選択も失敗もない「幸せ」な世界
今日は息子と公園へ。
道々、『ギヴァー』について考えた。
僕には息子が2人いる。
これは『ギヴァー』の世界にはありえない。
ひとつの「家族ユニット」に子どもは男女ひとりずつと決まっているからだ。
例外はない。
下の息子(2歳)は、今日はネイビーの靴を嫌がって黄緑色のスニーカーを履いた。
これは『ギヴァー』の世界にはありえない。
色というものが存在しないからだ。
上の息子(5歳)は公園まで自転車に乗って行った。
これは『ギヴァー』の世界にはありえない。
自転車を与えられるのは「9歳の儀式」の日と決められているからだ。
彼らは人々の行動範囲を管理するために、移動の自由を認めていない。
5歳児が公然と自転車を乗り回している姿は、『ギヴァー』の世界では見られない。
『ギヴァー』は近未来SF小説である。
この物語世界では、人々は「コミュニティ」の中で“幸せ”に暮らしている。
秩序が極限にまで重視されたコミュニティにおいて、人々は予定調和の中で穏やかな毎日を送っている。
誰も不満など抱いていない、幸せな暮らしである。
誰と誰が家族になるかは、“長老会”が決める。
誰が何の仕事に就くかも、“長老会“が決める。
極めて慎重に、思慮深く。
選択がない代わりに、失敗もない。
この社会は、きっと「成熟」の行き着く先なのだろう。
コミュニティの住人は、失敗から学び、「成熟」してきた。
痛みのない世界、不幸のない世界を実現すべく、秩序を整えてきた。
『ギヴァー』に描かれるのはそういう世界だ。
そういう世界って味気ないよね。
失敗してこそ人間だよね。
というメッセージを読み取ってこの本を閉じるのは
しっくりこない。
そら、色彩豊かな世界の方が美しい。
そら、想定外のことも起こる劇的な人生には心惹かれる。
痛みも悲しみも、人生のスパイスさ。
って、でもそれはその後にハッピーエンドが待ってたからこそ、後になって言えるわけで。
そのままバッドエンドを迎えたり、目の当たりにした人からすれば、
「同じ轍は踏むまい」と思うのは至極当然でしょう。
「同じ轍は踏むまい」を繰り返し続けた結果生まれたのが
『ギヴァー』のコミュニティなのではないかな。
選択も失敗もない”幸せ“な世界を、
「つまらない」と一蹴することは容易い。
でも、「失敗から”正しく“学ぶ」って、なかなか難しいよね。
年配の方がよく言いますよね。
「俺らが若いころはいい時代やった。おおらかやった」って。
今は「あれもダメ。これもダメ」になっていて窮屈だと。
でもそれって、失敗から学んだ結果ですよね。
悲劇を繰り返さないように、という誠実な反省の結果ですよね。
その「悲劇」の被害者の前でも、同じことが言えるのか?
教師の体罰に傷ついて自ら命を絶った人の遺族の前でも
「昔やったらこんな生意気な生徒ボコボコやったけどなぁ」と
過去を懐かしむ目で言えるのか。
良い方向へと軌道修正することを「学び」と呼ぶならば、
何をもって「良い方向」とするかをこそ、
最大のエネルギーを割いて議論し続けないと。