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語彙力を失ったらオタクはオタクでなくなるのか?

岡田斗司夫にハマっている。

 

うつの休職期間中、氏のYoutubeやニコニコ動画の無料配信ばかり見ていた。

私もそれなりに歴の長いオタクなので、もちろん氏の存在は昔から知ってはいた。

かつてダイコン、ゼネプロ、そしてガイナックスを作ったという、我々80年代生まれの世代からすれば、オタク創世神話の立役者の1人である。

にもかかわらず、氏がオタキングを名乗りテレビに出て福々しい顔で笑っている姿はじつに軽薄に見えていた。私の中では勝手に、『根はビジネス脳の人で、オタクを「だし」に使っている山師のような人なのだろう』と思っていた。

 

しかしその実態は、どちらかというと学者肌で立派な評論家である。知的好奇心の赴くままに行動し、新たな地平を見通す、ある種の現代の賢者である。

…なんていうと私が氏を盲信しているようだが、私が岡田斗司夫に今さら心酔するのは、比較対象として世の中のインフルエンサーを見ているからだ。

 

氏の本を買ってみた。ずいぶん昔の岡田氏の著書『オタク学入門』を読み進めている。(紙の本の香りはいい。しばらく、この良さを忘れていた気がする。)

内容的には、隔世の感がある。1996年時点の本であるから当然だ。氏にとって、2006年に『オタク・イズ・デッド』宣言をする前の、まだまだ『オタクの市民権を得るための闘争』をしなければならなかった時代の文章だ。 当時はまだ、オタク的なサブカルチャーが市民権を得るまでの過渡期だった。だから岡田氏は『これからの社会は、オタクが文化をリードする』という。

1996年の氏は論ずる。

曰く、当時のオタクはその価値観の成熟と知的な探究心により、良いものを見分けて愛好することができた。

そのいっぽうで、グローバリズム的な価値観の多様化を迎えた2000年代の非オタクの若者のボリュームゾーンは、いったい何を楽しめば良いか見失った。『これを追っていれば安心で面白い』…というトレンドを失ってしまった。ゆえに彼らは、本当に良いものを知っているオタク達の後をついてくるしかないだろうというのである。

実際、2000年代以降の潮流はその通りになった気がする。 

とくにこの10年、進撃の巨人があり、君の名はがあり、シン・ゴジラがあり、多数の漫画実写化映画が作られ、そして鬼滅の刃がある。

ボカロP出身のミュージシャンが席巻し、アートはもはやサブカルチャーと切り離すことはできない。

オリンピックのために首相がゲームキャラの格好までした。

岡田氏の予想はおおむね実現化したのではないのか。

 

しかし、それがいいことばかりでもない、と私は思う。

いまや当時的な意味のオタクは絶滅危惧種ではないのだろうか。知的好奇心に突き動かされ、探究心から物事を突き詰め、互いに知識マウントをとりあう。あのオタクたちはどこへ行ったのか。

 

Twitterは毒である。

オタク的なものが溢れ、自称オタクの人間が跳梁跋扈している世界なのだが、そのわりには、あまりにも中身が薄すぎる。

ネタを流して、バズればよし。

気に入ったものがあれば『エモい』『尊い』『(語彙力)』といって評論することを拒絶する。

炎上や論争は絶えないが、その末に、なにか建設的な結論がでた試しはない。

そこには知性も探究心もない。他人にうまいものをあてがわれて『うまい』というだけの人間がグルメと言えるか。美食家と言えるか。

 

1996年的な意味で、『オタクとは知性と探究心のある存在だ』と定義してしまうと、自ら探究を放棄する人間に知性はなく、オタクではないことになる。

そうなると、『語彙力のないオタク』というのは矛盾した存在である。

自分が語彙力のないオタクだと告白する人は、すなわちオタクではないと宣言しているようなものである。

 

今の私はというと、べつにそういう人を貶める気はない。

大事なのは、そういう人達が結局ボリュームゾーンにいて、経済を支えていて、今のインフルエンサーと呼ばれる人々はそれを食い物にしようと考えているだけに過ぎず、炎上などで注目を浴びるための燃料資源にくらいにしか思っていないことを認識して、うまく生きていくことだろう。

 

とはいえ、一つの生き方として、知的好奇心をくすぐるものを探し続けることが人生を豊かにするのは疑いがないだろう。これはトレンドに左右されることのない事実だと思う。

そういう意味で、いまの岡田斗司夫氏のスタンスはさすがの立ち回りと言わざるをえない。

だから目下、もっとも信頼のおける評論家として彼を見てしまうのだ。

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