「君と私の、七日間。」第2話

 その日、家に帰り、諸々を済ませてあとは寝るだけという状態になって、あかりは海が言っていたように、【魔王】と【救世主】が望めば知ることできる〈情報〉を知ろうとしてみることにした。
 ベッドに腰を下ろし、なんとなく居住まいを正して、目を閉じる。
 【魔王】と【救世主】にまつわる、知ることのできる全てを知りたいと思っているわけではない。やはり今でも、深く考えるのを怖いと思う気持ちはある。ただ、海に比べて、自分はあまりにも知識が足りない状態だと感じたのは確かだった。そんな状態では、海の開示する事柄に対して、何を言うこともできない気がした――何かを言わなければならないというわけでもないのだろうが。
(【魔王】と【救世主】の仕組み、か……)
 海の言い回しを思い出す。その言い回しがしっくりくるほどに、あかりと海に否応なくさだめられた【魔王】と【救世主】という役割、そしてそれにまつわる状況は、どこかシステマチックな印象だった。
(私たちの前の【魔王】と【救世主】は、どういう人たちだったんだろう)
 そう考えたのは、思考としては自然な流れだった。深く何かを思ってのことではなく、ただ単純に気になっただけの。
 けれど、それが引き金だった。
 奔流のような〈情報〉が、一瞬であかりの意識を飲み込んでいく。
 ――それは、一代前の、【魔王】と【救世主】の〈七日間〉だった。

(その日はいつも通りと言ってもいい、なんの変哲もない日だった)
(学校行って授業受けて部活して帰って、ハルと宿題やって、合間にゲームして)
(そんな普通の一日が過ぎて、日付が変わった、その瞬間)
(非日常が、降ってきた)

 あかりの前の【救世主】から見た〈七日間〉。
 超常的な物事になんて縁のない、普通の、どこにでもいる学生だった『坂上(さかがみ)春人(はると)』と『神原(かんばら)陽(よう)』。
 【魔王】と【救世主】という役割が付加される前はただの幼馴染でしかなかった二人は、世界の命運を背負った〈七日間〉、運命を受け入れた者と、運命に抗うことを選んだ者として、何度もぶつかり合った。

(殺したくなんてない、死なせたくなんてない)
(なのにハルは簡単な、当たり前のことを言うみたいに、殺せって言う)
(【救世主】として、【魔王】を殺せって言う)
(〈声〉が降ってきたときは俺と同じように戸惑ってたのに)
(たった一晩で、覚悟を決めてしまったみたいな顔をして)

 【魔王】となった坂上春人は、海と同じように早々に【魔王】として世界を滅ぼさないために死ぬことを許容してしまった。対して【救世主】となった神原陽は、【魔王】を殺す運命を認めたくなくて、『坂上春人』という人間を喪いたくなくて、どうにかして辿り着く結末を避けようとしたけれど。

(ひとりにしないって、決めたのに、思ったのに)
(おじさんとおばさんとナツが死んで、ひとりぼっちになっても泣けもしなかったハルを)
(泣けよって、泣けばいいだろって、泣いて喚いた俺に、お前が泣くからそれでいいって言ったハルを)
(ひとりになるのがダメなくせに、ダメになったくせに、何でもない顔をしてみせるバカなハルを)
(……自分のためには泣けなくて、うまく人にも頼れないなら)
(せめて俺だけは近くに居続けようって、思ってたのに)

 どんなに【魔王】と【救世主】の間にあるルールをさらっても、世界と個人を天秤にかける、その大前提を崩す術は見つからなかった。
 故に、『【魔王】は【救世主】に【刻印】を傷つけられない限り死なない』、『七日目が終わるまでに【魔王】が死ななければ世界は滅ぶ』――そのルールが、神原陽に坂上春人を殺さないという選択肢を選ばせてはくれなかった。
 もし、【魔王】としての坂上春人を殺さずに世界が滅んだとしたら、『坂上春人』はその世界にひとり残されることになるから。
 世界なんて大きすぎるもののことはうまく想像できなくても、幼馴染の行き着く未来――それだけはダメだと思い続けていた未来になってしまうことは、想像できてしまったから。
 殺さなければいけない。死なせなければいけない。
 理解していても、最終日である七日目まで踏ん切りをつけられなかった【救世主】に、【魔王】はそうなることなんてわかっていたと告げて――【魔王】と【救世主】のルールを逆手にとって、死を選んだ。
 【魔王】は【救世主】に殺されない限り死なない。どんなに致死を免れないような状況に陥っても、何らかの奇跡的な偶然が作用して傷つくことすらない。――けれど、それは【救世主】がその状況に絡んでいなければの話だった。
 過去の【魔王】と【救世主】の関わりからそれに気付いた坂上春人は、【救世主】の絡んだ致死的な状況を作り上げて――直接的に神原陽が彼を傷つけずに済むようにして、死んだ。世界から、消えた。
 世界の命運をかけた七日間に【魔王】が死ぬと、その存在の消失は、そのときではないいつかに起こったことになる。
 『【魔王】と【救世主】にまつわる物事について、他者に関わりを持たせることはできない』――そのルールが適応され、世界がつじつまを合わせて、世界の命運をかけて【魔王】として死んだのではなく、かつてどこかで自然の成り行きで死んだことになったり、元からいなかったことになる。
 坂上春人の場合は、彼以外の家族が死んだ事故で共に命を落としたことになった。
 『滅びずに継続した世界において、【救世主】は人間に戻る』――〈七日間〉にまつわる何もかもがなかったことになった世界で、【救世主】でなくなった神原陽は、〈七日間〉の記憶も、あったはずの坂上春人と過ごした時間の記憶も無くして、ただの人間として生きていくことになった。
 〈七日間〉の苦悩も、喪うことへの嘆きも悲しみも、何もかもを忘却させられて。

 ――世界が滅びることなく継続するのなら、それが自分の行き着く先なのだと、その予感だけがあかりにとって確かだった。

  *

 二日後の金曜日の放課後。当番を代わってほしいと言われて(これはよくあることだった)、あかりはまた第一図書室に居た。
 先日と同じく、人の気配はない。物思いに耽るには適した環境だったので、やはりどうしても頭の中を占める【魔王】と【救世主】について考え――ようとして、あかりは廊下から聞こえてくる足音に気が付いた。
 第二図書室に比べて利用者が格段に少ないとはいえ、主に自習などの目的で第一図書室を選ぶ生徒はいる。その類いかと思い、さりげなく扉を注視していたあかりは、足音が一端止まり、そして開かれた扉の先にいた人物に目を瞬いた。
「……ああ、よかった。相模さんがいる場所、ここしか思いつかなくて」
「志筑くん……?」
 入室前に何気なく図書室内を確認して、カウンター越しにあかりの目の前に立って。それから言葉を発したのは、海だった。
 海とは、一昨日にこの第一図書室で顔を合わせてから、接触することはなかった。いくら『【魔王】と【救世主】にまつわる物事について、他者に関わりを持たせることはできない』というルールがあるとはいえ、それがどの程度の接触にまで適応されるかはわからない。常に耳目を集める海に、あえて近づく選択肢をあかりはとれなかったし、とろうとも思わなかった。そして海も、いたずらにあかりに近づくような素振りはとらなかった。――そう、まるで【魔王】と【救世主】なんてつながりができてしまったのが、夢かと思うほどに。
 けれど、現実に海はここに現れたし、その上あかりを探していたような口ぶりでもあった。人の居ないことを確認したようでもあったので、あかりは海の用事とは何なのかと訝しく思う。
 それが視線にでも表れていたのか、海は言葉にしていないあかりの疑問に答えるように口を開いた。
「――この間は驚かせてしまったから。今日は、普通に来たんだ。人もいないみたいでよかった」
 確かに、今日は――今日も、この第一図書室にはあかり以外居ない。けれどそれを入室後わずかな時間で感じ取れるのなら、海は人の気配に敏いのかもしれない、とあかりは思った。それは常に耳目を集めている身だからなのか、それとも、先日過剰に驚いてしまったあかりを気遣って、手っ取り早い手段を使わずにあかりを探した、その優しさに由来するものか――。
「それで、俺が相模さんを探していた理由なんだけど」
 続けられた海の言葉で、ぼんやりと広がったあかりの思考は断ち切られた。
「う、……うん。わざわざ、どうしたの?」
 本当に何の用事があるのか見当がつかず、あかりは首を傾げた。
(【魔王】と【救世主】にまつわる事柄なら、全部土曜日に持ち越すんだと思ってたんだけど……)
 ――結果的に、そのあかりの推測は、一部合っていたが、一部間違っていた。
「待ち合わせの話を、していなかったなと思って」
「……え?」
「土曜日のこと。何時に、どこで、待ち合わせるか、決めてなかったなって。うっかりしてた」
 あかりは先日海と顔を合わせた時のことを思い出し、確かに、土曜日に会おうという申し出に頷いただけだったことに気付いた。
「ご、ごめん。私も全然気付いてなかった……」
「いや、言い出したのは俺だから。相模さんが謝ることはないよ。……それで、あんまり早い時間でもなんだから――」
 言われた時間を、あかりは慌ててスケジュール帳にメモする。それを見た海が「ごめん、配慮が足りなかった」と言うのに、気遣いすぎでは、と思いながら、待ち合わせ場所もメモしようと海に訊ねる。
「場所は?」
「相模さんの家の近くに大きめの公園があるよね。そこでいいかな」
「わかった」
 頷いてメモをしてから、遅れて不思議に思う。
(……相模くんって、どの辺りに住んでるんだろう? 近所じゃないのは確かだけど……)
 あかりの家の周辺の地理を知っている様子だが、海が近所に住んでいるのでないことは、中学の校区が違ったため確実である。
 しかし疑問を抱いても、余程でなければ思い切って訊けないのがあかりだった。親しい相手ならば別だが、海がその枠に入っていないのは自明の理だ。【魔王】と【救世主】に関わることはともかく、この件について訊ねるまでの勇気は湧かなかった。
(どうして私ってこうなんだろう……)
 交友範囲が狭いのも、他者と関わるための積極性に乏しいのも、基本的に問題には思わないが、内向的過ぎる気性をどうなのだろうと思うだけの意識はあった。こういうふうに、言葉を飲み込むときくらいのものだったが。
「……? どうかした? 相模さん」
「……う、ううん、なんでもない」
「そういう感じじゃないけど……。あ、もしかして、俺が家を知ってたから、不安になった? ええと、ストーカーとかじゃないから安心してほしい」
 海が、おおむねは合っているが一部だけあまりにも思いもしないことを言ったので、あかりの自己嫌悪に沈みかかっていた思考は吹き飛ばされた。
「え、いや、そういう心配はしてないよ……!」
「そっか。よかった。さすがに同級生にストーカーと思われたらショックだから」
 そう言って僅かに苦笑する海が、どこまでわかっていて先の発言をしたのかはわからなかったが、あかりとしては有り難かった。あかりは自己嫌悪の残滓を振り切って口を開く。
「……志筑くん、うちの近所に住んでるわけじゃないよね? どうして公園がわかったのかなって」
「そっち方面に用事があって行ったときに、その公園のそばを通りがかったことがあって。そのとき相模さんを見かけたから、きっと近所に住んでるんだと思って」
「えっ……」
 確かに、あかりはその公園に散歩がてら訪れることがあった。季節の花など植えられていて、適度に木陰などがあり、気分を変えてちょっと外を楽しみたいときに適しているのだった。
(公園に行くなら休日だから、志筑くんが何かの用事のついでに通りがかるのに重なる可能性はあるけど……そんな偶然、ある?)
 実際、『そんな偶然』があってしまった故の海の言葉なのだが、まさかの偶然すぎる。
「……ああ、でも一応すり合わせしておいた方がいいね。お互いが思ってる公園が違ってたら惨事だし」
 そうして海がスマホで出した地図を見せられ、間違いなく己の家の最寄りの公園だということを確認して、あかりは何となく複雑な気分になったのだった。

  *

 翌日――海の指定した土曜日。あかりは何となく緊張しながら家を出た。
 【魔王】と【救世主】に関わる事柄についての話があると確定しているのだ。緊張してしまうのは当然だったが、よくよく考えると、あかりにとって異性と休日に会うということ自体が初めてで、もしかしてこの緊張はそれに起因するところがあるのでは、と思って、状況のわりにそんなことを気にしてしまう己にあかりは少しばかり落ち込んだ。
 ともあれ、待ち合わせ時間より早めに到着した公園で適当に時間を潰していると、ほどなくして海が現れた。待ち合わせ時間よりも十分ほど早く、海は時間にきっちりした人なのだろうとあかりはぼんやり思う。
「おはよう、相模さん。待たせたみたいで、ごめん」
「お、おはよう、志筑くん。さっき来たところだから、気にしないで」
「それならいいけど……。それじゃ、行こうか」
 促され、公園を出て歩き出す。しばらく無言の道行が続いたが、さすがに気になってあかりは口を開いた。
「……あの、どこに、行くの?」
 そこでようやく、海はあかりに何の説明もしていないことを思い出したようだった。もしかすると海はちょっと天然なところがあるのかもしれない、とあかりが思ったのも仕方ないことだっただろう。
「とりあえず、花屋かな」
 海の口にした内容に、あかりは目を瞬いた。
「志筑くんが言ってた用事って、お花屋さんに行くことだったの?」
「いや。用事を済ませるのに、花が必要だから」
 一応『どこに行くのか』の答えではあったものの、結局肝心なところは何もわからない返答だった。しかしそれ以上問いを重ねることもできずに、あかりはまた黙々と、海の後をついて歩くことに専念することになった。
 途中にあった花屋に寄って花束を買った海は、今度はバス停に向かった。しばらく待ってやって来たバスに乗り込む前に、「相模さんの分は俺が払うから」とだけ言って、一人用の座席に座ってしまった。あかりは迷って、少しだけ離れた、海の様子がうかがいやすい席に座ることにした。
 することもないので、海の買った花束について考える。手慣れた風に店員さんに注文していたところから見ると、海の言う『用事』は何度も繰り返しているものなのかもしれない。一般的に花束というのは誰かに渡すためのものだろうから、これから誰かに会いにいくのだろうか、と思うものの、それが誰かというのはさっぱり予想がつかないし、いくら海がマイペースな性格のようだからと言って、事前の説明も無しに誰かに会わせようとするとも考え難かった。思考に詰まったあかりは、結局答えを模索するのを諦めた。
 そうしていくつかのバス停を通り過ぎ、あかりに馴染みのない地名ばかりになったころ、海が停車ボタンを押した。停車するバス停の名前を見ても、やはりあかりに覚えはない。迷いのなさに、この辺りが海の地元なのか、それとも通い慣れた道なのか、と考えはするが、やはり訊ねる勇気は出なかった。立ち上がった海に続いてバスから降りる。
 そこは街中の様相とは違い、落ち着いた自然が見受けられる場所だった。住宅の姿もあまりない。
 あかりが下りるのを待って歩き出した海はやはり無言のままで、この沈黙にそわそわしてしまうのはあかりだけのようだった。
 それは多分、あかりがわからないことだらけの状態だからなのだろう。こうして異性と歩くのに慣れていないことも要因としてあるのは否定できなかったが、何をするためにどこに向かっているのかを知らずに、ただ他人についていくということが、思ったよりも落ち着きを無くさせるということをあかりは知った。
 やがて、辿り着いた――海が足を踏み入れた場所に、あかりは息を呑む。
 そこは、墓地だった。
 慣れた足取りで海は歩を進める。数秒立ち止まってしまったあかりも、その後を早足で追いかけた。
(ここは墓地で、志筑くんが向かっていたのはここで。……言っていた『用事』がここに来ることで、花束はそのためのものなら……)
 それはあまりにも、率直に訊ねるには踏み込んだ事柄だった。けれどその内容が、「何故そんなにも簡単に【魔王】の運命を受け入れられるのか」と問うたあかりへの答えにも繋がるのだろうと察せられたから、あかりはただ海の後を追う。
 そうして、ついにひとつの墓碑の前で立ち止まった海は、あかりを見ないままに口を開いた。
「相模さんは、俺がどうして【魔王】として死ぬ運命を受け入れられるのかと訊いたけど――これが、答えだよ」
 海が墓碑を撫ぜた。いとおしむような仕草だった。
「相模さん、俺はね、――ずっと、死に場所を探してたんだ」
 『志筑家之墓』と彫り込まれたそれを前に、海はようやくあかりに向き直る。
「少し昔の話をしようか。面白い話ではないけれど」
 「まぁ、そんなことは言わなくてももう察してるよね」と海は独り言ちるように呟いた。
「俺の家族は、もう全員、ここに眠っている。父さんと、母さんと、妹と。俺だけを残して、みんな一緒にいなくなってしまった。それが三年前だ」
 不自然なほどに、乾いた声音だった。何の感情ものっていない、平坦に過ぎる声。
「その日は前々から家族で出かける予定だった。うちは家族仲がよかったから、それが面倒だということもなくて、俺はいつものように楽しみにしていたんだけど、あとは出発するだけ、というときになって、俺を訪ねてクラスメイトがやってきた。その理由は、まぁいわゆる――告白というもので、こういうのもなんだけど、俺にとってそういうのは珍しくなかった。俺の顔が、けっこう女子に好かれるものだというのは、嫌でも自覚することだったし。よくあることだったけど、その子は別に俺と親しかったわけでもないし、話した記憶もないくらいの子だった。気持ちに応える気はなかったから、それなりに穏便に済ませて帰ってもらった。そうして予定より遅く出かけた先で――事故に、遭った」
 そこでまた、海はあかりから視線を外し、墓碑を見つめた。
「事故の瞬間のことは、正直よく覚えていない。そういうのは珍しくないことなんだと、医師から聞いた。後から教えてもらった話だと、運転手が心臓発作を起こした車に突っ込まれたらしかった。俺が助かったのは、本当に奇跡のようなものだったんだって」
 その『奇跡』に、海が感謝の気持ちを抱いていないということは、口振りから伝わってきた。あかりは何を言うこともできず、ただ海の話に耳を傾けるしかできない。
「誰が悪いのかと言ったら、誰が悪いとも言い切れないものなんだろうと思う。世間的には突っ込んできた側の運転手が悪いことになったけれど、事故に遭ったのはあまり車の通らない道だった。ほんの少しそこを通りかかる時間がずれていれば、その運転手も加害者にはならなかっただろうね。……誰もが少しずつ関わって、その結果二台の車が衝突する事故になった。それだけなんだろう。悪い意味ので偶然が、重なってしまっただけ。……だけど俺は、思わずにいられなかった。俺のせいだって」
 そこに悔恨が滲んでいれば、あるいはあかりは安心できたかもしれない。けれど、どこまでも海の声音は変わらなかった。話始めたときと――もっと言えば初めて言葉を交わしたときと変わらない、変わらなさすぎるままだった。
「俺のせいで出発が遅れなければ、事故に遭うことはなかったはずだと、何度も思った。でも時間は戻らない。あの出発の日の朝には戻らない。ひとりだけ残されたことがつらくて、ひとりで生きていくのはつらくて、でも自殺はできなかった。俺は、俺の家族が、ひとり残った俺のことを恨むなんてことをしないのを知っていたから。ひとりだけでも助かったことを喜んで、天国なんてものがあるなら、そこでお土産話を楽しみにするような、そんな家族だと知っていたから。……それでも、俺は死にたかったんだ――ひとり、おめおめと生き残った自分が許せなかった」
 息苦しい、とあかりは思った。平坦で、淡々としていて、何の感情ものらない声音と口調で、だけれど海の語りは奔流のようだった。あかりはただ、流され、溺れるしかできない。
「……だから、〈声〉が聞こえて、〈作り変え〉られて、自分が【魔王】になったのだと自覚したとき、俺はこれで死ねるんだと思った。自殺じゃない方法で、意味のある死を迎えられるんだと思った。家族のところに、ようやく行けるんだって。――俺たちより前の、【魔王】と【救世主】については、もう知った?」
 問いを向けられて、あかりはなんとか頷いた。ぎこちないあかりの素振りにも頓着せずに、海は「それならわかると思うけど」と話を続ける。
「【救世主】の手で【刻印】を傷つけられた【魔王】は、そのせいでいなくなったんじゃなく、もっと前からいなかったことになる。ちょうど一代前の【魔王】は、俺と同じで事故で家族を失くしてたけど、彼と同じように、多分俺も、家族がいなくなる原因になった事故で死んだことになるんだと思う」
 自分たちより前の【魔王】と【救世主】はどんな人たちだったのか――そう意識を向けた結果、湧き出た〈情報〉にほとんど飲み込まれるようにして一通りさらうことになった、一代前の【魔王】と【救世主】の記憶。
 世界の命運が決まった後、【救世主】から【魔王】の記憶は失われ、【魔王】となった人物がその〈七日間〉まで生きていたという痕跡はどこにも残らなかった。数年前にあった事故で一家全員が亡くなったことになり、それ以降の【救世主】となった彼との関わりもなかったことになった。海が言っているのは、そのことだろう。
 奇妙なほどに似通う部分が存在する【魔王】の過去。思考。結論。それは本当に偶然なんだろうか、とあかりはふいに思う。あまりにできすぎているのではないか、と。
 そんなあかりの思考を知る由もない海は、まるで諭すように、当たり前の理論を説くように、言った。
「だから、相模さんは――【救世主】は、本当は何も思い悩む必要もないし、俺の事情を考えることもない。だって『無かったことになる』んだから。こうして俺と話したことも、【救世主】だったことも。最初に言った通り、俺は【魔王】として死ぬことを受け容れてる。望んでいると言ってもいい。だから、相模さんは、ただ少し、俺の【刻印】を傷つけてくれるだけでいいんだ」
 その、海の言葉に対して。世界を滅ぼすことを選べない以上、あかりは反論する言葉を持たない。――持たない、はずだった。感情という一点を除いて。
「……っそんな、ふうに、」
 気付けば、あかりは口を開いていた。考える前に言葉を発していた。
「そんなふうに割り切れるものだったら、私も――前の【救世主】も、苦しむことなんてなかったよ……!」
 ああ、これはほとんどは自分の言葉じゃないのだ、とあかりは吐き出してしまってから気付いた。今までの【救世主】――全てを忘れさせられる前の【救世主】たちが、皆思ったことだった。
 泣けたらどんなにか楽だろう、と思うほど、これまでの【救世主】の思いが己の中から湧き出てくる。けれどそれは結局己のものではないから、ただ苦しいだけで、泣くこともできない。
 あかりの投げつけた言葉に、僅かに目を見開いた海は、しかしすぐに平静を取り戻したらしかった。それがまた、あかりの癇に障る。
「……そうだね、ごめん」
 ごめんなんてそんな言葉で宥められる思いなんかじゃない、と思ったけれど、湧きあがった自分のものでない激情はあかりがそれを知覚するとともに瞬く間に沈静してしまったので、口に出すことはできなかった。
 代わりに、疑問をひとつ、投げかける。
「……〈七日間〉の最終日まで待って欲しい、って言ったのは、どうして?」
 海の話からは、この〈七日間〉――一週間の最終日まで待って欲しいと告げた本意は読み取れなかった。もしかしたら、そこに僅かでも生きる時間を延ばしたいといった気持ちが無意識下にあったのでは、と思いたかったのかもしれない。
 けれど、あかりのその淡い希望じみた思考は、あっさりと打ち砕かれた。
「月命日が、最終日だったから。俺がいなくなったら、もう月ごとに参るような人もいないんだなって思ったら、なんとなく、最後にちゃんと参りたいと思って」
 海の声音にも、表情にも、自らの命を惜しむようなそぶりは全くなくて、それはやはり【救世主】という立場からすれば有難いことなのだろうと思ったけれど、どうしても遣る瀬無さを拭い去ることはできなかった。


第3話


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