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救いを具体的に求めなくとも

私には「カーチャン」が複数いる。
いや、母は1人なんだけど。「カーチャン」です。

マサコさん、ケイコさん、アヤコさん、ジュンコさん。
とても歳が離れていて、「ねえさん」と呼びかけはするものの
私をつかまえて「かわいいなぁ」と言ってくれたり
「綺麗だねえ」とか「すごいじゃん」って、掛け値無しで甘やかしてくれる存在。

そういう人たちとはすべて
ヒトクセある男性と同居していた頃に出会っていて。
七転八倒していた私を見て、恐らく一定の
痛々しさを私の中に見て
その母性から私を見守ってくれていた人たちで。

彼との関係は決定的に壊れたけれど
彼女たちは
人によっては時々、また人によっては定期的に
忘れた頃にコンタクトをくれて
私が「達者でやっているか」を確認した上で
やはり全てを認めて、褒めてくれる。

「出来た娘であることが当然」という扱いが自然である実の母が私に対してできない表現方法で
私の幼少期の不足感を補ってくれる。


一方で
やはり忘れた頃に、あるいは定期的に
会いにきてくれたり連絡をくれる男友達も、
やはり片手で数えるくらいの人数、ずっと居てくれていて
男から見ていても「しっかりしているようでいて危うい」私を気に掛けてくれている。

これがどんなに心強いことか。

急激に接近して、ある日パタっと「切れてしまう」、密接した関係の異性では果たし得ない
強力な安心感をくれる人が
こうやって思い起こすと、私にはこんなに居る。

自分の、「人が離れていってしまう」という性格の、対人関係における表現方法の誤りを
いつも悔やんでは落ち込むのだけど

こうやって冷静に考え直すと
この人たちがずっと居てくれる事ということそのものが
自分の価値なのではと思える様にもなる。

「失ったものばかりをカウントするのはやめなよ」と
指摘してくれる歳下の女友達だってそう。

私はこんなにも
恵まれているじゃないか。

あなただって、そうだよ?

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