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第2回◆『この世界の片隅に』と広島の「加害/被害」

植松 青児(編集者)


読み直して気づいた大事なこと

 大ヒットした漫画/映画『この世界の片隅に』はアジア太平洋戦争末期の広島・呉市を舞台に、ある一家の人びとを描いた作品だ。その序盤に、次のようなシーンがある。

 広島市の南部、太田川河口にある集落・江波(えば)で海苔(ノリ)養殖を営んでいた主人公の父・浦野十郎が、呉から来た北條円太郎・周作親子に次のように語る。
「うちも海苔を作りよりましたが、三年前の埋め立てでやめましてのう/今はそこへ出来た工場に勤めよりますわ」(漫画『この世界の片隅に』上巻61頁、映画にも同じシーンあり)

 同作品のアニメ映画が公開された2016年、原作漫画を読み直したとき、このシーンのところで手が止まった。やがて全身が震えだした。原作のこのシーンを初めて読んでから約10年、私はなんて大事なことを読み過ごしていたのだろう……。

 この広島市江波という場所は、漫画『はだしのゲン』や福島菊次郎の写真集『ピカドン』を通じて知られてもいるが、原爆投下前は、朝鮮人強制労働動員の現場だったのだ。少なくとも2つの意味で。

朝鮮人労務動員の現場だった広島

 『この世界の片隅に』には、主人公のすずが、江波の小さな山の上から「そこへ出来た工場」を見下ろすシーンもある。原作にも映画にも固有名詞は出てこないが、これは1944年に操業された三菱重工広島造船所と広島機械製作所である。前者は江波地区の干潟、後者は観音地区の干潟を埋め立てた土地に建てられた。現在も名称を変えて操業している。
 この三菱重工広島の両工場は、強制労働動員という「暴力」の現場だった。
 両工場は約2000人の朝鮮人労働者を強制的に調達したが、それでも計画人員約2万2000人に対し、約1万2000人しか労働者を確保できなかったと『広島市被爆70年史 あの日まで、そしてあの日から』には記されている。圧倒的な労働力不足は、朝鮮人強制労働動員によってもほとんど解消されなかったのである。
 このような条件下で、朝鮮人労働者の徴用は強引をきわめた。同工場に徴用された朴昌煥氏は戦後、次のように証言している。

 「1944年9月20日頃、突然、村の役人がやってきて『徴用令書』を示され、そのまま連行されて平澤(ピョンテク、韓国・京畿道南部の都市)の日本人が経営する松本旅館に宿泊させられました。そこでは村の役人と警察官に監視されていました。翌朝、地元の城東普通学校の運動場に連れて行かれると、そこには自分と同じように『徴用』された約100人の朝鮮の若者がいました。ここで私たちは日本人に引き渡されました。その中には2、3人の三菱のマークのついた帽子をかぶっている人がおり、彼らが指揮をとっていました」

 三菱の社員は、自ら強制連行の現場で指揮を執っていた。さらに、徴用に際して「白米をたくさん食べさせる」などと詐言を弄(ろう)していた。このことは戦後、当時の三菱社員が証言している。思い出集『原爆前夜』という冊子の第1巻に収録された「原爆前後の広船」で、当時の造船所鉄工場第一、二工作係長は次のように述べている。

 「半島応徴士(注・当時は朝鮮「徴用」工をこう呼んでいた)は強いがなかなか働いてくれなかった。元々白米をたらふく食べさせるとだまして連れて来たのだから、現実が約束とあまりにひどいのに腹をたてて働かないのです」

 食事待遇の問題は、朝鮮人労働者の証言にも登場する。たとえば金再根氏(終戦後、韓国へ帰国)の次の証言。

 「われわれが起居していたのは、南観音町にあった東西南北の四つの大宿舎である。(中略)一カ月もならぬうちに、日本人と韓国人のあいだに民族的な葛藤がはじまり(中略)喧嘩が絶えなかった。争いは食事の差別待遇にたいする不満から起きたのである。(中略)食物の量が少なく質もひどいものだった(中略)。被服補給などもお話にならぬくらいひどくて、わらぞうりを履いて、軍需工場で働かされるほどだった」(朴壽南『朝鮮・ヒロシマ・日本人』1973年、156頁)

 江波と観音にある三菱重工広島の両工場は、このような強制労働動員の現場だった。そして、そこで働いた元徴用工が三菱を訴えた損害賠償訴訟で、韓国の大法院(最高裁判所)は三菱に損害賠償判決を言い渡した。
 それだけではない。江波や観音などは、工場建設に先立つ埋立て工事の段階から、朝鮮人強制労働動員の現場だったのだ。そして、筆者の母方の祖父も土木会社の日本人社員として(つまり、植民地主義の加害当事者として)当時働いていた。江波の沖を埋め立てたのも、祖父の勤務先だったのかもしれない…。『この世界の片隅に』を読み直して、全身が震えだしたのは、そのことに気づいたからだった。

私の祖父も植民地主義の加害者だった

 私の祖父が広島で入市被爆(原爆投下のあと、救援で爆心地近辺に入り放射線被ばく)したことと、祖父が呉市の「水野組」というマリコン(港湾工事に特化したゼネコン)の社員として、朝鮮人労働者を使用していたことを、私は10代のときに母から聞いた。母は「父さん(=私の祖父)は、朝鮮の人たちには優しく接していたらしい」と語っていたが、本当のことはわからない。ともあれ、8月6日に限って言えば戦争被害者だが、8月5日以前は植民地主義の加害者でもあったということは、10代の私にもなんとなく理解できた。
 そもそも祖父は、なぜ原爆投下直後に広島市中心部に入ったのか。呉に拠点を置く水野組はなぜ、広島市にも建設現場を持っていたのか。ひょっとして水野組は、江波や観音の埋め立て工事に関わり、『この世界の片隅に』の冒頭に登場する、のどかな干潟を埋め立てたのか。

 2018年に刊行された前述の「広島市被爆70年史 あの日まで、そしてあの日から」を読んで、その謎が氷解した。同書には、広島市の太田川河口部を埋め立てる計画(「広島工業港」建設計画)が存在したが遅々として進まなかったこと、しかし日中戦争開始後に軍都・広島を拡大するために一気に建設が進んだこと、2区(吉島)3区(江波)4区(観音)の埋め立てが同時進行で進められたこと、そして2区の工事を水野組、3・4区の工事を東京の業者が請け負ったこと、3・4区には三菱重工が工場を建設したが、2区は陸軍飛行場を建設する途中で敗戦になり、未完で終わったことなどが記載されていた。水野組は江波ではなく、その東に位置する吉島地区の埋め立てを請け負っていたのである。吉島にも、埋め立てによって生業を破壊された漁民がいたはずだ。

 軍都「廣島」(当時はこう表記した)の拡大のため埋め立てられた江波・観音・吉島などの地区は、いくつもの構造的暴力が交差する現場だった。少なくとも、①その地域の人々の生業(海苔や牡蠣の養殖)を破壊し②埋め立て工事では多くの朝鮮人を強制労働動員し③その地に建設された三菱重工の工場でも多くの朝鮮人を強制労働動員し④そして1945年8月6日に投下された原爆――以上4種類の暴力の現場だったのである。

 広島市南部(太田川河口付近を中心に、google map より)


語られない「廣島」の加害

 だが、『この世界の片隅に』の読者/観客はもとより、平和都市・広島に心をよせる人の多くは、かつての「軍都・廣島」が「強制労働動員」の現場だったことを知らない。知る機会がきわめて稀だからだ。現在、日本における「広島」の語りは「8月6日」とそれ以降にほぼ集中している。8月5日までの「廣島」に存在したさまざまな構造的暴力は、「ノーモア・ヒロシマの語り」からはほぼ外されている。

 しかし、私の祖父のような「8月5日までは加害者で、8月6日は被害者」という存在は、当時の「廣島」では例外的な存在ではなかったはずだ。当事者も、それを知った非当事者も、そのことを語ってこなかった。私自身も、祖父の加害・被害を双方ともに長い間語らないできた。今はそのことを後悔している。加害・被害ともに語らずではなく、双方をともに語るべきだったのだ。

 今からでも、広島を「語り直す」ことは可能だと思う。「廣島」が侵略戦争で果たしてきた役割、「廣島」の軍隊によるマレーでの住民虐殺、「廣島」への強制労働動員、さらに戦後の朝鮮人被爆者への差別、そのそれぞれにも「ノーモア(・ヒロシマ)」と誓うこと。そのとき「ノーモア・ヒロシマ」は核兵器廃絶だけではなく、「帝国主義や植民地主義の過ちを繰り返さない」という誓いの言葉にもなりうるだろう。8月6日だけではなく、8月5日までの「廣島」もまた、人類にとっての「反面教師」である。私を含め日本人は、この反面教師としっかり向き合う必要があるはずだ。

■当サイト内参考リンク:
 ・「徴用工判決をめぐる3つの誤解と2つの疑問」
 ・「戦時労務動員―日本人と朝鮮人はどう違うのか」

〈「波の音をきく」編集部から〉
リレーコラム「波の音をきく」は、サイト「『徴用工』問題を考えるために」の特別企画です。「徴用工」問題に対する思いをもつ様々な人にコラムを寄稿してもらっています。
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■WEBサイト:「徴用工」問題を考えるために
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