見出し画像

【小説】Lost emotion

 仕事を終えて何とか家まで帰ってきた女性は、鍵を閉めると靴を脱がずに玄関で倒れた。これはいつものことで、起き上がるまで入社したての4月は最初は数分だったのに、11月の今ではもう1時間くらいかかっている。

 一人暮らしのため、注意する人も怒る人も居ない。最近は動こうと思う頃には手が氷かと思うくらい冷たくなってしまっている。玄関で凍死してたらネットで笑い者になるだろうか、と先日女性は考えたが、翌日には誰にも知られずに静かに死ぬよりは良いのかもしれないと思い直した。


 女性がなんとなく鞄から携帯を出すとLINEの通知が来ていた。インディーズの頃から応援し、高校生の頃からファンクラブに入っているバンドの公式アカウントからだ。何日かぶりのLINE、通知は100を超えていた。

「【ご報告】2020年3月31日をもちまして現体制での活動を終了する運びとなりました。以降の活動は未定となります。メンバーからのメッセージをお伝えさせていただきます。」

 解散ではない。でも、現体制での活動終了だから、あのメンバーでもうライヴをすることはないということなのだろうか? 女性の疲れた頭は液晶に並んだ文字列を理解することを拒んでいた。4月以前の彼女なら、驚きのあまり泣き出していただろう。

 メンバーからのメッセージを読まずに携帯を置いた。街灯の電気がきれていていつも窓から入ってくる光が入ってきていないが、女性はまったく気がついていない。きっと泥棒が外から見れば留守だと思って入ってくるだろう。 

 女性は社会人になってから全く音楽を聴けていなかった。音楽だけでなく、読書もテレビも何もできていなかった。それよりも、ただただ布団で横になっていたい気持ちが強かったのだ。SNSも全く触っていなかったため何度か学生時代の友人たちから心配のLINEが来ていたが、心配をかけたくないと言う気持ちが強かった彼女は「忙しくて触ってなかったんだ、心配かけてごめんね」と定型文を返していた。


 女性の目からは涙がこぼれていたが、女性はそれが涙だということに全く気がついていない。そもそも自身が現在涙を流していることにも気がついていない。無理もない。女性が最後に心から笑ったのは数か月も前だ。女性の感情はもう、とっくのとうにどこかへ消えてしまった。

 

 どこかの部屋でトイレを流す音が聞こえる。また別の部屋からボイラーの音がする。女性はまだ動けず、静かに横たわっている。そこから少しして部屋の電気つけようと思いたち、立ち上がろうと四つん這いになった刹那、動きは止まってしまった。


「あれ、電気ってどうやってつけるんだっけ?」


いただいたサポートは、他の方のサポートの1部にあてたいと思います。