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経験を伴う形で民主主義を学ぶこと

自由学園について、いつも語るときはこのように語る。「中学生の時のクラスをイメージしてもらって、そのクラスが一クラスでクラス替えなしで、中学、高校と続くイメージで、そこでいろんなことが起こります。」という形で語るようにしてきた。

「自由学園はどういうところか」ということよりも「自由学園の中で生きることはどういうことか」ということについて語ったほうが、卒業した身としては誠実な語り方になるように思えたからだ。

中学の時のクラスというと、どの人の経験にもあるように、理系にとがっていたり、ゲームが好きだったり、スポーツがうまかったり、本ばっかり読んでいたり、美術にとがっていたり、そこまで目立たないけど友達が多かったりと多様な人がいる。

自分の視点であるが、自由学園の運営する制度の中には、民主主義の理念が根底に流れていて、それがお互いを知り合えるスケールで機能しているようにおもう。制度でいえば、顔や人となりを知る関係性の中に、選挙制度があり、いわゆる多数決のようなものより、一人一人の声を聞く理念が強い形で体現されているようにおもう。

どのようにお互いがお互いのことを知るかというと、30分、40分全員の前で先生や生徒が自分の自由に話す時間が毎日礼拝という形であることや(礼拝というが中にはスラムダンクの絵を黒板に大きく書いて主人公について話す人もいる時代だった)毎週ある習字、校舎や校庭、寮の自治の運営のために日々互いの自由な意見、業務的な報告、物事の感想を聞く機会は日常になっている。

また食事も3食中学1年生から高校3年生までの世代の中で大きなテーブルを囲んで食べる。そしてネックなのが、そのような関係性のなかで、一人一票持つ選挙制度があり、その結果によって、学校と寮が運営される。

制度は、そのようなもので、その中に冒頭で述べたような30人程度のコミュニティがあり、それが6年間続く。登山や体操会、部活、日々の授業をはじめ、それに伴って人間関係も展開し、そこに対する感情は、肯定と否定、没頭と無関心、友情と対立など様々な反応が生まれる。

自由学園の生活を真摯に取り組みたいという人もいるし、大学受験をしっかりしたい人や美大に行きたいという人もいる。そういった多様な感情やニーズを持つ人が、寮生活や同じクラスで6年間という、近い環境で共に生きることをするから、分かり合えないことやぶつかること、お互いの間での発言の影響力や、力関係の強さが違うことや、損を引く役割が、一人の人に集中することなんかも当然起こるし、それはすごく自然なことだと思う。

学校の役割を、いい大学に行く場所、学力を身につける場所だという目的にとどめて、それぞれの教師や、生徒たちが自らのアイディンテディを自覚するならば、そのことに対して、教師や教育委員会を責任の所在におき、それぞれの問題に対して、学力を身につける目的を、全員が果たせるような解決策やとるだろう。

しかし、自由学園は、生活がそのまま学びであるということ、生徒の自治を重んじる場所であるという伝統がある。つまり、生徒がみずから社会を作るシステムになっている。あなたたちはこの学校を良くするために入学を許されたという言葉があり、そのアイディンテディが強烈に存在する。

例えば、いじめの問題やクラス内の力関係は、世間でもよく取沙汰されるし、むしろそういった問題は社会や世界にはむき出しの形で存在する。懇談という場がカリキュラム内にあり、クラス内の問題が話される場だ。

その場は、授業なので当たり前に全員席に着く。時代の影響や個人の家庭や家族とつながった形でそれぞれの人が存在するのだから、当たり前のことなのだが、そういった問題をみんなで話し合っても、きれいな形で解決する力を、中学生では持っていないし、何が正解もわからないことが多い。 

抑圧されている人、抑圧している人がいて、同じ席について、自分はこのことについて、こう思うという話をする場がある。抑圧されている側が話をするのは大変なことだったし、うまく話せなかったり表現することができなかった人も多い。

それでも自分のクラスでは、それぞれの個性や主張が激しく(なのでいじめられてる側もいじめてる側も結構話したし、関係性の変化も激しかった)対立や関係性が先鋭化することが多く、そういう場が多かったし、あいつがこんなことを話してたなとか、僕自身がこんなことを話したとか、先生や上級生がこんなアプローチをしてくれたなというのは、なんとなく今でも覚えている。

いじめという現象を取り出して、議題にあげることはできるが、クラス内の関係性、例えば、誰と誰が仲がよくて、あいつはこういうことが得意でこういう仲間といたい、ということや力関係が本質的に変わることはないから、わかりやすく解決される問題よりも、そうでない問題の方が多かったように思う。

中学の初めの頃から、高校3年生になって新入生を迎える側に立つ時には、学校や寮のコミュニティの運営をしっかりしたい人と、関心がない人、普通に大学受験をしたい人がいるような環境だと、本当に何が正解かよくわからなくなってくる。グリーンズの取材記事で語られていることばで、よくこの言葉を引っ張り出してきたなと思ったが、高橋学園長が引用している、羽仁吉一の語るこのような言葉がある。

われわれはよい社会を創造(つく)り得るという自信と希望を、その体験を通して被教育者に与えること。そのことのみが、変遷しつつある社会に、もっと有力なるものとして、かれらを生かしめ得る唯一の方法である。

学校の中の小さな社会、同級生とのコミュニティを自分たちの手でよくできるかどうかは、相互影響されるものであるので、わかりやすい失敗に終わる可能性にも、開かれているが、その経験を通してしか、おそらくその自信と希望を概念でない形で経験を通してしか、学ぶことができないのだと思う。

そういう形で語られることは少ないが、自由学園の特に中学高校の6年間は、自分たちの手で民主主義の理念が通底した社会を作るプロセスが存在し、先生という役割の大人や先輩、また多様な同級生と、6年間の歴史を共に生きるなかで学ぶという経験をした。

民主主義は、最悪な政治体制と言えるから始まる有名な言葉があるが、実体験として、そのしんどさや痛みを伴って、何が最悪と言われているか感じる経験はなかなかできないように思う。多くの人が、概念として学んだことがらであるだろうし、それを体現して教えてくれる人、ましてや自分たちの経験から学びとるという機会は、なかなかないだろう。

卒業した人たちが、その中で学んだことや、その後の人生で選んだものは違えど、意見や趣味嗜好、生き方の合わない多様なクラスメイトと、お互いの事を様々な角度で知りながら、ひとつの社会を作る経験をする場所であった事は、共通しているのではないだろうか。

クラスで問題や課題をともに取り上げて認識し、皆が解決できるかわからないまま、人の意見を聞き、共有し、発言する時間を全員で共にした経験であり、そのことはそこで生きた自分にとって、多様な人と共に生きる社会を作ることができるのではないかという希望を抱く上で、強く価値の見出せる事であると思っている。

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