「君と私の、七日間。」第3話

 結局その後は互いに何を言うこともなく、海の先導で待ち合わせした公園まで戻って別れた。遅ればせながら、同級生にでも見咎められてしまったらどうすればいいだろう、と思ったが、おそらく【魔王】と【救世主】にまつわる事柄として誰にも関知されずに終わるのだろうという気がした。
  そうして翌週、拍子抜けするほどにいつも通りの学校生活の中で、改めて思い知る。――元々あるべきかたちを。
(普通にしてれば、志筑くんと関わることって、本当になかったんだ……)
 海から近づいてこなければ、――近づいてくる理由がなければ、全くと言っていいほど無い関わり。
 本来、関わることのない相手だったのだ――【魔王】と【救世主】として、対の存在にならなければ。
 墓碑の前で海が語った内容は、あかりにとって縁遠い、衝撃的な内容で、飲み込みにくいものでもあった。あかりは自分が平々凡々に、波風のない日常を過ごしてきたことを自覚しているし、身近な人間が死んだ経験もなかった。けれど海が【魔王】であり、そうして世界を滅ぼさないために死ぬことを望んでいるのなら、あかりが彼を殺すしかないのだ。――その覚悟が、あかりにはまだないとしても。
「ぶつかるよ、相模さん」
 声がして、はっと意識が戻る。眼前に手があった。その手の向こうには掲示板があって、それが見慣れた第一図書室横のものだと知れた。当番のために向かっていたのは覚えているが、いつの間にここまで来ていたのだろう、とあかりは思う。そのままぼんやりと、引っ込められた手を辿って、そこにいるのが海だと認識する。
 瞬間、身構えてしまったのは、あの土曜日以来、顔を合わせていなかったのだから仕方のないところだった
 あかりの緊張に気付かなかったわけではないだろうが、海はそれには言及せず、「ぼうっと歩いていると危ないよ」だけ言った。それはその通りだったので、あかりも頷いて「うん、気を付ける」と返す。
「あ……、志筑くん、血が出てる、よ」
 海の手の甲に赤が滲んでるのに気付いて、あかりは言った。海は気付いていなかったようで、首を傾げる。
「……?」
「そこ、手の甲。掲示板、画鋲出てるから、掠ったのかも……。保健室行った方がいいんじゃ、」
 促したあかりに、海はほんの一瞬考え込むような間を置いて――それから首を振った。
「……いや、いいよ」
「そ、そう。……えっと、じゃあ、絆創膏、いる?」
「別に、いいのに」
 言いながらも、海はあかりの差し出した絆創膏を受け取った。短く礼を告げた海に、あかりは違和感を覚えながらも、何かがおかしいと感じる、その理由にまでは思い至らなかった。
「志筑くんは、どうしてここに?」
 第一図書室に用事があって来たのか、と思ったけれど、海の返答がそれを否定する。
「机の調子が悪くて。交換するのにこっちに来たら、相模さんがふらふら歩いてるのを見かけたから」
 旧校舎には空き教室が幾つかある。そのうちのひとつが、予備の机や椅子の置き場になっているのはあかりも知っていた。そしてそれが、第一図書室より手前にあることも。
 言外に当初の目的地を逸れて追いかけてきたのだと告げられて、あかりは申し訳ない気持ちになった。
「机の調子が悪いって、ガタガタするとか?」
「そう。あと少しの付き合いだから、替えなくてもいいかなと思ったんだけど、周りが気にするから」
 瞬間、あかりは冷や水を浴びせられたような心地になった。きっと、海自身は深い意図などなく――海がいなくなることを知っているあかり相手だからこそ、そう口にしたのだろうけれど。
 墓碑の前で湧き上がったのと同じ、自分のものだけでない衝動が喉元にまでせり上がって、けれどあかりはそれをすんでのところで抑え込んで、飲み込んで、ただ「……そうなんだ」とだけ告げた。
「相模さんはカウンター当番だよね。引き留めて、ごめん」
「ううん、元はと言えばぼうっと歩いてた私が悪かったから、……声、かけてくれてありがとう」
「お礼言われるほどのことじゃないよ。それじゃ」
「うん、それじゃあね」
 親しく挨拶を交わす仲でもないので、そんな簡素なやりとりで別れ、あかりは改めて目前の第一図書室へと足を向けた。

 ――だから、あかりが背を向けた後、海が無言で己の手に走る傷を見下ろし、そうして原因となった場所に目を向け、何かに得心が行ったかのように小さく頷いたことを、知る由もなかった。

  *

 そうして――そうして何事もなく日常は過ぎ。迎えた、迎えてしまった〈七日間〉の最終日。あかりは学校を休んだ。いつも通り学校に行って、授業を受ける、そんな気持ちになれなかったのだ。今更じわじわと、自分が海を殺さなくてはいけないのだという現実がのしかかってくるようだった。
 休むことに対して親が何と言うか、と気がかりではあったけれど、うまい言い訳を考えるだけの気力もなかった。どうにでもなれ、と半ばやけになっていたあかりは、けれど拍子抜けさせられた。家族は休むあかりに何も言わなかったのだ。――これが【魔王】と【救世主】にまつわることだからか、と理解する。そういえば一代前の【魔王】と【救世主】のときも、殺す殺さないで揉めて学校を休んでいたが、同じように何もないように振る舞われたのだという記憶が浮かんできた。
(なんだか、こわい……けど、ちょうどいい、んだろうな)
 あかりはぼんやりと思って、どうしようもない現実に思考を向ける。
 海は【魔王】として死ぬことに納得している。過去、【魔王】が死んだ後の世界は、【魔王】に選ばれた人間がいなかったものとして処理されていた。海と同じような境遇だった一代前の【魔王】のことを考えれば、海の言ったように、三年前の、海の家族が亡くなった事故で共に死んだことになるのだろう。
 そうしてそうなれば、あかりはこの〈七日間〉の記憶を失い、何もなかったように日常に戻ることになる。こうして悩んだこともなかったことになる。
(だから、迷うこともないし、悩むこともない――ただ【救世主】として、世界を滅ぼさないための行動をとればいい……)
 それは、理屈ではわかっていることだった。それこそ、【救世主】になってしまったその日から、世界を滅ぼさないために選べる選択肢はひとつしかなかった。
(だからって、割り切れるものじゃない――私より前の、【救世主】達だってそうだった。悩んで、嘆いて、抗おうとして……でも、ダメだった。世界を滅ぼさない方法が、他になかったから)
 とてもとても簡単な、【救世主】が【魔王】を殺す方法。たった髪一筋ほど、【刻印】に傷をつければそれでおしまい。
 少しでもそれを為しやすいように――そんな意図さえ感じられるような、条件付けされた状況下で、それでも歴代の【救世主】はためらってきた。それは、【救世主】という役割が付加されるより前に、普遍的な――『命は大事なもの』『人はひとりひとりかけがえのない存在』――そんな価値観が備わるように育ってきたからで。
 そうして【魔王】も、同じ価値観の下、己の命より多数の命を、世界の存続を選んで【救世主】に殺せと言った。
 それが繰り返されてきたのだと、浮かぶ過去の【救世主】達の記憶が告げる。
(だけど、それは、――あんまりにも偏ってる)
 海と、一代前の【魔王】の境遇のような近似がいつもあったわけではない。けれど、【魔王】の結論と、【魔王】と【救世主】の七日間の結末が、同じであり続ける――それはどれほどの確率だろう。普遍的な価値観に基づいてのこととはいえ、人ひとりの命を亡くすということをたった七日間で誰しもが受け入れられるとはあかりには思えなかった。
 ぐるぐると終わりのない思考の迷路にはまり込むうち、随分と時間が経っていたようだった。空腹すら感じなかったために気付かなかったが、既に夜も更けていたのだと気付く。
 決断の時を先送りにしたかったがゆえの逃避じみた思考だったと、誰に言われずともわかっていた。
 時計の短針がついに11の文字を通り過ぎたとき、ふいに声がした。この部屋で聞くはずのない、そうしてこの〈七日間〉でどこか耳慣れてしまった、声が。
「相模さん」
 ああ、来てしまった、とあかりは思う。来ないはずがなかった。彼は、終わりを――自身の死を望んでいるのだから。
 あかりはのろのろと顔を上げる。いつかの第一図書室でのことを再現するように、忽然と現れた海がそこにいた。
「もう、時間がないよ、相模さん。〈七日目〉が終わってしまう」
 淡々と。それでいて、いっそ優しげに。残酷な選択を迫る言葉を、海は口にする。
 対するあかりは、体を丸めて耳をふさいで首を振って、何もかもを拒否したい気持ちになる。そんなことは出来ないのだと知っていながら。
 身を縮こまらせて動けないでいるあかりに、海はほんの少し首をかしげて、困ったように口端を下げた。
「難しいことじゃない。最初からわかってたはずだ。相模さんがそんなふうにためらってしまう理由もわかるけど……」
「――っ、し、づきくんには、――【魔王】には! 【救世主】の気持ちはわからないよ……!」
 諭すように告げられた内容に、思わず顔を上げたあかりは小さく叫ぶ。けれど海は変わらずほんの少し困ったような顔のままだった。
「……そうだね。俺は【魔王】だから、本当の意味で【救世主】の立場は、気持ちはわからない。だけど、これ以外の結末を、選び取る理由も意志も――俺にも、相模さんにだって、無いはずだよ」
 その言葉に、反射的に何かを言いたくなる。だけど何も言えない。言えるわけがない――すべて、正論なのだから。
(こんなの馬鹿げてる。出来の悪いファンタジーみたいな、悪夢みたいな、そんな出来事がどうして現実に起こるの。なんで私と志筑くんだったの。こんな、悪趣味な――)
 今更だった。今更、あかりはこの理不尽な運命を、ずっと認めたくなかったのだと、だからこそ目を逸らして、思考を深めずにいてしまったのだと自覚した。
 ゆっくりとあかりの目の前に膝をついた海が、はっきりと口元に笑みを浮かべる。この七日間で目にした中で、最も優しさに満ちた笑みを。
「――ほら、俺たちの〈七日間〉を終わらせよう?」
 【刻印】はここだよ、と左腕の袖をまくって、海は手首にあらわれたそれを指し示した。とても優しい声だった。毒のように甘く優しい声音だった。絶望しか感じさせないその声に、けれどあかりは頷くことしか許されていなかった。
 海の言うとおり、あかりだって、それ以外の結末を選び取る理由も意志も、この七日間で持つことなどできなかったのだ。
 手首で光る【刻印】が、電気も点けていない部屋の中、眩しいほどに見えた。
 志筑海という人間と言葉を交わした。たった少しの接触でも伝わってくる、人の好さを知った。過去を――生に執着しない理由を、知ってしまった。
 人ひとりを、この世界から消してしまう。殺してしまう。そのことの重さを考えたとしても、世界と、全人類と天秤にかけて、たったひとりの命など選べない。選べない自分であることだって、本当はどうしようもなくわかっていた。
 だからあかりは、海を――世界を滅ぼす鍵である【魔王】を、殺さなくてはならない。
 あかりの冷えきった指先に海が触れる。ゆっくりと開かれたそこに、細く硬質なものが握らされた。――カッターだ。
 準備してきたんだろうか、と、どこか遠く思う。自分という存在を消すための道具を準備する気持ちはどんなものだろう。あかりには――【救世主】である存在には、一生わからない気持ちだ。
「……ごめん、相模さん」
「……。……どうして、謝るの」
「もっと、相模さんが楽な方法を、……とれたかもしれなかったから」
「そんなの、……ないよ」
 【救世主】が【魔王】を殺す。その方法は、【刻印】を傷つける――それだけしかない。
 他の方法なんてないし、これでも十分、【救世主】にとって楽な方法なのだろう。実際に【救世主】がどう感じるかを別にすれば。
 海はあかりの否定に物言いたげな素振りを見せながらも押し黙った。その様子に、本当に何か他の方法があったのかもしれないと思ったけれど、どちらにしろ詮無いことだ。今、ここで、あかりが選べる選択肢は一つしか存在しないのだから。
 かち、かち、と音を立てながら、カッターの刃をスライドさせる。伸びた刃は月明かりを反射して銀色に煌めいた。
 刃先が震える。カッターを持つ手が、この期に及んで全てを放棄したがっているように、あかりの思い通りにならない。
 けれど、いたずらに〈その時〉を先延ばしにしたって、どうなるものでもないとわかっていたから――あかりは、その刃を海へと近づけた。
 自分がこれから海を殺すのだという現実が悪い夢であればいいと、この期に及んで願いながら――そんなことがあるはずがないということもまた、痛いほど理解していた。
 自分と海が【救世主】と【魔王】になってしまった瞬間から、この結末は避けられないものだったのだ。【魔王】を殺さない選択をし、世界を滅ぼす以外には。
 薄い刃が、海の肌に触れる。【刻印】に触れたその刃を、あと僅かでも引けば、世界の命運は決まる。【魔王】が【救世主】の手で弑されたことによって、世界の存続が選択される。
 迷う余地はない。引き返せもしない。それがわかっていても、あかりの手はそれを拒むように固まったまま動かない。動こうとしない。
 海が、密やかに溜息をついたのがわかった。この期に及んで怖気づく自分に呆れてしまったのかもしれない、と思う。それでもやはり、カッターをこれ以上海の肌に押し付けることも、傷をつけるために引くこともできなかった。
「前の【魔王】が、あの手を使ってなければ、もう少し簡単で、確実だったんだけど」
「……?」
「次の【魔王】にとれる手が減ってしまうけど、仕方ないよね。後になればなるほど、穴が少なくなるのは避けられないものだから」
 あかりには、海が何を言わんとしているのかがわからなかった。ただ、海が次に口にした内容に意表をつかれた。
「相模さん、そのカッター、自分の方に向けてくれる?」
「え……?」
 提案の形をとりながらも、海は自らあかりの手を取って、刃先があかりの方を向くように調整した。そうして、あかりの身体とそのカッターの間に、【刻印】のある手首を置いた。あかりが事態を飲み込めないでいる間に、海はカッターを持ったあかりの手を押して――それはつまり、【刻印】にカッターの刃先が向かうということで――切っ先が、【刻印】に触れ、……薄皮一枚が切れる感触が、あかりの手に伝わった。
「な、……」
  何を、と言う暇はなかった。【刻印】が光を広げ、海を包む込む。それが【魔王】が消滅する前兆なのだと、これまでの【救世主】の記憶からあかりは知っていた。
「ごめんね。……こういうふうに、無理強いするつもりはなかったんだけど」
 海の姿が薄れていく。それはどこまでも静かな、存在の消滅だった。
「志筑くん……!」
 その呼びかけすら、【魔王】の消滅には間に合わなかった。何もなくなった目の前の空間を呆然と見つめるうち、視界がぼやけるのを自覚する。
(泣く資格なんて、ないのに――)
神様なんてものがいるのなら、自分は二度とそれを信じられないだろうとあかりは思った。こんなあっけない終わりを迎えさせる神様なんて、ろくなものじゃない。
 あかりの意思に関係なく、意識が薄れていく。意識が落ちる寸前、あかりは心から、こんな世界を作った神を詰った。それが、【救世主】としての相模あかりの最後だった。

 ◆

「……残念だね、【救世主】。神様なんていないんだよ」
 ひそやかに、そして自虐するように。すべてを見ていた人物は呟く。
「もしそんなものがいるんだったら、とっくの昔に、僕が――」
 続く言葉を、聞く者はいない。何故ならその空間には、他に誰も存在しないからだ。
「世界の命運はさだまった。【魔王】は【救世主】の手によって【刻印】を傷つけられ、存在が消滅した。――少しばかり、邪道な方法だったけれど、それは前も同じだったしね」
 まるで【魔王】が【救世主】を利用して、自殺を図っているような有様だ。そうなってしまう理由も、わかるだけに文句は言えない。
 世界は滅びを回避しようとする。【救世主】と【魔王】の選定が『世界』そのものに組み込まれている以上、そしてそこに手を加えられない以上、仕方のないことだった。
「これでまた一つ、ルールの穴は塞がれる。同じ手を二度許すように、この世界はできていないから」
 そうしていつかの果てに、【魔王】が世界を滅ぼすのだ。そうなるように、ルールを作った。自分の時と同じように。
「早く、僕ごと世界を滅ぼして、誰かが新しい世界を作り上げてくれないかな。――ひとりは寂しすぎるよ。ねぇ、薄情者の【救世主】」
 世界を作った――〈作り変えた〉という意味で【神】と呼ばれるかもしれない、かつての【魔王】は、そう独り言ちた。

  *

 そうしていつかの未来、またしても選ばれた【魔王】は強い決意をもって呟く。

「私の【救世主】に、人殺しなんてさせないわ」

 ――それが、世界を滅ぼすことであると、わかっていて。

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