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劇場版ガンダムSEED FREEDOM観てきて思うこと

20年近く待ってほんとに出るとは思わなかったし、こんな凄まじい映画になるとは思ってなかった

そんなわけで珍しく2回も観てきた、劇場版ガンダムSEED FREEDOMについて思ったことをつらつらと書いていこうと思います。

まずは上映されたことに感謝

これに尽きますね。いやほんとにホッとした。
無印もDestinyもリアルタイムで観てきて、プラモも数えきれないほど作ってきて、
当時のアニメ雑誌の表紙を、白服を纏ったキラに「映画化決定!!!」の文字を見た時は心底驚きました。
あれから月日が流れて、頓挫した話も聞いたりしましたが
なんとか形になって全国のスクリーンで上映されて。
どんな内容であったとしても、ひとまず世に出たことを本当に嬉しく思いました。

まぁその内容が本当に予想だにしないハチャメチャ映画だったんですが…

コーディネイター、アコード、”機能”に先鋭化する人類について

SEED FREEDOMはテレビ放映後20年近く経過して発表された作品ですが、
この映画は「記念作品」ではなくれっきとした「続編」でした。
記念作品は、「当時のファンを楽しませるファンサービス」が主となると自分は考えるのですが、
SEED FREEDOMはそれだけで終わらなかった、と自分は思っています。
そう思うのは、
「当時から描いていたテーマを、現代においても地続きで真摯に向き合い続けた」
からなんだと。

ガンダムSEEDは、旧人類ナチュラルと遺伝子操作により誕生した新人類コーディネイターによる「人種による対立、差別」を根幹としています。
この二つが何を以てして別れるのかというと、優れた「能力」の有無でした。
頭がいい、スポーツが上手い、体が丈夫…
これらを先天的に持って生まれたのがコーディネイター、
そしてその「能力を把握して適材適所に配置して世界を上手く回そう」
というのが、前作で提示されたデスティニープランでした。

そして今作では、このディスティニープランを実証するため、
そのために生まれた子供たち「アコード」が登場するわけです。

その性質上、彼らの集団はコーディネイターから更にエスカレートしていて
「自分たちは〇〇をするために生まれた、そうでなければ生きている意味がない」
という、人間を”機能”という観点でしか見ていない、極端な思考に陥っているわけです。
与えられた機能、役割が果たせていなければ失敗作、存在そのものが認められない。
多くの人が指摘していますが、これはディスティニープランないしコーディネイターの発生から始まる問題の行き着く先なのだと思います。

そもそも、アコードという存在が登場しなくとも、
コーディネイターが「ナチュラルよりも能力が優れている」という線引きで差別をしている以上
内部でもいずれ絶対似たような問題が起きていたはずなんですよ。
なぜならコーディネイターの中でも能力の優劣が存在するから。

長年のSEEDファンなら説明不要かと思いますが、
外伝作品に登場するキャラクターで「イライジャ・キール」という男がいます。
彼はコーディネイターとして生まれたものの、外見以外は能力が一般的なナチュラルと変わらない、
という設定を持っていて、本人も長らくそれをコンプレックスに思っていました。
(彼自身は、努力で能力を磨き上げ様々な経験を経て、コンプレックスに折り合いをつけ元気に傭兵家業をやっています)
SEED本編でも、生まれた子供に対して「目の色が設定と違う!」と激昂する親など、実はコーディネイターは必ずしも目的の能力を持った人間が生まれるわけではないことが提示されています。

「能力が高いことが人間そのものの優劣を決める」という物差しが前提の中、それにあぶれてしまった人がどういう扱いを受けるのか。

更に言うと、その能力の優劣だって一時的、一面的な評価でしかないかもしれません。
不慮の事故などでその能力が発揮できなくなったり、
または、社会自体がその能力を求めなくなることだってあるでしょう。

その能力・役割を果たせなくなった時、そのため「だけ」に生かされている人はどういった末路を辿るのか。
言ってしまえば、映画のランボーなんかもそれに近い話をしてますよね。
ベトナムの英雄は、アメリカに帰れば駐車場の警備の仕事もない。
本作でも、オルフェに「血に染まった手で…」と言われていたように、キラがそれに近い状態になっていたかと思います。

現実でも、ある目的の為だけに人生を捧げていたり
しかもそれが他人に強制され、そうでなくては生きている資格がない、という価値観を植え付けられていることも往々にして見かけることがあります。
苛烈な企業の社員教育だったり、お子さんの受験教育だったり…

なおかつそれが、自分が選んで進んだ結果ではなく、生まれた時点で他人の意思で決められていたものだったとしたら。

これ、単純な綺麗事ってだけじゃなくて、生存戦略の話でもあると思います。
ある目的のために先鋭化して生きることを余儀なくされている人が、その目的を達成できなくなった、そもそも目的自体が無意味になってしまったら
その人は生きている資格がないのか。
何より、その人自身が生きている意味を見出せなくなってしまうのでは。

そんな器用になる必要はないけど、一本の役割に自分の意思無しで全振りするのってかなり怖いことだと思っていて。それが強制的に運命的に行われるとしたら尚更。
その役割が駄目になったからといってその人の生きる存在意義を消してしまうわけにはいかないしあってはならない。それを社会が強いることになりかねないのがデスティニープランだったのかなと。

ラクスが「必要だから愛しているのではありません。愛しているから必要なのです」と言っていたように。
人を機能でしか見なくなると歪なことになるよね…という話なのかなぁと。

それから、キラとラクスが実際にお互いをどう思っていたのか、というのは、そういえば劇中でしっかり描写されてなかったんじゃないか?と思っていて。
実際にお互いのこと同じ目線で大切に思ってると分かったの良かった
終盤のラクス救出時、キラがラクスとイングリットの話聞いてたわけないだろうし
「目が見えなくても声が出せなくても、僕はラクスのすべてを愛してる」ってあれ素で言ったんだよねキラ…

全部合理的なだけで考えてたらあの世界絶対滅ぶしかないだろうし、
それは「それでも」護りたい世界があるんだ、と言い放った無印最終回に帰結するのが綺麗。

その他雑多に思うこと

長くなっちゃった
その他思ったこともう箇条書きレベルで書いてくわ

・2週目して気づいたけど、旧コンパス・オーブ連合軍の反撃作戦がかなり早い段階で始まったのに気づいてびっくりした
 アスランがキラボコしてた辺りはもう作戦中盤ぐらいだし、あのマスドライバーのシーンで飛び立ったのがムウさんとアカツキだったんすね

・ミレニアム強奪シーンの直後に救難船が出てるシーンあったの、すでにオーブ国民の脱出始めてたってことなんだね…
 カガリもうあの時点で戦って国民の被害抑えるために動いてたんだ 再有能候補の一人だろマジで

・これはだいぶオーブ寄りな考えだけど、あの世界マジでほんの一部の善意ある人たちの血反吐はくような尽力のおかげで
ギリ滅亡せずに存続してんだなと…

・アウラの最後の生死について気になって確認してたんだけど、結構生きてるのか死んでるのか微妙なとこな気がする
 1回目見た時は艦橋切り飛ばされてぶっ飛んでった気がしてたけど、
 2回目見返したら艦橋が誘爆するギリギリのところでシーン切り替わったからどっちとも取れるような…

・2週目見返して思うけど、コノエ艦長が核ミサイル看破するタイミングぜってぇおかしいよ!!!?

・ノイマンさんあんだけ操舵面ですさまじい活躍してんのに、本編での発言が3つぐらいしかないことに気づいた
でも活躍に反してノイマンさんの印象に残る台詞って舞い降りる剣の「ダメです!間に合いません!!!」なの凄い歪

・去り際のロマンティクス、当初はどんな辛気臭い話になるのかと思ってたけど 映画観終わった瞬間まるで逆の感想を抱いてしまう
「最後は歌って終わろう!!!みんな愛してるぜーーー!!!!バイバーーーーい!!!!またなーーーー!!!!元気でなーーーーー!!!!!」みたいな感じ
P.A.R.T.Y. ~ユニバーサル・フェスティバルと同じカテゴリになってしまう

いっぱいSEEDの話して満足
今はガンダムSEED FREEDOM ASTRAYがどんな展開になるのかずっと気になっています ロウや劾があの時に何してたのか、ジェスがファウンデーション王国やユーラシア国境線あたりで取材してないかとか…

そんじゃまた

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