宝石の国12巻『約束』の例のシーンについての考察

※この記事は宝石の国12巻のネタバレを含みます。

11月22日、宝石の国12巻がついに発売された。2年以上待たされたが、フォスがたっっっっっっっぷり味わった孤独に比べればなんてことはない。早速購入。

まあ内容はちょくちょく更新されていた電子版を読んで知ってるからパラパラ読んで、あとは四コマでも楽しもうかなー…とか思っていたら、ちょっと信じられないものを見てしまった。

第93話『約束』。フォスとシンシャの戦いの決着、そしてお別れが描かれている、これが最終回と言っても過言ではないほど重い回。途中までは自分が知っている内容とまるで変わらなかったのだが、シンシャと別れた後で明らかな変化があった。

私が読んだときは、先生の部屋に着く前にフォスは昔ここを走っていた誰かを思い出して『可愛いね』と、ほんの少し笑みを浮かべていた。だが単行本ではフォスはその誰かを見ることもなく、地面に落ちたタンポポの種を踏みつけて、『何か思いだせそうだったのに』と、何も思うことなく先生の部屋にたどり着いてしまったのだ。

原作で唯一の癒しのシーンだったのに。なぜ、なぜこんな酷いことを。

色々考えた結果、二つの考えに落ち着いた。

一つは12巻の表紙を剥がした時に思いついた。いつもならそこには、白粉も服も剥がされた生身の宝石が映っているのに、12巻には誰もいなかった。フォスの身体さえだ。これはつまり、フォスは唯一残っていた身体さえ、シンシャとの激戦で失ったということだろう。

今の彼にはもうフォスのパーツは残っていない。だから、昔あの廊下を走っていた『誰か』を思い出すなんてことはありえない。市川春子先生は後からそう思い直し、このページを描き変えたのかもしれない。

もう一つの考えを思いついたのは94話『金剛』のエクメアとの戦闘時に言った、『幸福』『幸福が欲しい』の文字と吹き出しが本誌掲載時よりもかなり大きくなっていたことに気づいた時だ。

昔のフォスは幸福だった。確かに300年間何もできず、役立たずの立場によって生じる劣等感と孤独、そして脆弱な身体に不釣り合いな承認欲求に苦しめられてはいたけど、仲間と先生が常に一緒にいた。

その頃を思い出したフォスは、心から幸福のみを願うだろうか?自分にもなんだかんだ良いことはあったのだからと、今あるものだけで充分だと、そんな諦めに満ちた心に落ち着いて何も求めなくなってしまうのではないか?

だから『何も思い出さなかった』シーンに変わった。思い出したフォスはきっと、幸福を願わずにそのまま動かなくなってしまうと、市川春子先生はそう思ったから。

私の考えはこの二つである。読んだ人によって解釈は色々変わるだろうけど、どちらにせよ何かしら深い意味がある変更には違いないだろうと、私は思う。


個人的にはフォスが光に向かって走っていくあのシーンは大のお気に入りだったので、できれば変えて欲しくなかったがまあ仕方ない。さすがに原作者の選択に、私が口出しはできないし。

ここまでは『なぜ変更されたか』の考察だった。ここからはあのシーンが何を意味しているのかを考察する。

ふわりと、空を舞いながらやってくるタンポポはおそらく『記憶』の暗喩。そのタンポポを『フォスが踏み潰した』のはおそらく、『ここを走っていた誰かの記憶はフォス自身が潰したよ』という暗喩だろう。他の誰でもなく、自分で踏みつけ粉々にしたと。

えぐい。市川春子先生よ、あまりにもエグくないか。別に粉々にしたくてしたわけじゃ…ああでもかつての仲間を粉々にしたのはフォス自身だから、彼らとの友情と記憶を自分で粉々にしたとも言えるのか。いやでもあんな目にあったら復讐したくなるのもしょうがないじゃん…。

書き出すと止まらなくなるので、愚痴はここまでにする。ともかくあのタンポポはきっとそういうことだ。

ここからはただの予想だが、あのタンポポが踏み潰された位置は、1話『フォスフォヒライト』で金剛先生がフーッと、フォスの頭からタンポポを飛ばした位置と一緒なのではないか。

金剛先生が送り出したタンポポが、300年と少し経って帰ってきた。つまりあのタンポポは『記憶』の暗喩であるとともに、『旅の始まりと終わり』を意味しているのだ。

長い長い旅の終わり。普通ならここからエンディングだが、そこはさすがの宝石の国、そこから10000年たった一人で地上に放置という地獄につながった。

もう元の身体が一つも残っていない彼にとっての『幸福』とは何か。彼に救いはあるのか。『もうちょっとだけ続くんじゃ』ってこれ以上何するつもりなんですか?

不安と期待で胸がいっぱいである。なんにせよ、続きが待ち遠しいね。

余談。10000年の孤独の終わり、97話『夢』では、神に生まれ変わったフォスのそばにタンポポが咲いている。このことからタンポポは、『脆弱な種からの再誕』の暗喩でもあるとも考えられる。
市川春子先生、タンポポに意味こめすぎである。

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