蛇行や屈曲は対話の証

ひきつづき、『数学の贈り物』をちびちびと読んでいる。

今日読んだ「まっすぐ」という章の一説が、刺さった。


山に入ると、どこにもまっすぐな線は見当たらない。・・・蛇行や屈曲は生き物と環境との対話の証だ。

どうも僕は直線を引こうとする嫌いがある。気がする。

学校全体の研修会を企画した時もそう。

「全員参加を強制してください」と管理職に訴えた。

全員参加という「直線」。

結局参加したのは毎回専任教職員の7割程度だった。


教科会議で「作家の時間」導入を訴えた時もそう。

「年間を通してやる」「生徒が書くジャンルや内容に縛りはかけない」と主張した。

結果として、「作家の時間」は書く文章のジャンルを固定した「ジャンル学習」から始めることにしたので、「直線」ではなくなった。

これによって会議は無理なく通ったが、僕の中には「こんなふうに妥協していいのか?」というしこりが残っていた。


でも、森田氏の言うとおり、直線をひけるってことは対話していないってことだよね。

僕に信念があるように、相手にも信念がある。

それなのに僕の目指す「直線」を引けるのだとしたら、それは相手を尊重していないということだ。

そう思うと、蛇行や屈曲って恐れるものではないですね。

それは相手を尊重して一緒に何かを作り上げている証拠だ。

そんな風に考えると、もっと肩の力を抜いて意見の異なる人と対話することができるなぁ。


これはとてもありがたい学びをいただいた。

肝に銘じておこう。





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