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Infinite Nostalgia


【この物語は、フィクションです】


"Infinite Nostalgia"という小説をお届けします。
この物語は、私のリリースするサウンドトラックとのミクスチャー作品です。小説と音楽を自由に組みあわせていただければと思います。
この物語のサウンドトラックは、高橋政徳の音楽プロジェクト"The Immersive Callings (THE IC)"より、2022年4月9日にリリースされます。
先行シングル"Love Eternally Makes Oasis New"は、2月1日リリースしました。
これらの楽曲は、Apple Music, Spotify, YouTube Music, Line Music, TikTokなど主要な配信先で聴くことができますので、是非お聴きください。


Infinite Nostalgia

高橋 政徳


Prologue

2033年8月。
リリカが、いなくなった。

ユウトは夜の多摩川を眺めていた。遠くには都市の光が何事もなかったように、ぼんやりと浮かんでいる。秋の気配すらせず、ただむさ苦しい夜の熱気が、背中にまとわりついた。

誰かに対してでも、何に対してでもなく、行き場のない、ただ湧いてくる怒りにも似た感情、情けなさ、後悔、どうしようもない悲しみが混じり合い、ユウトの心に湧き上がった。

「なぜ、僕だけが。」そのようにしか思うことができなかった。
涙が遠くの夜景を滲ませる。
ひとしきり涙を流した後、ユウトは深いため息をついた。

なまぬるい風が吹いてきた。草木の緑と川の匂いが混じった風を吸い込む。
対岸のあたりで、ヒュッ、とロケット花火を打つ子供がいた。パチンと夜の空にはじけて、紅の炎の粒が風にひらめいている。子供達の笑い声が夜の闇に響く。

リリカは、突然、亡くなった。

もし彼女との関係がよくなければ、お互い憎み合ったり、忘れてしまいたいこともあって、少しは気が楽だったろう。
しかし、全てが愛おしい。リリカと過ごした日々は、ほんの僅かだった。彼女と作った記憶は、ユウトを悲しみへといざなう。

川が、ただ流れていた。



1-1

7時10分の目覚ましが鳴る。ユウトは予期していたように目覚ましを止めた。
カーテンを開けると、冬の曇り空が広がる。
ベッドから起き上がり、トイレに行き、狭いキッチンでぼんやりと、日課の朝のコーヒーをドリップする。大手コーヒーチェーン店の焙煎した豆を冷蔵庫から取り出し、コーヒードリッパーにお湯を流し入れた。
1DKのアパートは冷んやりとして、コーヒーの滴れる音がする。トースターに食パンを入れ、焼き時間を1分30秒にセットした。見るわけでもなく、テレビの朝のニュースをつける。一人暮らしなので、テレビの薄い板の中で誰かが話しているのを聞くと、安心するのだった。
ユウトは、コーヒーを飲みながら、携帯電話をみた。

2029年2月9日。

トーストにマーマレードをつけながら、一人、あじけない朝食をとった。

今日は、ツムギと3週間ぶりに会う日だった。一緒に夜ご飯を食べる約束をしていたので、良さそうな店をネットで検索する。最近は自分や他者の体験履歴がデータベース化され、検索エンジンに過去に自分が行って美味しかった店、ネットで評判の店、メタバース上の友人がおすすめする店などが、AIの分析を経てコンピューターの画面に並ぶ。
その中から、和食のお店、ベトナム料理のお店、イタリア料理のお店の3店舗をピックアップした。

ユウトはVRゴーグルを取り出した。ゴーグルを装着し、仮想空間にジャックインした。仮想空間にいるのか、実店舗の中にいるのか、もはや違いがわからない。そのくらいメタバース空間はリアルだ。店舗空間は高精細にデジタルスキャンされ、畳の藺草の1本1本、ベトナム伝統のホイアンランタンの鮮やかな色味、イタリア料理店のピザ窯の石のゴツゴツした感じまで、本物そっくりの質感を感じることができる。体感に近い視覚情報はメタバース上で得られる時代になったのだった。
30分ほど美味しそうなお店の仮想空間をさまよった後、今日はイタリアンのレストランに行くことにし、ネットから予約をした。

そろそろ出勤の時間なので、ゴーグルをつけたまま、会社のバーチャルオフィスにログインする。
バーチャルオフィスには、まだ誰も来ていない。午前9時の会社のミーティングに間に合うように、ユウトは昨日作成した資料を確認した。

ユウトが勤める会社は、大手半導体メーカーであった。半導体の需要は多岐に渡り、様々なニーズが顧客から寄せられ、それに応えられる仕様を自社に開発提案し、出来上がった製品を顧客に提案するというのが主な仕事内容だった。
ユウトの仕事は、法人取引先とのコミュニケーションがメインだった。実際の商品を確認したり、説明したり、取引先の仕様を目で確認するために、取引先まで行くが、それ以外の打ち合わせなどはメタバースを使った。人が移動して、取引先と会うことは特別なことがない限り、非効率だと考え方が普通になった。
むしろメタバースを使った方が、外国や遠方との取引先とはやりとりが簡単になり、ビジネスチャンスも多くなった。

「おはようございます。」
午前8時55分には、法人営業課13人のアバターがオフィスに出現した。
それぞれのアバターの手元には、ユウトの作成したミーティング資料がまるで紙でコピーしたように握られている。顧客リスト、今週の営業の内容、お客様のニーズなどが事細かく書かれている。ユウトはVRゴーグル越しに誤字脱字がないか確認した。

「今日も要点をついた資料作成してくれたね、ありがとう。」課長のヤマモトさんが微笑んだ。

「それでは、朝のミーティングを始めさせていただきます。」司会の上司のアキヤマさんが切り出した。彼のアバターは目元が充血し、眠たそうな顔をしている。昨今のVRゴーグルのスキャン能力、センサーの能力は恐ろしく、本人の顔そのものがアバターに表現されていく。
メタバース会議の視点は、自分で自由に選べる機能がついている。自分が話すときは、自分からメンバー全員が見える視点に切り替えたり、ほかの人が話すときは、引きのアングルに切り替えたりして、ミーティング全体の雰囲気も観察できた。
VRゴーグルに映し出される自分自身のアバターを客観的に見ながら、ユウトは自分自身を見つめた。鏡でみる自分とも違う、デジタルに投影された自分を、まるで神の視点から見ているような錯覚すら感じた。今日のアバターには、紺色のスーツに黄色のネクタイ、白地に黒い格子柄の入ったYシャツ、黒い革靴をユウトはコーディネイトしていた。

メタバースとは、オンライン上に構築された3Dの仮想空間とそのサービスである。自分のデジタル分身であるアバターを仮想空間で動かす。2021年はメタバース元年とされ、巨大な投資の波が世界中の大手企業に流れ、開発が始まった。それ以降、多種多様なサービスが開発され、ビジネスにも大きく活用された。
メタバース黎明期は、コンピューターゲームのようなアバターを操作することに終始していた。コミュニケーションがしにくく、オンラインゲームの延長程度にしか人々に写っていなかった。メタバースが一気に社会に浸透したきっかけは、ログインしている人間の表情そのものがアバターに反映させる技術が開発されてからであった。高性能のゴーグルセンサーが登場し、メタバースのデジタル仮想空間で人間の表情をリアルに表出させることができるようになると、一気に大企業がリモートワークに取り入れた。
リモート会議の主流だったビデオカメラは、5Gが浸透して以降、画像転送、音声が良くはなったものの、社員どうしのコミュニケーションツールとして、どこか物足りないものがあった。
メタバースが発展するとバーチャルオフィスが、実際にオフィスに行って社員と会話するのと何ら変わらないまでにリアルになった。仕事上のコミュニケーションとしては、メタバースで十分成り立つと見た大企業にとっては、経営効率化に有効な手段だった。
今や、ほとんどの大企業は、VRゴーグルを社員に提供し、場所を選ばずに社内合意形成がメタバース上でできるようになった。自分の会社や取引先に行くコストと時間を削減できる。ミーティングのタイムリミットを設けて無駄な会議を省ける。社員は職種にもよるが、住む場所は自由に選べる。人間同士の意思疎通が簡単に行えるメタバースミーティングは、働き方を大きく変えた。
それに伴い、アバターに着せるファッション、グッズの産業や、会社以外での出会いの場など、社会としてのメタバースが広がっていった。
2022年以降のテクノロジーの進歩からくる「ニューノーマル」は、人々の働き方、人々の行動様式や考え方、認識、感覚などに影響を与え始めていた。

ミーティングが終わると、ユウトは自社のバーチャルオフィスをOFFにし、10時に約束していた取引先の営業の人と打ち合わせるべく、再びジャックインした。今日は、何件かメタバース営業をし、実際に会社を訪れる案件はなかった。
営業の合間に、ユウトは恋人のツムギにLINEを送った。相変わらず向こうは仕事が忙しいようで、既読はつかない。
彼は営業職なので、時間はいくらでも作れた。会議はメタバース上で済む、営業先に行って商談をする機会もさほどないので、一人の時間はいくらでもあった。暇をつぶす代わりにツムギにメッセージを送る。彼にとって返信されることは問題ではない。ユウトが送信しても、既読されないメッセージは20時まで溜まっていく、そんな毎日だった。

VRゴーグルを外し、ジャックアウトしたユウトは目の周りの疲労感を感じながら、窓の外を見た。大学時代、よくやっていたゲームを終えた感覚と何ら変わらない。15時をすぎて、太陽は西に傾き始め、雲をオレンジ色に染め始めている。
ユウトは、深いため息をついた。



1-2

ユウトはツムギとの待ち合わせ場所、大手コーヒーチェーンのショップにいた。
カフェの窓越しに、自動車の列が見える。渋滞が続いているが通りは静かだった。ほとんどが電気自動車、水素自動車で、車の風を切る音だけが微かに聞こえる。

ユウトは、読みかけの本をテーブルに置いた。営業に関するビジネス書は、ページの端が折られて不規則に重なり、少々見すぼらしい佇まいをしている。ユウトのカフェラテは、待ちくたびれて冷めきっていた。

「遅れてごめんね!」

ツムギが息を切らしながら、コーヒーショップに入ってきた。きれいに切りそろえた栗色のショートボブを揺らしながら椅子に座る。いつもはきっちりと時間を守るツムギが、ユウトとの待ち合わせに遅れてくることは珍しい。

「いや、大丈夫だよ。」と少し気のない返事をしながら、ハルトは残ったカフェラテを口にした。

「今月から始まったVRゴーグルの表情スキャンシステムβ版テストが思った以上に時間かかっちゃってさ。『今日はすみません、約束があるので帰らせていただけませんか?』って上司になんとか頼みこんで来たのよ。」

ツムギは、ユウトと同じ大学の同級生で、サークルで知り合い、付き合ってもう8年になる。理系大学院でデータ工学を学んだあと、日本の新興企業「オムニバース」の研究開発部門で働いていた。彼女は、アップデートする顔のセンサーの開発を任されていて、最近は多忙を極めていた。日本人の仕様のみならず、様々な人種の顔の表情を把握し、個別最適化するセンサーの開発・研究の途中にあった。
ツムギは、東京で生まれ、幼い頃から高いレベルの教育を受けたお嬢様だった。大学の頃から、目的意識が高く、新しいデジタル技術で世界を変え、地球環境問題の解決や、CO2の削減に貢献したいという情熱が彼女を動かしていた。

一方のユウトも東京出身だが、特に何かをしたいわけでもなく、周りのみんなが大学へ行くから大学を受験し、就職先もなんとなく営業職がいいと思って入社した。なんでもそつなくこなす器用さを持ち合わせていたが、夢と呼べるものは何もなかった。ユウトは、昔から目的などなかった。というか、わからなかった。父から「自立してお金を稼げ」と子供の頃から呪文のように言われて育ったせいか、夢を追い求めるよりもリスクの少ない道を選んだ。嫌々大学受験をし、安定した大企業になんとか滑り込んで、そつなく仕事をこなして生きていればいい、ユウトはその程度にしか思っていなかった。

ツムギが勤める「オムニバース」という会社は、もともとゲームのためのVRゴーグルを制作していた小さなスタートアップ企業だった。”メタバースの世界で、人々の暮らしと仕事を変化させ、環境負荷のない世界をつくる”という理念の元、VRゴーグルのセンサーを開発、進化させた。「オムニバース」の強みは、センサー技術とAIを掛け合わせ、日本人が得意とするきめ細かい分析と技術開発にある。ゴーグルセンサーは、目の表面から蒸発する涙や、顔の水分量、表情筋から目尻のシワの1本1本まで完全に感知し、ゴーグルをつける人の顔そのものをアバターに合成させた。人の顔そっくりの完璧なデジタルの画像は、もはやアバターとは思えないほどの、人間の顔そのものになった。

アバターにログインしている人間の表情そのものを反映させる技術は2022年頃からあったが、「オムニバース」の高性能ゴーグルセンサーはメタバースのデジタル仮想空間で人間の表情をリアルに表出させる点で、革新的技術だった。
この技術によって、世界中の投資家からその成長を見込まれて長期投資を受けることに成功した「オムニバース」は、数年で時価総額を上げて急成長し、ユニコーン企業となった。今や日本のほとんどの人が利用しているVRゴーグルは、「オムニバース」製になりつつあった。
最近は、手の感覚までデータ化し、転送できる技術開発にも着手している。これを用いれば、手袋のようなセンサーで遠方の人でも握手できる。さらに、呼吸の検知、目からこぼれ落ちる涙までアバターに反映させる技術も研究していた。テクノロジーは、人々の機微に触れるところまで進化しようとしていた。
視覚、聴覚、触角のテクノロジーの発達は、人類の感覚を揺さぶり、感覚の再定義を迫るほどになっている。

「おなか空いたね、どこに行く?」ツムギは言った。

「すぐそこのイタリアン予約しておいたから、行ってみようよ。」LINEにも書いておいたが、忙しいツムギはまとめ読みをして忘れていたのだろう。ユウトは別段怒ることもなく、少し乾いた調子で言った。

イタリアンの店に着くと、予約していたコース料理が出てきた。普段、あまり夕食に頓着しないツムギにとっては久しぶりのご馳走だった。

「おいしい!やっぱり、リアルはいいね。」とツムギは当たり前のことを言いながら、白鯛のカルパッチョを食べている。
「今うちの会社が開発している技術が製品化されると、いよいよVRと現実の世界って統合されはじめていく感じがするんだよね。通信も5G、6Gになってデータの量が豊富だから、メタバースの世界がすごくリアルだよね。どこからがデジタルで、どこからがリアルなのかが最近よくわかんなくなってきてる。でも確実にそのほうが地球環境に負荷かけずに経済活動できる選択肢が増えて、よりよい世の中になるよね。メタバースの可能性って無限にあると思う。」ツムギは少々興奮しながら言った。

「そうなんだ。」とユウト答えた。今日見たニュースで、メタバース依存症の人が増え、現実感覚の乖離から精神異常を来す事例が増えているという記事があったことを思い出しながら、ユウトはカルパッチョの赤い胡椒を噛んだ。程よい辛味が口に広がる。

メタバースの世界が革新的になったとき、ユウトも確かに興奮した一人だ。働くという概念は本当に変わった。SNSも、誰かと連絡を取る手段も、随分と便利にはなってきている。しかし、自分の存在、感覚がどこか置き去りにされているように最近は思える。VRゴーグルの中の上司や取引先の人との会話は、何か物足りないとユウトは感じていた。むしろ2ヶ月に1回の出社や、取引先の訪問のほうが、働きがいがあると思っていた。ユウトは、自分は古いタイプの人間なのだろうか?と思いつつも、行き過ぎた技術革新に疑問を持っていた。

「見えるってことは、どういう状態のことなんだろうね?ほら、色彩学だと、私達人間って脳の中で色を作り出してるっていうでしょ?確か、人間の場合、網膜上の視細胞の錐体細胞は3種類あって、青、緑、赤を感じるって聞いたことある。他の動物は錐体細胞がそれぞれ違うから、人間とは同じようには見えていない。例えばね、スペインの闘牛の牛って、赤色のマント、あれムレータっていうんだけど、牛は緑色に見えているらしいのよ。闘牛士の赤色のムレータで興奮しているのは牛ではなくて、観戦している人間だけみたい。
つまりね、この世の中の色彩って人間だけが見えているものだけで満たされているってことなのよ。ひょっとしたらこの地球そのものには色彩はないかもしれないね。」ツムギが言った。

「ふーん。」ユウトはなんとなく聞いていた。

「それと同じで、メタバースオフィスとか、メタバースショッピングモールとか、友達同士のグループルームとか、今私達の触れている仮想現実って、私たちの脳が作り出しているだけなのかもね。最近だと触覚センサーも充実してきてるから、ますます私たちの脳がつくる”色”が増えていく。存在するって何なんだろうね?」トマトソースパスタをフォークに巻きつけながら、ツムギが言った。

「そうだね。」ユウトはツムギの話すことに少々辟易しつつも、フフッと笑みを浮かべ、パスタを食べながら言った。オリーブオイルの甘やかな香りが漂う。
「お笑い芸人のアバターライブも、あれはあれで面白いけど、アバター視聴者の笑い声がときどき通信不具合でバグるじゃない。この前バグった時、彼らネタにしてたけどね、『なんか今のバグった笑い声、すごい気持ち悪くない?いい加減、俺たちをリアルの会場でやらせてくれよー』って。やっぱり、エンターテイメントはリアルに限るね、落語とか、音楽ライブとか。仮想現実では表現できない、臨場感とかは大事だと思うよ。」

「それは、あるかもね。ははは。」リリカは食べながら、笑った。

ユウトはレストランの窓を見た。店内の熱気でうっすらと曇っている。夜の東京を白い光のヘッドライトが浮かんでは消える。車のセンサーは車間距離を一定に制御し、等間隔に並ぶライトの群れは、さながら渦巻くメリーゴーランドのようだった。歩道にはひっきりなしに歩く人々の姿がぼんやりと見えた。

どこか、体が宙に浮いているような感覚で、ユウトはエスプレッソコーヒーを飲んだ。



1-3

「じゃあね、また明日仕事早いから帰るね、おやすみ、ユウト。」
ユウトはツムギを渋谷駅まで見送った。素っ気なく手を振り、ツムギは山手線のホームへ続く階段に吸い込まれていった。

ユウトは、田園都市線に乗った。隣の方では、女子学生が楽しそうに話をしている。出入り口ドア付近に立ちながら、自分の顔が映る窓を眺めた。
ツムギとは、もはや恋人と呼べる関係にはなかった。お互い仕事が忙しく、実際に会うことはほとんどなかった。メタバースで会話し、LINEでメッセージをやりとりするだけの日々にユウトは孤独感を募らせていた。仮想空間にデジタルの自分を浮かべ、ガラスの板に文字を打っているだけの自分は何をしているのだろうか?電車の窓の自分の顔は、疲れている。
愛想のない、制御されたリズムで鳴りひびく車輪の音に耳を塞がれながら、ユウトは暗い車窓を見つめ続けた。


帰宅するその途中、ユウトは行きつけのダイニングバー”Best Wishes”にひとり向かった。今日はバーの常連さんたちとの飲み会だった。会費は一人4000円で、常連さんそれぞれ自分の好きなお酒を持ち寄って、自由にみんなで飲む月1回の飲み会だった。マスターのセキネさんが好きで始めたこの企画には、おまかせ料理が何品か出される。
ダイニングバー”Best Wishes”はジャズサックス奏者の巨匠、Sonny Rollinsの曲の名前が由来だった。マスターのセキネさんは、無類のジャズ好き、酒好き、料理好き。元々日本料理の板前だったが、和食関係なく料理が大好きで、様々な料理の研究をしていた。特に、お酒と料理のペアリングは絶品で、評価も高い。選ぶお酒はスコッチ、バーボンが主流だが、ワイン、本格焼酎、日本酒、クラフトビールと多岐にわたる。ジャズの知識も半端なく、彼のプレイリストと選曲のセンスはものすごいものがあった。そんなセキネさんの作る料理とお酒の好きな人々が、夜な夜なこのバーに出入りしている。20代の女性サラリーマンや大学生、30代の営業の男性、八百屋、鳶職、お医者さん、警備の仕事など、職種、性別関係なく集まる。お客さん同士で会話しているうちに、みんな仲間になっていく。”Best Wishes”は、一つのコミュニティーになっていた。

ユウトが入り口のドアを開けると、「あー、ユウトくん、久しぶり!」と常連のみんなが出迎えてくれた。ざっと今日は10人くらい集まっていた。カウンターのテーブルの隅には、持ち込んだお酒がズラリと並んでいる。スピリッツ、バーボン、本格焼酎など様々な瓶がひしめいていた。
ユウトは、カウンターの心地よい革の張った高い椅子に腰掛けた。この椅子に一度座ると、平気で数時間過ぎてしまう。とにかくここは居心地が良い。

「おっ、来たな、まずこれ飲んでみなよ、おいしいから。」とサイトウさんがエッグノッグの瓶をユウトの目の前に差し出した。

「へー、エッグノッグって、牛乳と卵がウイスキーに入ってるやつですよね?アドヴォカートと同じ酒なのかな?」

「アドヴォカートは、オランダのリキュールだね。よくカクテルとかに使う。アドヴォカートは、たしか、オランダ語で『弁護士』って意味なはず。飲むと弁護士みたいに饒舌になるんだってさ。」お酒に詳しいセキネさんが言った。

「エッグノック、温かくして飲むと、こんな冬には最高なんだよね。まあ、俺なんか、この前飲みすぎて、饒舌っていうか、二日酔いになっただけだったけどね、あははは。」とサイトウさんは陽気に笑った。

「サイトウさん、そりゃ大抵は車で来て、トマトジュースだけ飲んで帰る人が、こんな強いお酒を急に飲んだら具合悪くなりますよ。」とユウトも笑った。

「それを言われちゃあ、おしまいだ。今日は電車で来たから、大丈夫、大丈夫。」とサイトウさんは上機嫌だ。

「これ美味しいから、食べてみなよ、イノシシのベーコン、セキネさん作ったの。イノシシの子供のうり坊を使ってるんだけど、めちゃくちゃ美味しいから。ジビエよ、ジビエ。」ファッションデザインの仕事をなさっているタカサキさんが、ベーコンの載ったお皿をユウトに差し出してくれた。

「ありがとうございます、うわ、これめちゃくちゃ、おいしい!」ユウトは目を丸くして言った。

今日のBGMは、1950年代のジャズヴォーカルのようで、気分が高揚し幸せな気持ちになる。ちょうどユウトが入ってきたときは、June Christyの” Something Cool”が流れていた。

ユウトは、元来、色々な人と会って話すのが好きだった。メタバースの空間はそれはそれで良いのだが、その場の空気感や肉の焼ける匂い、ウイスキーが空気に放つ甘い香り、常連さんだったり、新しいお客さんだったり、いろいろな話題が聞こえてくるこのダイニングバーに来るのが楽しかった。

「そういや、うちの店でやる日本酒の会に、ユウトくんは来るんだっけ?」セキネさんは、ブリの刺し身をつくりながら言った。白い糊のきいたワイシャツと黒いエプロン姿で、包丁さばきが美しい。洋食のシェフが和食を作っているような不思議な光景だった。

「ああ、この前言ってたやつ。来週の土曜日でしたっけ。土曜日は会社休みだから来れますよ。」ユウトが言った。

「違うよ、ユウトくん、明日だよ。2月10日、夕方17時から。今日はあんまり飲みすぎない方がいいよ。」セキネさんが言った。

「あ、そうでしたね、明日も特に予定ないんで大丈夫です。」ユウトは答えた。

「日本酒のイベント、山形、岩手、広島、愛知から4つの酒蔵の営業の人が来て、色々解説してくれるんだよ。2月は日本酒の仕込みの最後のほうの時期で、ちょうど新酒ができる季節だからね。どこもうまいよ。」常連の八百屋のキドさんが曇った黒縁のメガネを丁寧に拭きながらユウトに言った。

「SNSにアップしたから、常連さん以外も来るよ、予約はおかげさまでほぼ満席。初めて会うお客さんでも、いつものウェルカムな感じでお願いしますよ。」セキネさんは笑顔で言う。

ユウトは普段ウイスキーが好きでよく飲んでいたが、日本酒は実のところほとんど飲んだ経験がなかった。日本酒には興味があったが、勉強したこともなく、純米酒と大吟醸の区別もつかないほど何も知らなかった。

「芋焼酎やウイスキーは香りの酒だけど、日本酒は味わいの酒なんだ。料理も工夫してお出ししますよ。」セキネさんが言った。

「世の中に”絶対”はないけど、セキネさんの料理とお酒のペアリングは、絶対美味しいのよね!明日が楽しみ!」と常連の大学生、マキさんが半分叫びながら言った。結構、酔っている。

ユウトは今日来ている常連さんたちを眺めた。思い思いにお酒と料理を楽しみ、みんな笑っている。仕事のこと、お金のこと、家族のこと、友達や人間関係など悩みはそれぞれあるだろうが、おいしい料理とお酒の前には、世界平和が存在する、そう思った。
ユウトはいつものスコッチを注文した。セキネさんは綺麗なカットグラスに、丸い氷と琥珀色の液体を入れた。はい、どうぞ、とユウトに差し出す。ユウトは口に含んだ。鼻に広がるバニラのような香りが疲れた心に安らぎを与えた。

「はい、できたよ、今日のおまかせ料理の一品、メバルの刺し身。春を告げる魚って呼ばれるメバルは、今脂がのってておいしい季節なんだよ。食べてごらん。」セキネさんが小さな器をユウトに差し出した。みずみずしい刺し身を丁寧に箸で取り、旨味のある醤油につけると、ユウトは口に入れた。

「うまい!これ!うわっ。ほんと、美味しいもの食べると、仕事のストレスってなくなるよね。ほんと、ありがたい。」ユウトはしみじみ美味しいと感じながら、うなだれた。

「これおいしいよねー、ほんとセキネさん、天才だわー。ほらほら、ユウトくん、エッグノックをどうぞ。」サイトウさんがエッグノックをグラスに注ぎながら、ユウトにからんできた。

「ああ、ちょっと待ってくださいよ、サイトウさん、あ、でも飲んでみようかな。あっ、これ甘いですね、これ飲み過ぎちゃう危ない酒だ。」

「大丈夫、大丈夫。ぼくはもう、危なくなってるから。」サイトウさんが赤い顔をして酔っぱらいながら言った。とぼけたサイトウさんを見ると、心底おかしくなってきて、ユウトは大笑いをした。普段誰とも会っていない抑圧された日常から解き放たれた感覚がそこにあった。

常連さんたちの喧騒は温かく、冬のガラス窓に響いていた。



1-4

冬の晴れ間が広がる、土曜日。
ツムギは今日も仕事をしているので、「お仕事、おつかれさま」とだけ彼女にLINEを送り、そっとしておこうとユウトは気を遣った。

ユウトは昼過ぎに渋谷の大規模書店に行き、立ち読みをした。実際、手に取って本を選び、買って帰るのが好きだった。本屋を徘徊すると、偶然に出会える本がある。どんなにインターネットのAIレコメンドが発達しても、自分の過去の購入履歴から分析された予測にはバグはない。しかし、実際本屋に来ると、全然今まで興味がなかった本でも、実際手に取ってみると発見がある。その驚きをユウトは楽しんでいた。しかし、今日は1冊も収穫がなかった。そんなときもあるか、と思い、本屋を後にした。

もう時間は15時、”Best Wishes”の日本酒の会に間に合うように、地下鉄に乗った。

"Best Wishes"に着くと、セキネさんとセキネさんの奥さん、常連のキドさん、マキさん、タカサキさんが忙しそうにオープン前の準備をしていた。酒蔵の営業の方々も日本酒の解説の準備をし、数本のボトルをカウンターのテーブルに並べていた。

「丁度いいところに来た、ユウトくん、ちょっと手伝ってくれない?」セキネさんが忙しそうに料理の味見をしている。

「はい、セキネさん、料理運べばいいんですね?」ユウトは足早に厨房に入り、テーブルに料理を並べた。”Best Wishes”は普段、セキネさん一人でやっていて、今日はヘルプでセキネさんの奥さんのミドリさんがいた。こういうイベントのときは人手が少ないので、常連さんがいつも早めに来てせっせと箸をならべたり、ワイングラスを並べたりしていた。今日の日本酒には、フルーツ香があるお酒もあるので、ワイングラスで飲んだほうが香りが立ち、甘みが増すのだとセキネさんが言った。

17時、会場の時間になった。いらっしゃるお客さんは20人ほどで、普段”Best Wishes”では見ない方ばかりだった。テーブルは満席となり、日本酒の会が始まった。ユウトも席についた。テーブルには、5種類の料理と、4つのワイングラスが並んでいる。
山形、岩手、広島、愛知のそれぞれの酒蔵さんが、順番にそれぞれの日本酒を解説し始めた。その解説を聞きながら、お酒と料理をペアリングした。お酒だけ飲んだ時と料理だけ食べた時とは違い、お酒と料理を一緒に食べると全く味が変化し、甘みや酸味などが引き立つことにユウトは驚いた。

「人は自分が生きていると実感するときは、どういう時なのだろうか?」
ユウトは食事をしながら、蔵人の解説をよそに、考え始めた。
「おいしい料理を食べた時、深い感動があると、生きている心地がする。それは自分の好きなラーメン屋のラーメンでも、洋食屋のハンバーグでも、母の作った料理でも、人それぞれあるはず。味覚や嗅覚を刺激された時、生きている心地がするのはどういうことなのだろうか?
いつも会社で使うメタバースは、没入感という意味では相当なものがある。向かい合う人が、現実にいる、と思い込める。でも、あれは視覚情報とマイクから拾った音声という聴覚情報がメインだ。それは、自分の脳が作り出しただけの偶像で存在するという実感を伴っているのだろうか?
僕らが現実と非現実を区別するその境界は、いったいどこにあるのだろうか?
“Best Wishes”にいると、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感がフルに稼働する。どうしてメタバース以上に人々のリアリティを感じるのだろうか?五感が刺激されて、初めて僕たちは『今ここにいる』と感じるのではないだろうか?」


そんな途方も無いことを考えながら、ぼんやりとしていると、隣から「お酒、よかったらどうぞ。」という声が聞こえてきた。

ふと右隣に座っている女性を見ると、笑顔で日本酒を勧めている。

「この日本酒は、広島の日本酒のようですよ。」

ありがとうございます、と言ってユウトはワイングラスを差し出し、その女性に注いでもらった。グラスを鼻まで近づけると、フルーツのような甘い香りが立ち込めている。飲んでみると、メロンとりんごのような香りがして美味しい。

「さっきの営業さんのお話、面白かったですね、全国の日本酒鑑評会って広島で行われているんですってね。」とその女性は言った。

はあ、とユウトが答えると、女性は笑った。

「えっ、さっきの話、聞いてなかったんですか?酵母や醸造技術が発達して、果実味のある日本酒が20年前くらいから沢山出てきてるとか、すごく面白い話でしたよ。」

「ああ、すみません、つい、ぼーっと考え事してました。」ユウトは頭をかきながら、苦笑いをした。

「日本酒はよく飲まれるんですか?」女性がユウトに尋ねた。

「実は普段ほとんど飲んでないんです。」

「私、日本酒が好きなんですよ。母方の実家が広島なので時々帰省するんですけど、結構色々な日本酒があって、面白いんですよね、実際酒蔵に行ってお話を伺うと、こんな面白い文化があるんだ、って感動しますよ。」女性はそう言いながら、グラスの日本酒を飲んだ。

「僕は、ほんと日本酒初心者なんで、今日来てよかったです。こんなに香り高くて、飲みやすい日本酒があるなんて知らなかったです。いつもウイスキーばかり飲んでるんで。」ユウトは言った。

「日本酒って、勿論、杜氏さんとか職人さんの技術力もあるんですけど、自然が作り出している側面も大きいんですよね、そこがすごく魅力的。自然と人間が共に作るアートなんですよね。それぞれの日本酒は、使っているお米の違い、水の違い、酵母の違いがあるそうです。最近は、地球温暖化の影響で、お米の生産が天候に左右されやすくなってしまい、お酒造りがとても大変なそうですよ。」女性が言った。

「なるほど、自然環境が変わって行くと、その影響も受けてしまうってことなんですね。ウイスキーは蒸留して寝かせることで熟成させていくお酒なんで、またちょっと違うんですよね、面白いなあ。」ユウトが答えた。

セキネさんがユウトの側にやって来て、言った。
「料理とペアリングするお酒として、日本酒は他のお酒と比べて、一番合わせやすいんじゃないかな?日本酒は一番寛容なお酒なのかもね。こうフルーツ香が多い日本酒だと、結構食事のメニューは考えないといけないけど、ワインとかに比べるとペアリングはしやすいんだよ。どう?ユウトくん、今日は楽しんでもらっているかな?」

「いやあ、セキネさんの料理もさすがです。ほんと素晴らしい。」ユウトが言った。

「ユウトさんって言うんですか?初めまして、私、リリカっていいます。」
女性が言った。

「こちらこそ、ユウトです。よろしくお願いします。」
照れながらユウトは言った。

ユウトが、リリカと初めて会ったのはこの時だった。黒いウェーブセミロングの髪はスタイリッシュで、柔らかな唇とやさしそうな目元が、可愛いな、と思った。

「お仕事って何されてるんですか?」リリカが言った。

「半導体の営業ですね。最近は電話とかパソコンだけでなく、VRゴーグルとか、色んなものに半導体って使われるんで、多岐に渡って開発されてて、覚えるの結構大変ですね。リリカさんは?」

「私、幼稚園教諭をしています。それこそ、メタバースが結構色んなところで増えて来ているので、親御さんがより実体験というかリアルを重視するようになって、そういう教育に特化した幼稚園で子供達に色々教えて楽しんでます。幼稚園教諭ってひと昔前は、給料も低くて、大変な職場だったんですけど。今は実体験の教育がものすごく重視されて来て、国の制度も数年前にガラッと変わり、幼稚園教諭も働きやすくなりました。やり甲斐がある職場になってきたんです。とにかく子供への教育意識が高い親御さんは、感覚を養う情操教育に熱心な方が、最近多いみたいですね。」

「へー、なるほど、体験かあ、すごく面白いなー。やっぱりアバターとかメタバースの環境ばかりにいると、なんかこう現実感が薄くなって行くっていうか、仮想空間と現実の境界って曖昧になってく感じがしてたんですよね。」

「そうなんですね、仮想空間と現実って、今はっきりと分けられない感じになって来てますもんね。子供の頃に触覚とか、運動感覚とか、平衡感覚など、感覚を育てるというのがうちの幼稚園の方針です。感覚を育てることで、創造性や社会性が成長するにつれて強化されていき、愛着形成もされるそうですよ。」リリカが料理を食べながら言った。

「確かに、そうした教育なしで子供の頃からずっとVRゴーグルつけてゲームやっていると、ちょっと感覚が狂ってしまうかもしれないですよね。」

「やはり感覚が生物の原点だと思います。実際に触れるだけで、自分以外の何かがわかるし、誰かを確認できますからね、やっぱり、それが人、なのかも知れないですよね。メタバースは便利ですけど、感覚を置き去りにしてしまう危険はありますからね。
うわっ、この愛知の日本酒、すごい酸味が効いてる、おいしい!」リリカが言った。

なるほど、とユウトは先ほど考えていたことへの答えが見つかったような気がした。

「この中で、どの日本酒が好きですか?」リリカが言った。

「うーん、そうだなあ、山形のお酒もフルーティーでおいしいけれど、この岩手のお酒が自分には合ってるかな。実は、私の父は、岩手県の盛岡市出身なんです。」ユウトは言った。

「そうなんですね。」リリカが言った。

「父は上京してこっちで仕事を見つけて、住み始めました。母は神奈川出身で、鶴見の方です。僕は岩手では暮らしたことないんですけど、夏休みとか冬休み、よく帰省していたんです。何なんでしょうね、よくわからないですけど、水が合うっていうか、このお酒、個人的には合ってますね。」ユウトが言った。

「ちなみに私の父は神奈川、横浜の人です。」リリカが言った。

お互い笑いながら、口当たりのよい日本酒を楽しんだ。酔っているせいなのか、二人の会話はぴったりとしたリズムで心地が良かった。

「先ほど、岩手の蔵人の方がお話してましたけど、聞いてました?」

「あ、すみません、それも聞いてなかったな。」

「ふふっ。酒造りって10月くらいから3月くらいまで行われるそうですが、岩手の冬は朝の気温が氷点下になって、極寒の中日本酒造りをするそうですよ。さらに麹室は室温30~40℃で、そこを行き来しているとかなり身体にこたえるそうです。そんな中でこんな美味しいお酒造ってるんですよ。感動しますね。」

リリカのその言葉に、ユウトも感動した。今までお酒や料理は、あれはおいしい、あれはおいしくない、とただ自分の好みだけで消費していた自分が少し恥ずかしくなった。自然と向き合って農作物や食品を作っている人たちのこと、それをさらに料理したり、お酒を作ったりしている人たちのことを今まで何も考えていなかったな、と思った。人の手を介して、僕たちは生かされている、存在しているのかも知れないと、ふと思った。

あっという間に日本酒の会が終わった。ユウトはリリカと連絡先を交換し、”Best Wishes”を後にした。今までに感じたことのない、安らぎのような気持ちを感じながら、ユウトは自分のアパートへ続く道を歩いた。



1-5

ユウトは、リリカと出会った日のことを脳裏で繰り返し思い描いていた。
またリリカと会って話してみたいと思った。会話の息がぴったりと合い、二人で同じものを見ている共感が確かに感じられた。会話をしていると、そこに二人の場所が生まれるような気がした。ユウトはそこに存在していた。

ただ、ツムギには、申し訳ないと思った。明らかに、ツムギには持ち合わせていない感情が心に生まれている。いっそのこと、もう関係を終わりにしてしまおうか?それにしても、なんと切り出そうか?ユウトはツムギに別れを告げる勇気は持ち合わせていなかった。

2週間経った土曜日の昼、ツムギと久しぶりに会う約束をしたユウトは、いつものコーヒーショップにやってきた。
今日は時間通り、ツムギがやってきた。どこか曇った顔をしている。

「会うの、久しぶりだね。」ツムギが珍しくそう言った。

「そうだね、今週も忙しかったの?」ユウトが言った。

「そうね、毎日忙しいね。あのさ、ユウトに話があったの。」

「どうしたの?」

「実はさ、この前上司から、今度海外に赴任してもらえないかって言われたの。
4月から海外で研究開発業務をしてほしいって。」

「えっ!どこに?」

「中国の深圳。昔から、中国のシリコンバレーって言われてたけど、今は最先端のメタバース開発の企業が沢山あって、うちの会社との提携会社があるの。そこで、技術開発のメンバーとして行ってほしいって言われた。私は行ってみたいとは思ってるんだけど、ユウトに相談してみたくて。」責任感と使命感のあるツムギは、申し訳なさそうに話している。
「私、今開発している技術はこれからの未来に重要だと思うし、もっと深めることで色々な人々の生活に貢献できると思うの。だから、深圳に行ってみたい。」

「そうか。」ユウトが呟いた。しばらく沈黙が続いた。ツムギはカフェラテを口にした。
「いいと思うよ、ツムギが行きたいと思うなら。ツムギは、大学の頃から成績は優秀だし、自分の目標高く持って生きてきたもんね。俺には、そういうの、全くないから。いつもツムギはすごいな、としか思えなかった。なんていうか、そういうツムギに憧れるし、俺も何か夢みたいなものあったらなって思う。でも、俺、やることいつも中途半端だしさ、好きなことをやり通すなんて自信もないし。人から何かいわれたりするの、基本怖いしさ。それに比べて、ツムギは、やると決めたらやるし、そこがホントすごいな。尊敬するよ。」ユウトが言った。

「そうなんだ。私のこと、止めてくれ、、、。あ、いや。応援、してくれるんだ。」ツムギは本心を言うのをやめた。

「誰でもできることではないし、ツムギだったらできると思うよ。」ユウトは言った。

「うーん、私、そんなでもないんだけどね。私にできるのかなっていつも不安だし、この先どうなっていくのかな、ってわからない。でも頑張っていれば、何かは見えるのかな。ただそれだけかな。」ツムギが寂しそうに言った。

「大丈夫、ツムギならやれるよ。そして、きっと、、、」ユウトが言った。
「ツムギにふさわしい人が、これから現れるよ。」本心でもあり、どこか安堵にも似た言葉がユウトの口から不意に出た。しかしそれは同時に、自分から別れを切り出すことから逃げる口実でもあった。

ツムギは黙った。カフェラテを静かに飲んでいる。

「うん。今まで、ありがとうね。」ツムギの顔には、少しの悲しみと、これから来る未来の期待と、ユウトへのあたたかな心が入り混じった微笑みがあった。

「すごく残念だけど、多分、今日で、もう会うの終わりかな。メタバースで会ってても、やっぱり情って移るよね。見てるとアバターでさえ過去のこと思い出すから、もうコネクトも切ったほうがいいと思う。たまにメッセージやり取りするくらいだったら、いいかな?友達として。」ツムギが言った。

「そうだね、いいよ。仕事とかで、悩みとかあったら言ってもらっていいし。多分、それぞれの道がこれからあると思うし。おめでとう、ツムギ。」ユウトは精一杯のやさしさを込めて、そう言った。それは今まで付き合ったツムギに対しての最低限の誠意だった。

コーヒーショップを出た二人は、決められていたような公園通りを歩いた。風は寒く感じないくらいの心地よさになって、春の匂いを運んでいる。

「いいよ、ここで。じゃあ、またいつか。」ツムギが言った。

「またね。今まで、ありがとう。」ユウトが言った。

二人は別れた。

いつかはこうなるだろうと思っていたユウトには、一縷のむなしさと、どこか心地よい喪失感が心に湧いた。
渋谷の街は、まるで仮想空間のように、よそよそしく輝いていた。



2-1

2029年4月になった。東京の桜はもう散り始めている。4月とは思えないほど、とてもあたたかい。ほとんどの人がコートを脇に抱えて歩いている。
ユウトは取引先での交渉が終わり、家への帰り道、渋谷駅で降りた。一人ぽつねんとしながら、電車に乗り降りする大きな人の流れをハチ公口から眺めていた。

関係が冷めきったとはいえ、長い間付き合ったツムギがいなくなると、ユウトは心にぽっかりと空白ができたように感じた。人と人が繋がっては離れていく、縁というのは不思議なものだ。自分ではコントロールできない、何か大きな流れがあるように思えた。

ユウトは大学時代、あまりサークルには馴染めず、授業に行くか、家でゲームをするか、ツムギと会うくらいしかしてこなかった。大学2年のときにCOVID-19が世界を襲い、大学はすべてリモート授業で学校に行けなかったため、自分をさらけ出す友人や仲間をつくることができなかった。今の自分の心情を打ち明ける人は一人もいなかった。

リリカに連絡をとってみようと思った。会いたいという心は勿論あったが、彼女であれば、自分の話を聞いてくれるかも知れない、という思いがあった。
とりあえず、「お久しぶりです、お元気ですか」という定形文をLINEに書いて送ってみた。

渋谷から家に帰ってきた辺り、メッセージがリリカから届いた。今度、また日本酒でも飲みましょうという約束し、ユウトは寂しさから開放された安堵、というよりリリカに会える嬉しさで一杯になった。リリカが日本酒の店を指定したので、土曜日会う約束をした。

「お久しぶりです。」リリカが言った。

「あ、今日はありがとう。日本酒、また飲みたかったし、また色々教えてください。」ユウトは言った。

「そんなに詳しくはないですけど、私で良ければ。」リリカが笑った。

二人はいい具合に酔いながら、色々な話をした。

リリカは高校のときに受験勉強に違和感を覚え、高校卒業後、就職し、営業事務などをしていたが、その時にCOVID-19の蔓延を経験した。母の友人の旦那さんがデルタ株に罹り、幼い子どもを残して他界したことを聞き、ショックを受けた。その幼い子供は今後どうなっていくのだろうかと不憫に思ったリリカは、幼児教育の勉強をしたいと思いたち、大学に入り学んだ。就活をしていると、大学のときに学んでいた教育論を取り入れて実践している幼稚園を見つけ、そこに就職した。
彼女の学んでいた教育論とは、自分をどう表現するかや自分自身で判断するといったことを小さいうちから教える。画一的な知識を暗記するように教えるのでなく、感覚を育て、心と身体、そして自我を育てていくものであった。メタバースやインターネットが発達し、感覚や身体能力が衰え始めた現代において、そうした教育が人間のコミュニケーションや創造性を高めていくであろうと考える親が増え、リリカの勤めているような幼稚園は今ブームになっているようだった。

ユウトは関心しながら、自分自身のことを打ち明けた。
「うちの両親って、僕が12歳のとき、離婚したんです。それで、父が僕を引き取って、妹は母について行きました。彼らとは殆ど連絡をとっていません。父は、僕が23歳の時、癌で亡くなりました。ちょっと悲しかったけど、そんなに父との思い出はなかったので、仕方ないか、と思ったくらいでした。父は仕事ばかりしていた人で、大学のときまで一緒に暮らしていたけど、家にはほとんどいませんでした。
父からは『働いてお金を稼ぐようになれ』と言われて育ったせいか、僕には夢とか目標とかは全くありませんでした。サラリーマンになって、ちゃんと仕事して、お金に困らないように生きていくって選択肢しかなかったんです。
でも本当は、自分で探すべきだったのかも知れないけれど、なんというか、自信もなかったですね。」

「そうなんですね。」リリカは静かに聞いていた。

「ところで、今って、リリカさんのやっているような自分の五感だったり感覚を使うことっておもしろいなって思います。僕は大人になって、そういう機会って減ってしまったかも知れないですね。インターネットとかデジタルが発達して、とりあえずお金さえ持っていれば、食事だったり買い物したものは誰かが運んでくれるし、ゲームで会ったことのない人とも場所関係なくコミュニケーションもできる、今は僕が大学の時以上に快適になった。でも同時に、感覚を失っている気もします。」

「ああ、なるほど。」

「例えば、商品を運んでくれる配達員の人たちの気持ちを僕たちはおもんばかることもせず、荷物が遅いとか言ったりする。ゲームのメタバースの先にいる人の本心を、僕たちはわからなかったりする。ニュースや報道は、その時起きた事件や災害のことを伝えるけど、起こった後のことを僕たちに教えてはくれないし、情報を消費して終わっている。僕たちはほとんど実感のないまま、毎日を過ごしている気がします。気がついたら、すぐ隣に立っている人を見てるようで、全く眼中になく、完全に無関心になっている自分がいる。そして自分には、無関心になっているという実感すらない。」ユウトが言った。

「実感って、なんか、もう昔から薄れ始めていたのかな、って思います。2020年の、あの未曾有の感染症が起きた時、日本でも、どこの国でも、価値観の対立って起きましたよね。社会の分断、とか言ってましたけど。『自分の信じているものだけが正しい』と言う人がすごく増えた気がしました。他の人の意見、自分とは違った人の意見を感じることが薄れてきたのかも知れませんね。そこに共感できなくても、相手の言っている意見を感じることで少し歩み寄ることもできたはずなのに。みんな、「見たこと」を信じるだけになってしまった。
自然が起こす驚異だったり、災害だったり、不確定要素の高い出来事って、色んなことを人それぞれで感じたり考えるわけで、その人それぞれの違う考えを活かすことで解決方法って生まれる気がします。これが正しい、って一つのことだけみんながすると、自然とか地球の時々起こす不確実な刃にやられてしまうような気がするんですよね。」リリカが言った。

「確かに、それはありますよね。」ユウトは感心してリリカの話を聞いた。

「文明がここまで発達する前の人間ってみんな自然の一部だったし、人間同士が助け合わないと自然が強かったから生きられなかった。いつしか人間は文明を手に入れて、自然を制御して自分たちの快適な生活を得たと錯覚したのかも知れないですね。自然を『我がままに』扱えるって思い始めると、他人に対しても思いやりが薄れていく気がします。」リリカが言った。

「ゲームとかメタバースって、僕すごく好きで、よくやるし仕事でも使うんですけど、やっぱり自然ではないですよね。色々な可能性は広がったし、遠方とのコミュニケーションはある意味格段に良くなったと思うんだけど、人間が古来持っていた切り離せない感覚からすると、やっぱりストレスや負荷がかかる。僕はよくあの”Best Wishes”に行って常連さん達と話したり、お酒飲んでるんですけど、人のあたたかみを感じて、自分がたしかにここに居るなって思うんですよね。」ユウトは自分が感じていたことを言った。

「自然と人間のテクノロジーってバランスが必要かもしれませんよね。でも結局は自然にはかなわないと思います。
私、日本酒が好きでおもしろいなって思う理由って、職人さんが経験と感性で造っている点と、もう一つ、自然が造っている点なんです。以前、酒蔵に行って、職人さんにお話をお伺いしたときに、その職人さんがこう言ってたの。
『ものづくりは、造り手が幾ら努力しても仕方ない。その造るものに寄り添っていくことが大切なんだ。』って。
私、ものすごく感動しちゃって。職人さんって半端ないくらい努力して、寒い中、身を削って日本酒づくりしてるんだけど、やはり自然が絡んでくると自分ではどうしようもない、コントロール不可能なことと付き合っていかなければいけないって意味なんですよね。しかも自分たちの手柄とせずに、自然が造るものだと謙虚な姿勢を貫いている。理屈ではどうにもならないものへの畏敬の念を感じました。文明と自然がバランスを取ることって大切だと思います。」リリカが言った。

リリカとの温かで静かな会話は、経験したことのないような安堵感をユウトにもたらした。

「この前、彼女と別れてしまいました。」ユウトは独り言のように言った。

「そうなんですね。それは、大変でしたね。私なんて毎日やること多くて、出会いとか全然ないですよ。」リリカは酒の肴を口にした。

「あの、また、今日みたいに一緒に飲みに行ってもいいですか?僕、仕事だけしていて、あんまやることもないし、リリカさんと話してるの、楽しいし。」

「そうですね、お互い、無理のない程度に会えるときに会いましょうか?」リリカは微笑んで言った。

名残惜しいが、終電が近づいて来たので、店を出てユウトとリリカは駅に向かった。

「じゃあ、また。」とリリカは振り返らずに、改札へ向かい、すっと消えた。
流れ行く人々を見ながら、ユウトはリリカが側にいなくなった寂しさを大切に抱え、家に帰った。



2-2

6月、雨が降り続いた。
ユウトはアパートの外に広がるどんよりとした雨雲と、降りしきる雨を眺めていた。メタバース会議が多く、仕事で外出することはほとんど無かった。身体は少し気だるい。

あれからユウトは、何度かリリカと会っていた。日々のたわいのないことや、感じたこと、考えたことなど、リリカと色々なことを話した。リリカと会う度に、ユウトは心から惹かれていく自分に気がついた。リリカが幼馴染みの男性の話をすると、ユウトは妬みの感情が微量に湧き上がるのを感じた。最近は仕事をしていても彼女のことを考えるばかりで、もどかしさばかりが募っていた。

これはもうダメだと思ったユウトは、意を決して自分の想いを伝えることにした。「今度の金曜日の夜、仕事の終わった後、会えませんか?」ユウトはリリカにメッセージを送った。

「いいですよ、じゃあ、19時に。」リリカから返信が来た。

メッセージを送ると、いつもリリカは丁寧に返信をしてくれる。リリカが側にいてくれるような感覚は、ユウトを切ない気持ちにさせた。

ユウトは、もう今日しかないと思った。リリカのことを考えたとしても、何かが変わるわけでもない。何もかも手につかない毎日が嫌だった。リリカに嫌われてしまうかも知れないが、いっそのこと、自分の気持ちを吐露してしまったほうがいい、そう思った。
アパートから外に出ると、雨はまだ降りしきっている。ユウトはビニール傘をさしたまま夢中で走った。足元のスニーカーはずぶぬれとなり、コーデュロイのズボンには土の黒い斑点がこびりついている。背負っている黒いリュックには綺麗な水滴がこぼれていた。

ユウトは、待ち合わせの原宿駅に着いた。

「こんばんは、どうしました?」リリカはいつも通り、やさしい微笑みを讃えながら立っていた。

「あの、少し歩きませんか?」ユウトは言った。

あてどなく二人は歩いきながら話した。最近、言うことを聞いてくれない園児のこと、この前食べたアイスクリームが美味しかったことなどリリカは楽しそうに話している。気がつくと、明治神宮のあたりまで歩いて来た。

「リリカさん、実は、」

「え、どうしました?」

「あの、ええと。つまり、その、僕と、」ユウトが次の言葉を振り絞ろうと緊張しながらモゴモゴしていると、リリカが言った。

「付き合いましょうか?」少し大きめの水色の傘をさしながら、リリカが笑っている。

「え!? あの、それ、どういうことですか?」ユウトが不意をつかれたように驚いている。

「ははは。ちょっと、ふざけてみたの。」

足元がずぶ濡れのユウトは、自分の姿が滑稽に見えてきて、可笑しくなってきた。「いや、僕は、ふざけてなんかいないですよ。」

「へー、ユウトさんって真面目な方なんですね。ところで、私に何を言おうとしてたんですか?聞きたいな。」

「それは、その、ええと、、」

「はい?なんです?」

「付きっ、付き合っていただきたい!」

「あははは、それ、いつの時代の人のセリフ?」リリカが大笑いした。

リリカはどんなことにも可能性を見出していきたいと思う楽天的で明るい性格だった。少々内向的なユウトだが、この人といると面白いし、時間共有をしてみたいと思っていた。
二人には、連帯感とも言える不思議な心のつながりがあった。お互いに思いやる気持ちの”質量”のレベルが同じくらいだったのかも知れない。普通、どちらかの想いが強すぎると関係はぎくしゃくするし、希薄な関係だと終わってしまうが、ユウトとリリカの関係は奇跡というほどのバランスを保っていた。
二人の人間がいつまでも仲良くいられることは、相性という言葉で済ませればそれまでだが、そのような偶然はなかなかあるものではない。ユウトとリリカは、”ソウルメイト”だった。不思議とユウトはリリカの心が読めるし、リリカはユウトが何を言いたいのかがわかる。一緒にいると彼らは、お互いの気持ちがわかった。
彼らには、メタバースも必要もなく、LINEで頻繁に連絡しあうことも必要としなかった。お互いの気持ちを確かめ合えば、遠くにいてもなんら心配もなく、懐疑心は存在すらしなかった。

リリカの人を思いやる気持ちは、誰よりも深かった。彼女は両親から愛情をいっぱい受けて育ったせいか、ユウトの心の底にある寂しさや、母からの愛情の欠落のようなものを感じ取れていた。リリカの自然であたたかな人柄は、ユウトを安心させた。ユウトはリリカから影響を受けるように、彼女を自然に思いやることができた。

「なんかね、私たちってどこまでも一緒に行けるような気がするの。なんていうか、本当の自由を手に入れられる気がするの。」リリカが言った。

「本当の自由?どういうこと?」ユウトが尋ねた。

「なんだっけ、昔の哲学者だったか、偉い人が、『私達は自由という名の牢獄につながれている』みたいなこと言ってたけど、その自由って何でも自分の欲にまかせてしたいように生きるって意味だと思うの。私の思う自由ってそういうことじゃない。自由って、自らに由るってことだし、誰かに言われた通りにしなきゃいけないとか、こうしなきゃいけないって思うことじゃなくて、自分で生きることを選んでいくってことかな。
私は、ユウトと生きていくってことを自分で選んだ。ユウトを想うってことを自分で選んだ。そりゃ、時には嫌だなって思うときもこれからあるかも知れないけれど、自由にあなたのいいところを発見していきたいな。」

「そう?」

「おもしろいじゃない。私達が見る景色は、私達の色彩が広がる。私が見ている色に、私にはない色をユウトが加えてくれる。私にはないものの見方や考え方、感じ方をユウトから教えてもらうことで、私の世界はもっと広がっていく。」

「ははは、たしかにそうだ。違うことって、発見だよね。」

「共感ってとても大事だと思う。でもどこか考え方や感じ方は、人それぞれだから違うのは当たり前だし、その違うところがおもしろいんじゃないかな?」

「たしかに、リリカの言う通りかも。結構、その辺、難しいところもあるけどね。」

「あのね、私の母親の実家、広島県の尾道の方なんだけど、向こうにね、きれいなレモンの木がなっている場所があるの。尾道市はレモンの産地でね、レモンのジェラートもおいしいの。あ、私の好きなアイスの話はともかく、あのきれいなレモンの木がなる丘に、ユウトといつか行ってみたいな。」

「へー、レモンって日本で栽培しているんだね、知らなかった。」

「瀬戸内のレモンって面白くてね、ハートのレモンとかあってかわいいの。」

「ハートのレモン?ははは、面白そうだね、じゃあ、いつか二人で行ってみようよ。」

「色んな場所に行ってみたいな、沖縄とか。」

「沖縄、行ったことないね。どんなところなんだろう?」

「私も行ったことない。なかなか仕事忙しいから、旅行すら行けてなかったし。」

「じゃあ、必ず今度、行ってみようよ。」

ユウトは、これからリリカと共に過ごしていく時間を想像すると、期待感や希望が心に広がっていくのを感じた。本当に誰かをアイするということは、こういうことなのかも知れないと思った。朝目が覚めると、見る世界が鮮明に輝いて見えた。
季節の移ろいとともに、二人は自然に心を一つにしていった。



2-3

2030年7月、ユウトとリリカは、ささやかな祝言をあげて、初夏の沖縄を旅した。梅雨明けの沖縄は湿度があまり感じられず、からっとした暑さだった。空気も澄んでいるが、太陽から降る紫外線は肌に突き刺ささり、サングラスをしていないと目の奥がヒリヒリとするので危険だった。

二人はレンタカーを借りて、まず沖縄本島を廻った。幸い雨は降らず、毎日が晴天だった。ユウトは電気自動車を楽しげに運転し、陽気だった。助手席に座るリリカは麦わら帽子をかぶりながら、黒い髪を海岸から吹く風にそよがせている。
ちゅら海水族館、平和祈念公園、国際通りなど、できるだけくまなく見て歩いた。沖縄の自然の美しさ、戦争の歴史、琉球文化など興味深いものばかりだった。島そば、ヤギの刺し身など、二人とも食べたことのない食事ばかりで毎日が楽しかった。アイス好きのリリカは、シークワーサーアイスの味に衝撃をうけ、また食べたいと何度も繰り返し言っていた。

沖縄本島を見た後、石垣島に行った。石垣島からフェリーで波照間島や竹富島を周り、石垣島に帰ってきたところだった。
夜、民謡居酒屋に入って、ゴーヤチャンプルーと泡盛を合わせながら、三線と琉球の歌声に酔いしれた。縁もたけなわになると、お客さん全員が踊り始めた。ユウトは恥ずかしいので、泡盛を飲むフリをして黙って見ていたが、リリカが面白そうにユウトの手を引いた。踊り方は全くわからないが、とにかく手を上げて適当に踊っていると、楽しくなってくる。ユウトとリリカは異国の調べのような、琉球の旋律に身を委ねた。

店を出て、コンビニでオリオンビールを買い、港を目指して歩いた。銀色の月が海の向こうに浮かんでいる。小さな港についた。フェリー乗り場があって、波は静かだった。

「来てよかったね。すごく癒やされるわー。」リリカがビールを一口飲みながら言った。

「沖縄はいいね。昨日の波照間島は感動したね。」

「綺麗だったよねー。」

「エメラルドグリーンの海って本当にあるんだって感動したよ。僕は東北ルーツの人間で、よく子供の頃行った太平洋は紺色っていうか、濃い青の海だったからさ、エメラルドグリーンの海って本当にあるんだって感動したよ。カルチャーショックだったね。」

「今日の石垣島のツアーも面白かったね。随分と温暖化が進んで、サンゴが焼けてしまってるってガイドの人言ってたでしょ?このまま地球温暖化が進んでしまうと今世紀にはサンゴ礁が全部無くなってしまうって、なんだか残念な話だよね。こんなに美しい自然があるのに、それが徐々に変わっていくなんて。」リリカが言った。

「そうだね、なんとも言えないな。」

「今、わたしたちが享受している自然って、本当に偶然の産物で、今、この時代しかないんだろうね。地球って何億年もかけて今の形を作り上げてきたわけでしょ?海底の火山だって時々噴火したりして、大量の火山灰が太陽を遮って気温を低下させたりして。時々プレートで地震が起きたり、地形が隆起したり、地が動いて大陸が作られていく。大気も様々な対流を続けて、暑さや寒さを届ける。海があって、海流が暴風雨をもたらしたり、ここちよい風をもたらしたりする。すべての偶然が重なって、多種多様な生命が作られていく。
私たちって、特に大都市とかネットの世界にいると、人間が中心って思いがちでしょ?本当は、この島の人々の言い伝えだったり、古来の記憶の方が、自然に寄り添っているし、人間は賢く生きてきた気がするの。
いつになったら私たちは、それを再認識できるんだろうね?」リリカは、月に照らされた青白い海を見ながら言った。

「ふむ」
ユウトは黙って、オリオンビールを飲んだ。沖縄のからっとした湿度のせいか、東京で飲むそれとは味わいが違う。ふわっとした麦の香りとすっきりとした味わいが石垣島の夜には丁度いい。

「これ、うまいな~。」

「人の話、聞いてるの?」リリカは少し怒りながら、笑って言った。

「大丈夫。聞いてる、聞いてる。多分ね、僕らはこの30年くらいで、視覚に頼りすぎる日々を過ごしてきたんじゃないかな?」ユウトは続ける。

「メタバースも、インターネットも、スマートフォンも、ほんと毎日、みんな目ばっかり使って物事把握しようとしてるよね?ほんとはね、五感使わないと、自然って見えてこないんじゃないかな?海から吹いてくる風を肌で感じたり、実際にこの地を踏みしめたり、海に入ってみたり、沖縄の伝承の話を聞いてみたり。昔の人が残した言葉って、自然と共に生きているから、すごく腑に落ちるよね。」

リリカはユウトの話をおもしろそうに聞き続けた。

「視覚も大事だけどさ、五感をフルに使わないと、この自然の変化ってわからないし、実感としてCO2減らそうとか思わない。親父の実家の岩手県盛岡市に、冬によく帰省してたんだけどね。2010年の冬、あのときは小学生くらいだったかな?あの時と、大学生の時行った2022年の冬の気温を比べると、多分5℃は違う感じがした。僕の子供の頃には、根雪があった。12月に雪が積もり始めると、4月くらいまで溶けずにずっと残ってる雪・氷のことを根雪っていうんだ。祖母がいうには、冬は氷に閉ざされたような世界だったんだって。でも2022年の冬は屋根の雪が1月で溶け始めていた。地球温暖化って、リアルに進んでるんだな、って感じた。親父なんて子供の頃、その辺りの公園の池が凍ってその上でスケートしたなんて言ってたよ。今や根雪なんてないし、公園の池に氷なんて張らない。その分、少し暖かくなっていいじゃないか、って人もいるけど、例えば、鮭とかサンマは岩手県で不漁になる。北海道の方でよく漁れるようになっていく。魚って海水温が1℃違うだけで生きていく環境を変えるって聞いたことある。ここでも、一番感覚が敏感なのは、人間じゃなくて動物なんだよね。」

「この先、どうなっていくのかしらね?」リリカは言った。

「誰にもわからない。昔、2030年までに、CO2を目標値まで削減しなければまずいって世界中で言ってたよね?でも結局、ほとんど達成されないまま、今年を迎えてしまった。あれからCO2を排出しない技術って沢山出てきたけれど、そんなの他人事だって考える人も多かった。自分自身が変わるっていうことは、結構大変だよ。例えば、CO2を沢山排出してた産業の人たちが全く別な仕事に転職したり、新しい仕事に慣れていくのは大変なことだしね。
誰かのせいにして生きていた方が自分は傷つかなくて楽だし、楽を実現させるっていう人を応援した方が現実を変えなくて済む。口当たりのいい言葉を大声で言ったリーダーについていく人も多かったよね。
僕らは、今の文明のあり方を少しでも変えなければいけなかったけど、ほとんどうまくいかなかった。意見の対立ばかりが世界中で起きて、結局のところ、根本的な解決方法が見つからなかった。もはや自然災害も、疫病もいくらでも起こりうる世の中になってしまったかもね。
本当に、明日のことはわからない。
でも少しづつ、自分たちのできることを、一つ一つやっていくしかないんじゃないかな?」ユウトはぼんやりと言った。

「そうね、それしかないのかな。」

「はっ、はっ、はいやささー」ユウトはおどけながら、下手な小踊りをした。

「ははは、ひどい踊り!」リリカの大きな笑い声が、小さな港に響いた。

凪が静かに訪れた。永遠のときを二人は感じた。



2-4

2031年3月、リリカが無事出産をし、息子のハルトが誕生した。ユウトは歓喜した。長い間疎遠だったユウトの母も祝福してくれて、ユウトはそれも嬉しかった。生きている喜びを身体の底から感じることができた。2DKのマンションに引っ越し、3人の生活が始まった。

朝ユウトは起きると、コーヒーを2人分ドリップする。近所にコーヒー豆を焙煎する店をリリカが見つけてくれて、いい香りのするコーヒー豆を買っていた。
ユウトはトースト、リリカはフルーツグラノーラに牛乳をかけてそれぞれの朝食とした。リリカの昼食の弁当は、前の晩のおかずを入れて持っていくのが常だった。ユウトはメタバース会議が多いときは近所のコンビニで弁当を買ったり、外勤があるときは適当な店で昼食をとった。

ユウトとリリカは共働きだったので、家事は二人で分担し、ときどき喧嘩もしながら、何とかやっていた。家の掃除はユウトが担当した。リリカは洗濯が好きだったので無理なくやっていた。
夕食はどちらかが作ったり、作らなかったりした。ユウトは元来おいしいものが好きだったので、料理は苦にならなかった。リリカは、料理はあまり得意ではないが、一生懸命だった。今日はハンバーグだとリリカが言って料理していたが、フライパンで肉を焼いているうちに型くずれし、肉が焦げて、そぼろのようになっていた。

「なかなか、新しいハンバーグだねぇ。」ユウトはからかいながら、冗談で言った。

「そんなこと言わないでよ、こっちだって頑張って作ってるんだから。」とリリカがプリプリと腹を立てながら、ユウトの腕をつねった。そんな怒った顔ですら、ユウトには微笑ましく、愛おしい。

お腹が空いて、息子のハルトが泣き始める。ユウトはなだめながら、哺乳瓶のミルクをあげた。

子供を持つ喜びと同時に、育てる苦労も経験しながら、二人は日々過ごした。
ハルトが夜泣きをし、起こされることは度々あったが、また落ち着いてスヤスヤと眠るその顔を見ると、ユウトは父親になった気がした。

子育てをしながら、仕事をするのは一苦労だった。
職場でのクレーム対応で凹んでいるリリカを見て、ユウトはよく話を聞いてあげた。幼稚園の親御さんからの要望が多く、色々と対応しているとリリカはときどき気が滅入った。ユウトも仕事で疲れるが、リリカを励ましながら毎日を過ごした。ユウトの仕事の案件によっては、近所に住むリリカの両親に息子のハルトを預けた。近所にリリカの両親が住んでいるのは幸いだった。子育て経験者である彼らに色々教わりながら、ユウトとリリカは救われた心地がした。彼らにとって、仕事と子育てははじめての経験だったので、二人で途方にくれる時もあったが、充実した日々だった。

おもしろいこともあった。
息子のハルトにとっては、見るもの、触れるものすべてが「はじめて」だった。世界を把握しようと手を伸ばし、自分の感覚に取り入れようとしている。ハルトの「はじめて」を見ることで、ユウトとリリカは今ある日常を再発見することができた。

しんみりすることもあった。
疲れたユウトがハルトの横で昼寝をした時があった。二人並んで寝ているその光景を、記念写真のようにリリカはカメラで撮影した。ユウトの方が赤子のように眠っている。その写真をリリカは大切にした。

リリカにとって、その日常はありがたいものだった。リリカもユウトも仕事が与えられ、子供もいる。そんなに裕福ではなかったが、何ものにも代え難い、素晴らしい毎日が迎えられることに、リリカはただ感謝していた。
これは平凡な日々なのかもしれない。しかし、ユウトとリリカにとっては「非凡」な日々だった。毎日が新鮮で、心の裡から光のようなものが溢れている感覚だった。


ある夜、ハルトを寝かしつけると、リリカはベランダに座った。晴れているが、夜の星はほとんど見えない。新緑の香りのする5月の風がなんとも心地よかった。つやのあるミディアムに切ったリリカの髪が風に揺らめいている。

「今日もおつかれさん。」ユウトがリリカの隣に座った。

「おつかれ。ねえ、私達の毎日っていつまで続くのかな?」

「急に何言うの?」ユウトは笑った。

「多分ね、これだけ気候変動が進むと、こういう平凡な日々って長く続くとは思えないの。数年前に巨大台風が来て、大変な地域があったでしょ?自然が起こす脅威っていつどこで起きるか、私たちにはわからない。たまたま、私たちの毎日ってそうした影響を受けずにここまでこれた。それって本当に奇跡だと思う。」

ユウトは黙って聞いていた。

「その奇跡がいつまで続くかはわからない。どこかのタイミングで、自然は私たちの毎日を断ち切ってしまうことがあるかも知れない。私たちの毎日が何事もなく穏やかに過ぎていくってことは、決して当たり前のことではなく、すべて偶然の積み重ねだったんだって最近思う。その日常が当たり前になっていくと、人間は自然に対しての畏怖を忘れていく。すべて人間が中心となってコントロールできるって錯覚が始まる。でも自然への畏怖がないと、この先私達って立ち行かなくなっていくんじゃないかな?」と、リリカが言った。

「それは、あるかもね。」

「でもなあ、今の日常を当たり前だと思うことも、仕方のないことなのかな?」

「僕が思うにね、人類のほとんどの歴史は、自然の中でどう生きていくかっていう格闘だったんだと思う。1950年くらいから2019年までって、自然が人間に対してある意味、穏やかに対応していた、本当に稀有な時代だっただけじゃないかな?むしろ、今の僕たちの生活の方が、当たり前ではないのかもね。」

「ああ、そうだね。」

「僕たちが毎日を当たり前だって思うことで、他者への思いやりが少なくなっていく気がするしね。」

「人って、誰もが何かしら悩みだったり、大変なこと抱えているんはずでしょ?大なり小なり。赤ん坊の夜泣きがうるさくて大変だったり、台風で家を無くして大変だったり、お金はあるけれど誰一人信頼できる人がいなくて大変だったり。どんなに恵まれた人も貧しい人も、その人にしかない悩みはあるはず。生きてるって、迷うことなのかもね。」リリカが言った。

「そうだね。でも僕は一人で迷うより、リリカと一緒でよかったと思う。リリカとハルトと一緒に過ごせて、僕はこれでよかったと思うよ。」ユウトが言った。

「そう?」

「もちろんだよ。」ユウトはリリカを抱きしめた。

「僕も時々思うんだ。僕たちはいつまでこうしていられるんだろうって。いつか憎み合ったり、離れ離れになってしまうんじゃないかって不安は僕にもある。リリカと同じ気持ちなんだよ、この毎日は奇跡なんだって。」

ユウトは遠くの空に煌々と光る星を一つみつけた。ながい時に触れた気がした。

部屋の中からハルトが泣く声がする。ユウトはハルトを抱きかかえ、やさしくあやした。

「この子が見る未来の世界って、どんな景色が広がっているんだろうね?」ユウトが言った。

「ははは、全くわからないね。でも私たちの心配をよそに、彼らは彼らで生きていくんじゃないかな?」リリカは言った。

白熱球タイプのLEDのあたたかな光が、眠るハルトの横顔を照らしている。その天使のような顔を二人は見入った。



3-1

2032年3月、恐ろしいニュースが飛び込んできた。とある国で、数百人の人々が高熱と脳炎を起こし、亡くなったという。WHOの職員が現地に入り、原因の特定を進めているが、未だ詳細はわかっていない。COVID-19が収束し、世界に安堵感が広がり、穏やかな日常を取り戻す中で人々はウイルスのことを忘れていった。何人かの科学者は、さらに森林など生態系を破壊し、経済発展をし続けるならば、今後地球温暖化はますます進み、未知のウイルスや疫病は短いスパンで発生すると警鐘を鳴らしていたが、その声は人々に届かず、いつしか忘れ去られていた。
「原因が特定されておりませんので、国民の皆様、パニックに陥らないように落ち着いて行動してください」と日本の内閣官房長官の記者会見の映像がニュースに繰り返し流れた。

大きな災害や異常事態が起きた時、その当事者でない人々の間では、今までの日常が繰り返される。日課のジョギングする人、校庭でサッカーに明け暮れる小学生、酒を飲んでアルコール消毒すれば大丈夫だと嘯く大人。テレビやネットのニュースでは危機を報じているが、誰もが自分に差し迫っている危機と捉えることはできない。大多数の人々は最初他人事のように恐れ、大したことはないであろうと楽観視していたが、5月にはあっという間に世界中の都市に感染の波がやってきた。世の中がざわめき始めていた。

6月は全国的に大雨が続いていたが、7月に入った途端、雨は降らなくなり、梅雨といわれる季節はいつのことをいうのか、日本の大半の人々はわからなくなっていた。もはや、東京は、春夏秋冬という季節感が薄れ始めていた。東南アジアのような雨季・乾季という季節の区分の方がいいのではないか、という議論さえ起こっていた。

7月、東京は酷暑を迎えた。毎日のように日中は39℃の猛暑日となり、熱中症注意報が出ていた。

いつものように、リリカは「じゃあ、行ってまいります。」と幼稚園へ出勤した。

「いってらっしゃい、外暑いから、気をつけて。」とユウトはリリカを送り出すと、息子ハルトをリリカの両親の家に預けに行き、朝のメタバースミーティングに入った。

午後2時頃、ユウトの電話が鳴った。リリカの勤める幼稚園からだった。電話に出てみると、園長先生からだった。

「すみません、サトウリリカ先生の旦那様でしょうか?私、さくら台幼稚園のコバヤシと申します。先ほど、リリカ先生が体調を崩されまして、救急搬送されましたので、至急、病院までいらしていただけますか?」
あまりの突然のことにユウトは驚き、わかりました、いますぐ行きます、とだけ言って電話を切った。熱中症にでもなったのかと思い、心配しながら自分の車に向かった。外に出ると気温は41℃、車の中はサウナ状態だった。急いでクーラーをかけて、リリカが搬送された病院へと向かった。

病院に着くと、主治医の先生に会った。「サトウさんの旦那さんでいらっしゃいますね。こちらへどうぞ。」
大学病院の真っ白い主治医のいる部屋に通された。医師の机のモニターには、電子カルテに映されたリリカのCT画像が見える。今まで風邪に罹ったことすらほとんどなく、健康そのものだったリリカに何が起こったのか、ユウトは一瞬パニックになった。

「あの、先生、何があったのでしょうか?」ユウトは恐る恐る主治医に訊いた。

「実はですね、発熱で救急搬送されてきまして、熱中症かと思いましたらそういった症状ではなく、何かの感染症が疑われる事例でして。現在、精密検査をしておりますが、原因はわかっておりません。」主治医は言った。

「ということは、しばらく入院ということなのでしょうか?」ユウトが言った。

「そうなります。経過観察が必要です。」主治医は重苦しそうに答えた。
「実は、感染症の疑いがあるので、これから陰圧室に搬送します。そして、念のため、旦那さんの精密検査もします。ご家族はどういう構成になりますか?」

まさか、とユウトは驚いた。こういう経験は初めてだったので、恐怖を感じつつ、検査を受け入れた。ユウトは検査の結果、異常はなかった。その後、息子のハルト、リリカの両親も念の為に検査を受けたが陰性で、何も検出されなかった。

「リリカは、暑いので疲れたのだろう、免疫力が落ちて、ちょっとした風邪になっただけだ、すぐによくなる」
そう考えるように、ユウトは努めた。

しかし、日に日に、リリカの容体は悪くなっていった。

ユウトは、今起きていることを信じることができなかった。毎日病院へ通うが、リリカとの面会は許されない。
病室をガラスで隔てた窓からであれば、お見舞いしても良いと許可を得た。ユウトは防護服を着せられ、その部屋を訪れた。人工呼吸器に繋がれたリリカは静かに眠っている。管が口元から伸びたリリカの姿は、一つの大きな機械のようにも見えた。

2週間経っても、リリカは目を閉じ、息をするだけで、眠っていた。

ユウトは、陰鬱になっていった。
病院のエントランスに設けられた椅子に座り、一人、病院の庭を眺めていた。エアコンの冷気と行き交う人々の合間で、ユウトは微動だにせず、ただ庭を眺めていた。外は今日も酷暑で日差しだけを見ていても肌に暑さを感じた。ついこの前までの平凡で愛おしい毎日が、忽然と消えたような気がした。

病院から帰る途中、空が黒雲に覆われ、遠くから埃の舞う匂いが周囲に立ち込めた。雨が降るとユウトが思った途端、雨粒が落ちてきた。あっという間に辺り一面、豪雨となった。目が眩むほどの稲光と、胸が震えるほどの轟音がユウトの頭上で起こった。ユウトは慌ててコンビニでビニール傘を買い、家に向かった。あまりの土砂降りだったが、ユウトには雨宿りという考えさえ浮かばなかった。ただ呆然と、ビニール傘をさしながら、激しい雨に打たれた。白い半袖のYシャツが、雨で肌の色となり、濡れたジーンズの藍色が灰色の道路の上に映えていた。

ユウトは、道端で目を閉じ、祈った。

「神様、どうかリリカをお助けください!」

切ない祈りだった。ユウトの顔は、涙なのか、雨なのかもわからぬほどに濡れている。地面に叩きつける大雨が、水の煙のように感じられた。道の先は黒く覆われ、視界ははっきりしない。

ユウトとハルトは、しばらくリリカの実家で過ごすことになった。娘を心配する両親と、憂鬱なユウトをよそに、歩きはじめたハルトは鼻歌を歌いながら、ベランダに通じる窓のレースカーテンにくるまり、雨の降りしきる外を眺めている。


数日後、主治医から電話が入った。

「すみません、今日、病院までいらしていただけますか?こちらとしても手は尽くしたのですが。。。
大変言いにくいのですが、最後の対面になってしまうと思いますので、ご足労をおかけしますが、お願いいたします。」

ユウトは、幼いハルトをリリカの両親に預けて、一人、病院へ行った。

医師たちは、懸命にリリカを治そうとしてくれた。様々な病のケースを考え尽くし、処置してくれたが、うまくいかなかった。

リリカの病室へ2分間だけ立ち入ることが許された。ユウトは防護服を着せられ、ゴムバンドのきついマスクとゴーグルを装着した。


部屋に入った。


リリカが眠ったように、ベットに横たわっている。かすかに息をしていた。


ユウトは、リリカ、と声をかけた。白い四角い部屋に、声が疲れたように響くだけだった。


急に壊れてしまったようなリリカの様子に、ユウトはただ呆然と眺めるほか、すべがなかった。ゴム手袋をしたユウトは、リリカの手を握った。彼女の体温を遠くで感じながらも、それはもはや、リリカの手ではない気がした。

「ああ、なんということか!」ユウトは混乱した。

彼女と引き離されるように、2分間は過ぎ去った。最後の別れにしては、あまりにも残酷すぎた。別れの言葉も、何も、ない。



リリカは、息を引き取った。

あまりの突然の出来事だった。

ユウトの心は動かなくなった。

夕暮れに染まり始めた遠くの空で、蝉がカタカタと鳴いていた。



3-2

新たなパンデミックが起きると世は混乱し、今までの日常は機能しなくなり、人としての尊厳や大切な慣習は隅に追いやられる。
リスクを避けるガイドラインの通り、火葬に遺族が立ち会えることはできなかった。

リリカの火葬をしてくれた葬儀会社の方が、白い風呂敷に包まれた四角い木の箱をユウトの家に届けにやってきた。

「この度はご愁傷様でございました。」

その重い箱をユウトは受け取り、深くお辞儀をした。

リビングにその箱を運び、用意していた祭壇の上に置いた。静謐な時間が流れる。

ユウトは大学卒業し就職した後、自分の父親がガンで亡くなったときのことを思い出した。やつれていく父親を病室で見ながら、死への心の準備をしていく過程で、ユウトはその事実を受け入れることができた。亡くなった後、末期の水を取り、固く白くなった父親の肉体に触れたとき、初めて生と死の境界を感じることができた。火葬し、割り箸でカサカサとした骨を拾い、この世の無常を感じる神聖な時間。父の骨を墓に入れ、時々お参りに行き、自分の生きていることを感じる。それが本来の儀式だった。

しかし、リリカは消えたように、白い箱の中に入っている。その事実を全く受け入れることができなかった。気持ちを整理する時間など全くなく、リリカとの日常がある日突然、消失した。

ユウトの頭の中は真っ白になった。今起こっている現実がまるで理解できない。

リリカの父と母は静かに祭壇を拝んでいる。一人娘を亡くした彼らの悲しみも深かった。ユウトは彼らにお茶を出し、これからのことを少し話した。息子ハルトの保育園の送り迎えをリリカの父に頼むこと、ユウトの仕事が終わり次第、リリカの実家にハルトを迎えにいくことなど、そのほか色々話した気がするが、会話の内容は忘れてしまった。

息子二人でどうやって生きていこうか、この先何を頼りにしていこうか、などという将来のことをユウトは思い描くことはできなかった。

戒名が書かれたお位牌の前で、黒い線香が煙を燻らせている。


夏の酷暑を忘れてしまうほど秋は深まり、11月の初旬にさしかかっていた。
ただ毎日、発作のようにユウトの頭に去来するのは、リリカとの思い出だった。

リリカと飲んだ純米酒、ちょっとしたことでプリプリと怒っている顔、くだらない話をして大笑いしている顔、仕事で凹んでいる顔、沖縄の旅行、夕食の型崩れしたハンバーグ、言い争いをしたこと、リリカの温もり。

ユウトは今を生きていなかった。

仕事をし、リリカの実家にハルトを迎えに行き、ハルトと過ごすというルーティーンを日々こなした。

VRゴーグルをし、表示される顧客リスト、お客様の好み、ミーティングの内容、上司のアバターの顔など、全てが風景のように見える。すべてが仮想現実のようにも見えるし、すべてが現実のようにも見える。生きていることに、リアリティが、無かった。

まるで毎日が群青色に染められていて、どんなことにも心を動かす余裕はない。
心の奥には、ただ痛みが残る。時々、涙が出そうになる。

取引先での仕事の帰り、秋の夕暮れを見た。関東平野にまっすぐに広がる紺色の雲の下には、切り裂くようにオレンジ色の夕日が赤く燃えていた。夕闇が今日もやってくる。

突然いなくなったリリカを恨んでみるも、自分が虚しくなるだけだった。様々な感情が浮かんでは消える。

なぜ自分が生きているのか、わからなくなった。

仕事を終えたユウトは、リリカの実家に電話をかけ、今日は息子を預けたい旨を伝えた。

一人になりたい、ユウトはそう思った。訳もなく、多摩川へ歩いていった。



3-3

気がつくと、ユウトは”Best Wishes”にいた。カウンター越しの白熱球のオレンジの光と、深いプルシアンブルーの闇が交差する白い境界を眺めながら、ユウトはいつものウイスキーの入ったグラスを傾け、氷の冷たさを感じていた。
酒を飲んでいるという感覚すらない。意識は、白い境界めいたものにあった。

マスターのセキネさんは事情を知っていて、ユウトを放っておいてくれた。

今日の来店客は、ユウトとカウンターの隣に座る老人だけだった。
セキネさんは、老人と絵画の話をしている。ゴッホ好きなセキネさんは老人に絵について色々質問しながら、老人の解説に耳を傾けていた。老人は絵に詳しいらしく、青と黄色、赤と緑など、補色を組み合わせた鮮烈な生命力がゴッホの魅力だと話していた。

「絵は、興味あるかね?」

その声に我に返ったユウトは、その老人がユウトに話しかけていることに気がついた。穏やかな表情をたたえながら、老人は優しくユウトを見つめている。

「絵ですか?自分で描いたことはほとんどないですね。観る機会も今までそんなになかったです。」ユウトは初めて会う老人に答えた。ユウトにとって絵画は、中学校の美術で教わったくらいで、絵は描かされた程度だった。たまにリリカに美術館に行こうと誘われてついて行き、退屈そうに眺めるくらいのものだった。

「そうなんだね、あんまり興味はないようだね。実はね、私は絵描きなんだ。まあ画家といっても絵はほとんど売れてないが。絵画教室で絵を教えている。家はこのバーの近所なんだがね。今日でここに来るのは2回目なんだよ。
初めまして、画家のタカギ ヨウと申します。」老人は少し照れ臭そうに言った。

「初めまして、ユウトっていいます、よろしくお願いします。」

「立ち入ったことを訊くようで、申し訳ないが、何かあったのかね?ふさぎこんでいる様子だからね。」目尻には深いしわがあり、長い間培った洞察力をたたえたブラウンの瞳は、ユウトを見透かしているようだった。

初対面の人に、自分の悲しさを吐露してもいいものか、一瞬迷ったが、ため息のようにユウトは口を開いた。

「あ、あの。妻が、この前、亡くなってしまいました。」

「そうか。

若かったろうね。」ヨウは虚空を見つめた。

ジャズサックス奏者の巨人、John Coltrane の名バラード”Naima”が、会話が途切れた沈黙のバーの中で静かに流れている。セキネさんの最高の選曲だった。サックスの奏でるメロディーは甘美と慈愛に満ちていた。無限の時間が流れているようだった。

ふと、ユウトは、リリカの記憶に触れた。やさしい表情をしたリリカが、ありありとユウトに見えた。

不意に、涙が溢れた。

「すみません。」慌ててユウトは涙を指で押さえた。

「大丈夫、大丈夫だよ。」ヨウは左手をユウトの肩にそっと置いた。ヨウの手はどこか深いやさしさがあって、ユウトは少し安堵したかのようにその温もりに触れた。

「ほんと、急に亡くなってしまって、自分でもなんていうか、混乱しちゃって、訳がわからないんです。」

それから、ユウトは堰を切ったように、リリカのことを話し始めた。
酔っていたのだろうか。色々と話をした気がするが、ユウトは何を話したのか覚えていない。時を忘れた。

ヨウは頷きながら、リリカがどんな人であったか、彼女の像を心で思い描きながら、ユウトの話に聴き入っていた。

「君、ユウト君と言ったかね?今度、うちの教室に来てみないかね?それで、もしよかったら、絵を描いてみないかね?」

「えっ?僕が?」少し狼狽しながら、ユウトは言った。

「僕、絵心は全くないですし、中学の美術の授業で描かされた程度なので。絵を描くのは、ちょっと自信がないです。」

戸惑うユウトに、ヨウは、微笑みながら答えた。

「大丈夫だよ。絵と言っても、うちの教室ではデッサンを教えているんだ。描き方の基本から学べば、デッサンは誰でもできる。是非、教室に来てみて下さい。勿論、お金はいらないよ。それでまた話したくなったら、私でよければおつき合いするよ。」そういって、ヨウは絵画教室の名刺をユウトに渡した。

「もう0時じゃないか。もう寝る時間だ、ではマスター、ありがとう、また来るよ、おやすみ。」老人は、帰っていった。



3-4

朝が来た。

ユウトはカーテンを閉めずに眠りに落ちたので、レースカーテンいっぱいに広がる白い太陽の光が眩しい。

今日は出社日だった。慌てて目覚まし時計を見ると、午前7時10分。ユウトは安堵した。ベッドから起き上がり、リビングに行く。
息子ハルトは昨日、リリカの実家に預けて来たのを思い出した。リビングの隅に積まれたレゴブロックは朝日に照らされて原色の緑と赤、青や黄が鮮やかだ。

ぼんやりと、日課の朝のコーヒーをドリップする。カップを2つ出し、機械のようにコーヒーを入れた。

注ぎ終わったあと、我に返った。

リリカはいない。


ぽつねんとするコーヒーの入ったカップを眺めながら、ユウトはコーヒーを静かに飲む。

窓を開ける。11月の風が耳元をすべり、見上げると、どこまでも深い青空が切ない。

テーブルには、ヨウの絵画教室の名刺が無造作に置いてある。

トーストを食べながら、名刺をじっと眺めてみた。財布に長い間入れてあったであろうその名刺には、ところどころポイントカードらしき染料がこびりついている。
ユウトは名刺入れにしまった。

8時きっかりに、携帯端末が今日の天気を教えてくれる。

コーヒーの入ったカップにキッチンラップをかぶせて、ユウトは出社した。
電車に乗りながら、流れ行く街の風景は目に入らない。止まったように悲しみだけがユウトの後を追いかける。

会社で新製品の試作を見て、社員とミーティングした後、取引先に顔を出し、15時が過ぎた。ハルトを迎えに行きながら、夕飯の買い出しにスーパーへ行く予定だったが、まだ余裕がある。

ユウトは、ヨウの絵画教室へ行ってみることにした。

築数十年にもなる雑居ビルの2階へ行くと、ヨウの絵画教室があった。

ちょうど、ヨウが何人かの美術学校志望の高校生たちにデッサンを教えている。

「こんにちは。」とユウトが恐る恐る教室に入った。

少し汚れの目立つ黒いTシャツを着た老人は、少し驚いたようにユウトを迎えた。

「こんにちは、来てくれたんだね。まさか、今日来るとは思わなかったからね。」と笑った。

高校生たちは、テーブルに置いてあるガラス瓶をスケッチしている。ガラスの厚み、光の陰影がくっきり浮かび上がっている。彼らのデッサンは見事な出来栄えだった。絵は全くの素人のユウトからすると、どれもよくできた絵にしか見えない。

「それぞれに個性があっていい絵でしょう?」とヨウは言った。
「もう少しで彼らのレッスンは終わるから、ちょっと待っててくれないか?時間は大丈夫かね?」

「ええ。あまり長居はできませんが。今日は、なんとなく来てみただけです。」

「ああ、そうか、わかった、ありがとう。せっかく来てくれたんだから、少し話そうじゃないか。」

まだ息子を迎えに行くには時間の余裕があったので、ユウトは言われるがまま、教室の椅子に座った。

生徒たちが帰った後、ヨウは来客用のカップと自分のカップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いだ。封を切ってからしばらくたっている黒い粉にお湯を足しても、香りは漂わなかった。器はどちらもエメラルドグリーンの陶器で趣がある。ヨウは規則のようにスティックの砂糖とコーヒーフレッシュをソーサーの上に置き、ユウトに差し出した。

ユウトが礼を言うと、ヨウは話し始めた。

「本当に、残念だったね。昨日君の話を聞いていて、すごく悲しい思いをされているんだなと思った。それで、君に絵を描いてみないかと言ったのは、それが少しでも、あなたのためになればいい、と思ったからなんだ。」

ユウトはコーヒーに砂糖を入れながらじっと聞いた。

「ユウト君が奥さんを失うという辛い経験をされて、色々と思い出を昨晩語ってくれたね?君の奥さんへの愛情が痛いほど感じられた。なんというか、素性の知らない、よくわからない老いぼれにこんなこと言われていい気がしないかもしれないけれど、少しでも君の気持ちを軽くできれば、その手助けができればと思ったんだ。」

ユウトは少し驚いた。インスタントコーヒーの味しかしない、甘く苦い液体を飲みながら、同時にやや違和感を覚えた。ユウトは黙って聞き続けている。

「私はただの絵描きだ。特に出世した絵かきでもない。この教室で来る生徒を教え、美術学校で時々非常勤講師として教えているだけの、しがない絵描きなんだ。ただ目の前にいる悩みを抱えた若者を放っておくわけにはいかない、そう咄嗟に思ったんだ。」

「そう、なんですか。」ユウトが言った。

「説教じみていて恐縮だが、生きていくっていうのは苦難の連続だ。ほんとうに自分では予期せぬことが起こる。疫病、異常気象、地震、事件、事故、自分ではどうしようもできないことが起こってしまう。それでも、私たちは生きていかなきゃいけない。どんなに辛くても、生き続けていれば、必ず道はひらけてくる。悪いこともいいことも長くは続かない。生きていくってことが大事だからね。」

老人の経験から裏打ちされたその言葉は、ユウトには響かなかった。

「お言葉ですが、、」ユウトはじっとヨウを見た。

「あなたに私の何がわかるっていうんですか?」心に湧き上がる憤りの気持ちを押し殺しながら、ユウトは続けた。

「絵を描いて、それが何になるっていうんですか?僕の頭は、もう喪失感で一杯なんです。会社で上司と話していても、お客さんと話していても、平静を装って作り笑いをしているけど、一人になると悲しみで一杯なんです。一人になると、彼女との思い出がフラッシュバックしてきて、心が張り裂けそうなんです。僕には助けられなかった。もっと何かできなかったかって、後悔ばかり、ぐるぐると頭を駆け巡るんです。
苦しみしかないんです。それなのに、そんな状態なのに、絵を描いてみないかって言われたって、そんなことできるわけないじゃないですか。私のことなんか、放っておいてくださいよ!」
ユウトは落ち着いた口調で憤った。そう言った後で、ユウトはむしろ、自分の本当の気持ちをさらけ出している自分に驚き、はっとした。

哀しみの目をたたえた老人は、しばらく黙った。遠くの方で、電車の通る乾いた音がする。

「私が悪かった。余計なことを言ってしまったね。申し訳ない。」ヨウはユウトに謝った。電車の音が、沈黙の部屋に残っている。

「わたしはね、色覚異常なんだ。」ヨウが言った。

「シキカクイジョウ?」

「色覚異常っていうのは、いわゆる色盲というやつだ。一色型色覚という稀な病でね、今は世界がモノクロにしか見えない。黒と白と灰色だけの世界なんだよ。
今、目の前にいるユウト君の服の色や髪の毛の色、肌の色つやを私は見ることができないんだ。若い頃は鮮やかに見えていたのだが。」

ヨウは教室の窓を見ながら静かに語り始めた。すこし西日が眩しい。黒いTシャツの老人が教室にくっきりと映えている。

「信号だって色がわからない。ライトがどの位置にあるかで判断している。この夕陽も、私には眩しいとしか感じない。光の濃淡を感じるしかない。この街に広がる美しい夕暮れを私は感じることができない。私には、モノトーンの世界が目の前に広がるだけだなんだ。

20代の頃、美術大学に通っていた頃は全てが鮮やかだった。二科展にも入選して、将来を有望視されていた。周りの連中は、みんな才能があってね。世界的な画家になったやつもいたよ。私も若い頃は負けず嫌いだったから、競うように絵を描いては、みんなで切磋琢磨していた。
26歳の頃だったか、急に眼の不調が起きたんだ。本当にごく稀な病だと言われて、治療法が見つからないと医者に言われた。
絶望の淵に立たされた感覚だったよ。橋を渡りながら、今、川に飛び込んだらどうなるかな、って思いながら歩いてたね。どうしたらいいのか、全くわからなかった。」

ヨウは緑色のカップのコーヒーを飲んで、話を続けた。

「ある時、スペインの画家、アントニオ・ロペスの展覧会に偶然行った。彼の絵を見たとき、衝撃が走ったんだ。彼の絵は、非常に写実的で、写真のような絵がいくつもあるんだ。近くでよく見ると写真のような精密さはなく、ディテイルを細かく描いていない。ちょうど、大昔にあった初期のデジタルカメラの荒い画素数の写真のようだといえば、例えがいいかな。よくみると、細かいところはラフに描いている。でも遠くから見ると、その対象がとてもリアルに見える。
ああ、アントニオ・ロペスは、時間を描いているんだなって気がついたんだ。」

そういうと、ヨウは本棚まで行き、アントニオ・ロペスの画集をさっと抜き取った。

「時間を描く?」一体どういうことなのか、全くユウトは理解できなかった。

「これが彼の作品だ。」その画集をユウトに手渡した。

画集の表紙には、人が誰も歩いていない、一瞬写真かと思いきやよく見ると、紛れもない絵画の街が広がっている。ページをめくると、スペイン、リアリズムの巨匠という文字がユウトの目に入った。

「マリアの肖像」と題された絵を見たとき、ユウトは驚いた。
スペイン人と思われる8歳くらいの少女が、黒いコートを着て、こちらをじっと見ている。コートのフェルトの質感が生々しく、少女の目は無垢の光を漂わせている。時間が絵の中で止まっている。ほんとうに不思議な絵だった。

「この『マリアの肖像』は紙と鉛筆だけで描かれているんだ。私もこの絵を見たとき、本当に驚いた。絵の中の少女が生きていて、呼吸しているように見えるんだ。アントニオは作品によっては、完成させるまで何年も平気で費やすそうだ。その完成に至るまでの時間の流れが絵画の中に閉じ込められて、永遠を感じているように見えるんだ、私には。
これだ、と思ったんだ。」ヨウは熱く語った。

「絵を描くことに没頭すると、不思議と今抱えている不安だとか、深い悲しみや苦しみが消えていく感覚が一瞬おとずれる。描く対象に集中して手を動かしていると、自分が一瞬消えるんだ。きっと、瞑想に近い状態なんだね。そして、様々な感情は時間となって絵画の中に溶けていく。それを繰り返しているうちに、私の絶望感は徐々に薄れていった。絵描きとしての可能性が見えた瞬間だったんだ。
でも、私は、そういうことを君に強要しようとは全く思わない。
ただ、絵を描くことは、そういうこともあるんだ、っていうことを君に伝えたかっただけなんだ。」ヨウは不器用な性格ながらも、一生懸命、ユウトに何かを伝えようとしているようだった。

ヨウの話が不思議にも、ユウトの心にすっと入ってきた。
心に平静を取り戻し始めたユウトが言った。
「僕がここに来たのは、ヨウさんと話がしたかったんだと思います。絵を僕が描けるかどうかはともかく、あなたと話がしたかった。あなたの話を聞きたいと思ったからなんだと思います。自分でもよくわからないんです。
僕には、友達と言える人がいません。僕の苦しみを打ち明ける人なんて誰もいません。唯一自分のことを話せる相手はリリカだけでした。昨日、酔っ払って、何をヨウさんに話したかなんて、自分でもさっぱり覚えていないんです。でも、ヨウさんは僕の話を受け止めてくれていた感覚が残っていたんです。だから、今日会いに来たんだと思います。

僕こそ、失礼なこと言いました。ごめんなさい。
ヨウさん、本当にありがとうございます。」ユウトは頭を下げた。

「いやいや、こちらこそ、申し訳なかった。」ヨウが言った。

「ヨウさんと話していると、少し安心しました。」

「私が君にできることなんて限られているよ。ただ、君の気持ちに寄り添いながら、私のたどってきた今までを話すくらいしか、私にはできない。それで、もし絵を描いてみたいと少しでも思ったら、いくらでも教えるよ。私にできることは、それくらいだ。」ヨウは静かに言った。

時計を見ると、17時を過ぎている。あっ、息子を迎えに行かなければ、とユウトは思った。

「すみません、これから用事がありますので、今日はこれで失礼します。」

「そうだね、もう暗くなってきたから、帰ったほうがいいね。またいつでもいらっしゃい。」ヨウはにこやかにユウトを送り出した。
ユウトは、ヨウに少し背中を押してもらえた気がした。

外に出ると、少し肌寒い。通りの木々は色づき、紅葉の香りが漂い始めている。
ユウトには、今日の夕陽がいつもとは違って見えた。



3-5

ユウトはヨウの絵画教室に出入りしながら、彼との交流を深めていった。

ユウトはまず、デッサンの基本を習うことにした。ものの形をとる練習をヨウに教わった。くだもの、コップなどをデッサンするところから始めた。全く絵を描いてこなかったユウトは最初手こずってはいたが、ものを見る感覚は優れていたので、少しづつ絵が描けるようになってきた。

ある程度感覚をつかめるようになると、リリカのポートレイトを描いてみることにした。昔撮ったリリカのデジタル写真をまずトレースし、リリカを形どった。最初は、ただ写真を絵に転写するだけに終始していたが、ヨウが丁寧に教えてくれた。

ユウトは絵を描き続けた。ヨウの言う通り、絵を描いている時、ユウトは無心になれた。彼女を想うと、時々悲しくなってしまうが、彼女との思い出を浮かべながら丁寧に描いていった。

朝起きて、息子ハルトを保育園に送り届け、仕事をし、ハルトを迎えに行き、食事を作り、ハルトを寝かしつけて、夜10時ごろから絵を描くことに没頭した。

ヨウさんから、絵は自分が描きたいと思ったときにだけ描いたほうがいいとアドバイスをもらっていた。描きたくないときは描かず、時々ハルトをリリカの両親の実家に預けて、"Best Wishes"に行って常連さんたちと会って色々話しをしては気を紛らわせ、描きたいと思う日まで描かなかった。

2週間に1度、ヨウさんのところに行って絵を見せながら、アドバイスを貰った。

「いいね、だんだんといい絵になってきた。この調子で、時間をかけて、ゆっくりと描けばいいよ。ある意味、この絵には完成はないかも知れない。あるとすれば、ユウトくんがこれでいいと思う時が完成なのかも知れない。描き続けた”時間”が、この絵に閉じ込められていく。今日の線を明日消したとしても、それが歴史となってこの絵に表現されて行く。それが、絵の持つ”時間性”なんだと思うよ。」ヨウさんが言った。

「時々描きながら、僕には絵の才能なんてないな、って思います。この絵で果たしていいのだろうか、って疑問が時々沸くんです。いつも迷いながら描いています。
僕は今まで、中途半端な生き方をしてきた気がします。中途半端だと大人に指摘されたこともありました。今まで生きてきて、これがしたいとか、こうなりたい、っていう夢だとか目標が見つかりませんでした。というより、これがしたいと思っても、途中であきらめてしまうんです。僕の周りの人たちは、夢だとか目的意識がはっきりしている人が結構いました。リリカもそういう人でしたけれど、彼らは僕の憧れでした。夢を持つ人が羨ましいと思っていました。僕もいつかそうなれたら、と思って生きてきたけど、多分、僕には無理ですね。」ユウトは、ヨウにぽつり、と言った。

「そうなんだね。うーん、夢って、なんなんだろうね?」ヨウがそう言った。

「えっ?」ユウトは何も答えられなかった。

「夢って、誰もが持つべきことなのだろうか?
夢を持つな、とは言わないよ。夢を叶えた人々は崇高で、本当に素晴らしいと思う。でも、夢はすべての人にとって必ずしも必要なことなのだろうか?
そもそも、成功とは、どういう状態のことを言うのだろうね?
人々から喝采を受けることなのだろうか?人よりもお金をもらえるようになることなのだろうか?目標を達成したとしても、それは成功と言えるのだろうか?

若い頃に一緒に切磋琢磨した絵描きの連中は、私を含め、様々な人生を送ったな。
中国上海や香港で相当売れて金持ちになって、その後、全く絵が描けなくなった人。
今も独自の絵画を追求してそんなに売れているわけではないが、国際的に評価を得た人。
絵の世界を完全にあきらめて、芸術とは全く関係のない仕事をしている人。
自分の絵画ではなく、顧客の発注を受けて彼らが喜ぶイラストを描いて仕事をしている人。
私みたいに絵を教えながら質素に暮らす人。
色んな生き方があるよ。

誰もが一流の画家にはなれない。どんなに努力しても、努力だけでは絵描きにはなれない。持って生まれた身体、心、そして運によってどうなっていくかは誰にもわからない。努力だけで成功するかはわからないんだ。

21世紀に入ってから世の中の風潮として、夢を持って成功している人をドラマ仕立てにして、テレビやネットでこぞって取り上げるようになったよね?そして、みんな頑張って努力していこうっていう見えない圧力みたいなものが生まれた気がする。努力していない人間は、ともすると良くないという空気すら感じるときもあった。いや、もっと昔からなのかもしれないな。成功する人間に続け、と。

例えば、競技を極めようとしているスポーツ選手とか、仕事で成功した人のドキュメンタリーなんか見ると、感動はする。実際記録を打ち立てたりするスポーツ選手に美しさを感じる。ビジネスで成功したりする人はすごいな、と思ったりする。
かくいう私は、オリンピックとかスポーツ競技を観戦するのは大好きだ。自分の限界を超えていこうとする精神には美を感じるからね。

でも、その中で成功する人は、一体どれくらいいるのだろう?そして成功って、どういう状態のことなんだろう?成功って本当は誰が決めるんだろうね?

夢が持てない人だっている。なりたい自分が見つからない人も沢山いる。
それはそれで、いいんじゃないかな?

私は、夢が持てないっていう人には、周りの人を助けたり、誰かに親切にしたり、困っている人の気持ちをわかってあげたり、少しでも誰かのために何かをすればいい、とアドバイスするようにしている。他人に、ちょっとだけ親切であればいいんだ。少しでも誰かに親切にしてあげる、ただそれだけでいいと思う。

でも、誰かと繋がって生きていると、例えば大切な人とはいつかは別れなきゃいけない時が来る。それはとても悲しいし、辛い。でも、その悲しさと共に、生きていくしかない。時が経てば、思い出の色も変わっていくかも知れない。亡くなった人との思い出、過ごした時間と一緒に生きていくことで、生かされた人のアイは輝いていくのかも知れない。」ヨウはそう言った。

その話を聞いて、ユウトはこの先のことが少し見えた気がした。

「絵は、不思議なものだよ。こうしなければいけない、とかこういう風に線を引かなければいけない、という決まりはある意味、ないんだ。君が描きたいように描けばいい。君が、君であればいい。

例えば、君たち若い人たちが使っているメタバースだったかね?人の顔や姿をデジタルに完璧に反映できる技術と絵画はまるで違う。メタバースは、髪の毛の総本数ですら完璧にコピーしてしまうかも知れない。
でも、絵画にはそんな必要はない。もはや描きたい対象を完全にコピーすることに、絵画の芸術的可能性はないのかもしれない。
写実絵画という世界は、本当に奥深いものがあるよ。モデルが人であれば、描いた人の対象に対する想いや、感じた匂い、艶かしさなど情念まで絵になっていくからね。手を使って描くという人間の行為は、描き手の思いが絵になっていく。それをメタバースでは表現できない。

アントニオ・ロペスの絵を例にすると、遠くから鑑賞するとすごくリアルに感じるけど、近くからよく見ると粗く描いている。必ずしも細かいところまで緻密に描くことが、”存在"を表出させることではないんだ。
絵は実際の髪の毛一本一本を正確には描けない。顔のしわ、瞳の光の反射具合、鼻の陰影を完璧に再現できない。でも、絵は、"存在"を描くことができる。無駄な線なんて一本もないんだ。君の記憶がリリカさんを形づくる。君が描いたもの、君だけにしか描けないものが、リリカさんの"存在"になると思うよ。」ヨウは言った。

ヨウの言葉は、ユウトの心に残った。このまま、描きすすめてみようと思った。

季節は訳もなく過ぎ去って行ったが、ユウトは絵に向き合い続けた。取り憑かれたと言っていい。人に見せられる絵ではないかも知れない。ただ、リリカを想う心を線に込めた。リリカのやさしい声、怒った顔、教えてくれた言葉、ハルトとの日々、それがまるで生きた線のように画用紙に描き込まれてゆく。リリカとの思い出、時間性の意味をかみしめながら、絵を描いた。

ユウトにとって、絵に没頭している時間は、無心になれるような気がした。これがヨウの言った瞑想に近い感覚なのだろうか。浮かんでは消える記憶はそのままに、浮かんでは消える感情もそのままに、鉛筆を動かした。

半年を過ぎたとき、ヨウさんが呟くように言った。

「いいね、その調子で、描けばいい。描き続けていると、絵を超えるはずだ。絵っていうのは筆者の意図がある状態だと思う。絵を超えるっていうのは、モデルを絵に実体化させることなんだ。絵を超えた”絵”は、多分、時間そのものなんだと思う。」
ユウトにとってすごく難しい話だったが、ぼんやりと聞いていた。

描いては消し、また描く。線が現れ、また消える。綿棒やティッシュペーパーで鉛筆の線をぼかしたり、消しゴムで消したりしながら、絵は生まれ変わっては消滅していく、新陳代謝する人体のようだった。鉛筆の細かい黒の粒子は、リリカの細胞の一つ一つであるかのようだった。

絵の中のリリカも、日々顔が変化していく。

描くときは、思い出の中のリリカを鮮明に、かつ髪の毛が1本1本まで、まるでそこに実在するかのように表現させていった。彼女の髪の匂い、沖縄の風でそよいだしなやかな髪の毛の動き、ユウトが持っている記憶を、手を使って、今に蘇らせるように写し取っていく。

あるときから、記憶の苦しみと言う側面が、どこか懐かしい、郷愁へと変わっていくのが実感できた。

「高解像度の写真やビデオ、人間そのもののようなアバターなど、デジタルの記録は生きている間サーバーに蓄積すればするほど豊かになるが、それは結局、人間に何をもたらすのか?記録は記憶を呼び覚ますには、とてもいいツールだ。でも、生きるとは、記録の数を増やすことではなく、記憶を積み重ねていくことではないか?記憶は記録に比べると、輪郭のはっきりしない自分の作った幻影かもしれないが、記憶の方が自分の心にしっくりくるような気がする。」ユウトは絵を描きながら時々思った。

リリカの記憶が運ぶ悲しみまでが、絵の中の笑顔に昇華され、ユウトの心は少しづつ生命を帯びるようになっていった。



3-6

久しぶりに春らしい季節がやってきた。
5月のある日曜日の朝。穏やかに外は晴れている。

息子のハルトは、リリカの両親の家に預けていた。ユウトは自分の住んでいる部屋を掃除をしようと決めていた。何ヶ月もの間、掃除することもなく、仕事、ハルトの世話、リリカのポートレイトを描くことに没頭していたので、住む部屋は雑然とし、ホコリも溜まっていた。気分を少しでも前向きにするために、少し片付けをしようと思った。

リビングのテーブルは、リリカが生前よく使っていた。リリカの読みかけの本やつけていたノートがテーブルの上にあったのだが、ポストに入ってくる興味のないチラシやダイレクトメール、開封して支払った公共料金の封筒などをユウトが重ねるだけ重ねていたので、テーブルには一つの山ができていた。

ユウトはしばらくの間、リリカの使っていたものに手を触れることができなかった。彼女自身に触れるようで、どうしても辛くなってしまうからだった。

あらかた掃除機をかけた後、リビングのテーブルに取り掛かろう、ユウトはそう決心し整理し始めた。捨てていなかったチラシ、不要の郵便物などを透明のゴミ袋に無造作に入れていった。リリカの本とノートを綺麗に揃えてテーブルに置いた。気分が軽くなった。

リリカのノートが気になり、恐る恐る開いてみた。綺麗で整ったリリカの字は、幼稚園教育論のこと、最近の園児の動向、仕事で気が付いたことなどがびっしりと書かれていた。仕事熱心だったリリカの日々がここにあった。ユウトは、リリカのまた別な一面を見るようで、感心しながらノートを眺めた。
一通り見終わって閉じようとした時、手紙のようなものがノートからこぼれ落ちた。クリーム色の便箋が丁寧に折られている。

何かな?と思い、ユウトがその便箋を開くと、それはユウトに宛てられた手紙だった。やさしさに満ちた、綺麗に整った文字が一文字ずつ手紙から浮き上がっているようだった。



ユウトへ

私はあなたとの毎日が愛おしいと思っています。
朝出かけるときは、本当は少し寂しい、でも帰る場所が私にはあると思うと、元気が出ます。あなたと出逢って、初めて生き甲斐ができたのかも知れません。

家族3人でいる時間がいつまでも続いてほしいと思います。

私は、あなたのことを少しでもいいから、わかる努力をしていきたい、そう思います。あなたのすべてを私は知り得ない。一緒にいる時間も限られている中で、私の知らないあなたも存在すると思います。私とあなたは別の人間ですから、もちろん考え方も違う。でも、僅かであっても時間を共有することで、お互いのことがわかるようにはなると思います。あなたが日々何を悩んでいるのか、今日楽しかったことは何だったか、今日の出来事で何が悲しかったか、そんなことを夕ご飯のときに、今までみたいに話していきたいものですね。

毎日が、そのような共感で満たされるならば、きっと私達はいつまでもいい関係でいられる気がします。勿論苛立つことだってあるし、あなたの態度や考えに反発することだってある。それはそれで大切なことだと思います。

二人が一緒であるということは、一つになることではない。どんなにお互いが思いあっても、私たちは結局ひとりなのですから。それでいいの。私達は、本来、それぞれの人生を生きていくものだと思います。お互いに寄りかかりすぎないくらいのいい距離感で、お互いの好きなことを大切にして、それぞれが自らに由る、本当の自由であれたら、と思います。

そしてハルトを育てながら、この子が生きる場を作っていきたい、そう思います。

あなたは、私の故郷ようなものです。思い描けばいつもあって、いつでも帰ることができる。

ハルトの成長を見守りながら、平凡な毎日かも知れませんが、共に生きていきましょう。

あなたのことが、好きです。心はいつまでも一緒でありますように。


2032年7月7日

リリカ



リリカが倒れる前に書いた手紙だった。

そして、日付は、ユウトの誕生日であった。

その手紙を読み終えると、ユウトは慟哭した。

自分でも出したことのない声が、言葉にならない声が、胸の奥から出てくる。涙が追いつかない。誰もいない、ガランとしたマンションの部屋に、大きな声だけが響いた。うずくまりながら、ユウトはただ、泣いた。

「ありがとう、リリカ、ありがとう、、、」
ユウトは一人、振り絞るように言った。

そとは暖かな太陽が、やさしく街を照らしていた。

やさしい朝だった。



Epilogue

ユウトは、多摩川に来ていた。

もうあれからどれくらいの歳月が流れたのだろう。

ハルトは5歳になった。川べりで遊んでいる。

「あ、お父さん、花だよ。おうちのお母さんに持っていこうよ。」ハルトがあどけない顔でそう言った。

「おうちのお母さん?ああ、リリカの絵のこと?」

「お母さんは、きれいな花、きっと好きだよ。」

「そうだね。ハルトはやさしいんだね。」

ユウトとハルトの家には、一枚の絵が飾られていた。ユウトが4年の歳月をかけて描いた、リリカのポートレイトだった。ユウトとハルトにとって、それはリリカそのものだった。ヨウの助言のおかげで、絵は完成した。

勿論、リリカを失った悲しみが癒えることはない。
時々リリカを思い出すと涙も出る。

ユウトはこれからもリリカのことを思い出しては、くよくよしていこう、そう思った。リリカとの思い出を胸に、彼女のくれたやさしさや微笑みを自分のチカラにしていこう。その抱えた悲しみは、いつか誰かをいたわるやさしさに生まれ変わるのかも知れない。リリカのポートレイトを見ながらそう思えるようになった。


「懐かしいなあ。」


ユウトはひとり、そう言うと胸が切なくなった。そしてリリカのことを思うと、どこか心地よくもあった。


リリカの記憶は、ユウトの心に生き続ける。

たとえその記憶が、色あせていったとしても。




表題写真:伊藤 隆宗(イトウタカムネ写真事務所)

絵:高橋 政徳

食材アドバイザー:赤間 元大(盛岡市 ダイニングバー笠)






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