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【発達障害主婦】発達障害者ですが何も才能はありません

じぶんが発達障害だと言うと、「絵を描いたりするの?」と言われるときがある。

発達障害で才能のあるアーティストやミュージシャンなどがよくメディアで取り上げられるようになったからだろう。「発達障害=芸術的な何かに秀でている」というイメージが最近世間にあるように思う。

私が思うに、彼らは発達障害者だからすごい才能を持っているのではなく、すごい才能を持った人にたまたま発達障害があった、ということだと思う。

若くして発達障害と診断されて、のびのびと得意なものを伸ばす教育を受けられる人は幸いだ。大人になるまで障害に気づかれず、クラスのみんなと同じを強要され、何もうまくできずに罵声を浴びせられ続けてきた私のような者には、取り立てて特技はない。

とにかく周りと同じようにできること、同じように振舞えることを目指して努力してきたから(そして失敗し続けた)、それ以上のことは考えたこともなかった。

みんなと同じができず、失敗体験だけを積み重ねてきた結果、周りよりほんの少し劣った人間が出来上がった。それが私だ。

私の学校生活はものすごく辛かった。幸いなことに、いじめられた経験はないが、聴覚過敏がひどかったせいで周囲の声や楽器の音が辛くてたまらず、体育の授業では何もまともにできず皆に笑われ、先生にはまじめにやれと怒鳴られ、授業中はじっとしていられず教室を飛び出すこともあった。協調性がないといつも先生に指摘された。私の一言で授業がめちゃめちゃになったこともあった。私のこういう性質に配慮してもらえていたら、若かりしあの頃を、どれだけのびのびと心安らかに過ごすことができただろうか。

周りと同じようにできることに必死にならず、自分の個性を伸ばす方向に舵を切れていたら、今ごろ何かを得ていたのではないか。そんな不毛なことを考えたりもする。情けないなぁ。

「発達障害なら何かしらの才能があるはずだ」という周囲の期待はけっこう辛いものだ。もちろん、大人になってなにか得意なもの、熱中できるものに出会える人もいっぱいいる。私自身も「私にもなにか今まで思いもよらなかった才能が眠っているんじゃないか」などと自分に期待をしてしまう時がある。早く何かを見つけなければ、と焦ってしまう。これはちょっと辛い。

パラリンピックを見ていると、本当に感動する。この人たちは大きな障害を抱えながら、私には想像もできないような努力をどれほどたくさん積み重ねてこられたのだろう、と心から尊敬する。

ただ、こういうスポットライトの当たらない場所で、世の中の大半の障害者が、特別な技術や才能を持たず、前を向いたり後ろを向いたりしながら、地味で静かな毎日を暮らしているんだろうな、とも思う。まさに私のように。

私にスポットライトが当たることは一生ないだろう。でも、今日はご飯が作れたといって喜び、今日はちょっと自然に振舞えたんじゃないかといって喜び、今日も一日体調を壊さず無事に過ごせたといって喜ぶ。なにより、今日一日生きたことに満足する。そんな生き方でいい。

何も才能がなくてもいい。自分に期待しない。がっかりもしない。毎日の暮らしの中で、人にわざわざ言わないけれど多くのしんどさを抱えながらも、小さな楽しみを見つけながら、地味に生きていこう。それが私の生き方。それでいいんだよ。

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