相手を何とかしなきゃ、コントロールしようとするから怒りになる

療育から完全に離れて8ヶ月ぐらいになるけど、巡り合う人や来る話は途切れない。これはもう自分が呼んでいるのか?
同業者に知り合い多いからか。


前の職場の上司や仕事でやりとりした教員、その他仕事で関わった人たちを思い出す機会があった。
そしてこないだ同業者の友だちから仕事の話を聞きながら思ったことは、「相手の状況を客観的に見て課題や対策は思いつく。それを自分の正義感やら使命感とかで何とかしなきゃ!相手を変えていかなくては!と躍起になってしまうから、それで相手が思い通りにいかない時に自分の怒りに変わる」んだよね、ということをはたと思いついた(遅い)
身勝手な思い込みだったと思う。


ここでも自分と他者との境界線が無かったんだろうと思う。
自分の思い通りにいかない時に「なんでこの人はこういう物言いをするのかな?」とかいちいち憤っていたけど、それがその人だからしょうがないしどうしようもないのだ。
それに対してやきもきする時間がまー多かった。
今考えたら本当にくだらないことに時間を割いていた。
割り切るのが下手だったんだと思う。いや、今もまだ未熟かもしれない。


よそはよそ、うちはうち精神。
これがほんとうに社会を生きるにはあったほうがいい技術。


あとピンときてない、困ってない人に問題提起してもただのヤジになる。
子どもが困ってるパターンがほとんどだけど、それは親御さんに伝えていくのが仕事。
課題や対応方法を思いついていて躍起になってしまうけど、寝耳に水の情報は親として聞かされても困ると思う。
関係性や伝え方を誤ると「◯◯って言われた!」となりがちだけど、この客観的に観た情報を「早く伝えたい」と思う自分にも奢りがあったり、自分の気持ちに自制が効かなかったんだなぁ、と今になって反省。


「待つ」って一番むづかしい。
けど待って見守ったため発達した子を何人も見てきたのだ。
大人だって同じだよなぁ。自分もそうだった。
生活年齢と発達年齢は比例しないことを身を以て知ったくせに。


人が発達するには安心・受容・傾聴だ。
困ったときや間違ったときに一緒に考える頼れる人がそばにいればいい。
しつけや指導はほぼいらない。
大怪我に繋がらない程度に彼らの挑戦を見守る。


まだまだ知ることはいっぱいあるな。




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