる。歴史を正しく知ることは、「独善的で身勝手」な意識による事件を、二度と起こさせないことにも寄与する。私は、そう信じている。


■「ウトロ平和祈念館」ウェブサイトはこちら
  https://www.utoro.jp/

■当サイト内参考リンク:
 ・戦時労務動員―日本人と朝鮮人はどう違うのか

〈「波の音をきく」編集部から〉
リレーコラム「波の音をきく」は、サイト「『徴用工』問題を考えるために」の特別企画です。「徴用工」問題に対する思いをもつ様々な人にコラムを寄稿してもらっています。
戦時中、日本の戦争遂行のために多くの朝鮮人が日本に強制連行され、労働を強いられました。私たちのサイトでは、朝鮮人「徴用工」問題=戦時強制動員問題をめぐる論議を、研究成果や判例などの「ファクト」に沿って、可能な限り交通整理することを目指しています。詳しくは以下をご覧ください。
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