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与えることは受け取ること、それはもっと深い気づきへの招待だった

わたしは相手から感謝されても、それほど嬉しくなかった

なぜなら、うまくできて当たり前だと自負をもっているからです。
また、『これで大丈夫』という確信があるから。
確信をもてるところまで、やりきったという実感もあり。

感謝することも無かったです。
これは、以前の教えが影響しています。
そこでは「感謝することはありません。感謝し始めたら全てに感謝し続けることになり、朝から晩まで『感謝・感謝の連続』でしょう」
これを聞いてから、とくに感謝しないのが善い、当たり前だと思ってきました。

そんな私でも感謝する時もありました。
宿に出張してリラクゼーション施術をして、その場で代金をいただいたとき。
大晦日に呼ばれて一時間施術して「さぁ帰ろうかな」と思っていると、あと一時間延長してとお客さんから延長のリクエスト。

2時間施術して思わぬ収入で喜んでいると、宿の女将さんから【年越しそば】まで振る舞って頂きとても嬉しかった。
これは感謝しても感謝しきれないレベルのできごとでした。

与えると受け取るは永遠に続く

一回限りのやり取りもあれば、テニスのラリーのように続くものもある。
また個人間だけでなく、susやnoteのようなやり取りもある。

私たちは神からの愛を受け取らずに、自我の作ったこの世にいます。
神の愛をしっかりと受け取ることが、ゆるしであり癒やしであったのに。

神の愛をうけとる。
それが与えることに通じていきます。

神の愛は途切れることがない

その象徴としての太陽だと思っています。
太陽系ぜんたいに、神の愛の象徴である熱を与えている。
太陽の寿命はあと数十億年と言われています。

ひとから見れば無限につづく時間です。
実は人は神の愛を知っており、この暗黒の宇宙を照らしている太陽に置き換えただけでしょうか?

しかし、太陽の熱は燃え尽きるほどで、そばには近寄れません。
神の愛は無限ですが、近寄ることができないとはなりません。

自我は太陽に近づくと、つまり真実に近づくのを恐れています。
自我の正体がバレてしまうから・・・

あなたは、どちらから実行しますか?
与えるほうか
受け取るほうか



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