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子供の自然体験と教育と資本主義

友人の子供たちに、里山のツアーを行った後に、友人から(子供達のお母さん)お金を受け取りました。それを子供たちが見た際「なんでまっつんは、お金を受け取ってるの?」と聞きました。いままで、お金のやり取りがない中で遊んでいたり、ボランティアしていたからでしょう。うまく答えられなかったんですが、この疑問って大事だなって思います。

ここからはまっつんの仕事になるから、しっかりお金を払おうという友人の気持ちは、子供達に分からなくてよくて、もしどの子供も、自然体験ってお金がかかるから、お金払うの当然だよねって思ってたら、ちょっと気持ち悪いなっておもいました。

なんで気持ち悪いって思ったんでしょうか?本音は、自分のツアーが高く売れたら、正直うれしいですし、価値に見合うぐらいのサービスを作っていると思ってはいます。また、自然体験の市場が成長して、自分のツアーが高い価格で沢山の人に売れて、自分の暮らしが豊かになって、生きやすくなったら、それはいいです。でも、何か見落としてると思います。

そもそもなぜ自分が自然体験や、プログラムを行っているかというと、子供たちに自然のなかで遊ぶことや、知識を身に着けてほしいし、友達と普通に里山に来てほしいからです。そのためには、自然と関わってほしいし、自然を守ってほしいし、自然を大切に思ってほしいと思っています。

資本主義の市場の中に自然体験を完全に組み込んで、自然体験を高価なお金で買うことを、子供たちに理解して、受け入れてほしい、自然体験や自然は、消費するものだと思ってほしいわけではありません。どちらかというと、創造者、生産者になってほしい、自分でDIYしてどんどん遊んでほしいと思っているからパーマカルチャー※1をやっているのです。

今まで、子供1000円、大人2000円で行っていた自然体験を、少人数向けに形を変えてそれでも、2人や3人では、やるだけ赤字の1600円、2500円程度に上げた時ですら、今まで来てくれていたお客さんで来てくれる人は一人もいませんでした。逆に大人でも子供でも、初回のデモとして、1000円に下げた時に新たに来る人はおり、少し寂しくなったことを覚えています。

コロナだから控えている、とかならいいんですが、自然体験自体にそこまで価値を見いだせないということでも、地方で暮らす家族が来たいけれどもそこまでの負担ができないということでも、どちらであってもただ単に悲しいなと思いました。それは、そこにフェアな対価、お互いがお互いのニーズを満たせる金額でサービスが存在して、支払う能力もあるという世界ではないからです。

できれば、どんな境遇の子でもなんらかの形で、自然に関われるような世界であって欲しいなという想いは当然ありますが、なぜそうならないのでしょうか?

現代は、日経新聞でK字の傷※2といわれるような時代です。資本の資本による増殖が加速しながら、きちんと機能していることの表れで、持つものはますます富み、持たざる者はより貧しく奪われることが、多くの国でそうなっているということが言われています。貨幣には、価値の保存、価値の尺度のほかに、自己増殖という厄介な機能※3もあるので、フェアなシステムではないのは、もはや自明のことですが、その中で生きていかなければなりません。先人は、貧困と教育についてどのように考えていたのでしょうか?

灰谷健次郎の『兎の眼』※4 の中で、医者の娘さんの先生がヨットで休暇に行っている時に、ごみの処分場に住む子供たちは、ネズミを追いかけるのに、目を輝かせ、ハエをペットにしています。そんな背景が描かれますが、まさに今言われているような、富めるものと、貧しいものの、分断の世界ですね。

戦争中に良心に従い、また不幸も重なり、父母を無くした孫をを育てる、貧しい祖父が、この子がもし山や川に行っていたら、普通の子供のように魚や犬、猫を愛でていたのだろうに、そうすることもできなかったから、ハエをペットにするしかなかったのだ、ということを先生に伝える場面があります。

この場面は、商業的な自然の切り取り方をして、市場を作ることに、ずっと違和感を持ちながらも、言葉にできなかった自分にとって、大きなものでした。『兎の目』では物語はそこで終わらず、どこにでも身近な自然が存在していることを見つけ、自然の中から問いを立て、社会的な意義のあることを見出そうという、先生の子供の好奇心に寄り添う態度が、子供や地域にとって、意義のある学びや、発見に繋がる形で物語が展開してゆきます。

具体的には、先生が子供達の暮らす場所に行き、子供達の好奇心に寄り添い、一見触りたくもないようなハエについて触れ、理解して、地域の人にとってもその子の好奇心は大切なものであると伝えてゆく過程が描かれます。今も、昔も分断があることは事実ですが、そのことによって人はどう生きるかまで、社会に決められていないということを、作者は大切にしているように感じました。

今の社会や自然体験を取り巻く環境、資本主義の社会がまだ完全に分断されてもいないし、かと言って分断がないわけでもない、過渡期だからこそ、葛藤しているんでしょう。

前述したように、自分の生活を満たすニーズを作りつつ、来たい人が来れるというバランスは崩れかけています。子供達の自然体験や、パーマカルチャーの生き方を担いたいという人自身の、身の回りのニーズが満たされないという話は、沢山あります。幸せのドーナッツ化現象※5

自らの身の回りのニーズを損なわず、『兎の目』の作者が書き記したことを、きちんと受け取って、時代をひらいていきたいなと思っていますし、みんなでどうにかできないか、考えたいなと思っています。

もし本気で何か変えられないか、一緒に考えてくれる人がいたらぜひ一緒に行動しましょう。ぼくもまだ行動しきれていない段階です。お気軽に感想、メッセージ下さい。

参考文献等

※1「消費者」から「文化の創造者になろう」パーマカルチャークラウドファンディングhttps://motion-gallery.net/projects/TUPcrowdfunding2

※2日経新聞パクスなき世界世界裂く「K」字の傷https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL0169D0R00C21A2000000/

※3見田宗輔『現代社会の存立構造』筑摩書房、1977

※4灰谷健次郎『兎の眼』角川書店、1998

※5幸せのドーナッツ化現象

https://greenz.jp/2018/07/10/nao_column02/

フリーランス、専業で活動していますが、パーマカルチャーの記事、書き物等、基本的に無料で公開しています。仕事に充てられる時間を削って執筆しているので、もし、活動に心を動かされた方がいたら、1000円から7000円のスケール型のドネーションでご支援いただけたらとても嬉しいです。