プロとアマチュア
今まで、一人で書いてきた中で、プロではないということに苛立ちを感じていた。しかし、プロであるのはどういう意味なのだろう?
大学時代の編集アルバイトで文章を書き始めるという優れた機会だったが、「日本語と英語が母語ではない」という思いにとらわれ、それが選択肢の一つと思ったことさえなかった。20歳のとき、フォーブスジャパンのライターに「書く」ということについてアドバイスを伺ったところ、「どれほどうまく書けるかではなく、何を伝えたいのかが最も大切であり、スキルは後からついてくる」とのお言葉をいただいた。
「音の物語」の最終エピソードを執筆した時、ジャズピアニスト穐吉敏子さんの記者会見でのプロの記者との出会いは、私を落胆させた。数年間憧れてきた職業だったが、私が探し求めてきたものと違うと感じた。一流の新聞社の記者は新幹線で移動し、記者会見が終わるや否や去っていって、記事は翌日に掲載されている。そのとき、鈴木昭男さんを一年以上追いかけ、私の記事はまだ世に出していないことを考えると、無能で非効率であると自覚した。同時に、彼らは全てを尽くして取り組んで、自ら行動しているのか、単なる仕事の一日だったのだろう。私は普段から背中を痛めながら夜行バスで移動し、今回は仕事を犠牲にして盛岡までやってきた。
先月、音楽祭でイギリスの大手新聞「ガーディアン」の音楽編集長が率いるチームに参加する機会があった。彼女の考える、話すと編集するスピードに度肝を抜かれた。強行スケジュールである。まず、金曜、アーティストが到着する前に取材を行い、土曜までに翻訳と執筆、直ちにデザインと印刷に入る。日曜日の朝、刷り上がったジン200部を折って参加者に配るという。午後6時、締め切りの直前、編集長が私の記事に「楽しめること請け合い」とタイトルをつけたが、エッセンスが捉えられていないと感じ、「無限のリズム実験」に変えた。このとき、横浜のジャズ喫茶「マシュマロ」のマスターの言葉を思い出した。「自分のアルバムには、いつも自分で言葉を付ける必要がある。あなたより知ることはいないから」
その記者会見は戸惑う時期に至ったが、私はジャーナリズムには様々なタイプがあるということがじわじわと分かってきた。直近、ガーディアンとの体験はパーソナルな文章に自信をつけてくれて、自分が見た、聞いた直接的な観察に通じて、自分なりの文章を築いていく。大手出版社が書けるものは限られ、話題は今起こっていることと関連せざるを得ない。しかし、個人的な文章は、締め切りがなく、何もかも書ける自由が与えてくる。
今まで、プロが書いた文章の方が優れていると思っていたが、ぼんやりとしていたフォーブスのライターの言葉が少しずつ身に沁みてきた。ライティング自体だけでなく、己の殻を破ろうとする行動が、文章に影響を与える。私はプロを志すより、日々、文章の上達を目指していきたい。アマチュアは心の底から駆り立てくれ、熱情こそが文章の真髄のではないだろうか。
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