神隠し、あるいは

cobalt短編小説新人賞にて『もう一歩』だった作品です。

 


……あの子の話が聞きたいのですか。それとも私の話が?

 面白い話ではありませんし――きっと、荒唐無稽な作り話だと思われるのではないかと思いますが……ああ、最初からそれがお望みなのですね。そうですか、『神隠し』ですか。そちらの関係の方なのですね。
 いいでしょう、興味本位でも、結局は戯言と思われるのでも、きっとあの子のことを知る人が増えるのは、悪いことではないでしょうから。


 さて、どこから話しましょうか。あの子の『神隠し』についての話を御所望なのでしたら、そうですね、私とあの子の幼い頃からの方がよいでしょうね。


 あの子と私は、幼馴染でした。あの子の一家が引っ越してきたのは、確か私が三歳の頃だったと記憶しています。さすがに詳しいことは覚えていませんが、初めて会ったあの子は、お母様の足にしがみついて、隠れるようにして私を見ていました。恥ずかしがり屋というのか、引っ込み思案というのか……とても内気な子だったのです。私はどちらかというと活発でしたし、同じ年頃の子どもに興味津々で、お母様から離れず、小さくなって隠れようとするあの子にまとわりついて、ちょっかいを出していたのだとか。
 そのあたりの記憶は曖昧なのですが、根負けしたあの子が戸惑いながらも私と遊ぶことになったので、双方の家族は安心したのだそうです。しつこさに嫌厭されることにならなくてよかったと、成長してから思い出話を聞いて思ったものでした。

 それから、私とあの子は、近所で唯一の同年代として、毎日のように顔を合わせて遊びました。あの子のお母様はいつも家にいらっしゃったので、あの子の家にお邪魔することが多かったように思います。
 内気で引っ込み思案なあの子を、私は弟のようにも思っていました。今思えば、私はあの子に理不尽な面も多々あったと思いますが、幸いにもあの子は私を慕ってくれました。気の強い好奇心旺盛な姉と、気の弱い心優しい弟、そんな感じだっただろうと思います。
 それは数年経って、小学校に上がっても変わりませんでした。私の世界はまだ狭くて、あの子が一番で、それ以外の友達だってできたけれど、それでも一番時間を共にしていたのはあの子でした。

 私とあの子が七つになった夏のことです。二人で、公園で遊んでいました。とても暑い日だったからか、私たち以外に人がいなくて――いえ、いつもであればちらほらと人の姿はあったのです。事実、その日も途中までは他の子どももいました。ただ、ふと、二人だけになった時間があったのです。
 私とあの子は、木陰にあるベンチに座っていました。もうすぐお昼だからそろそろ帰ろうか、とかそんな他愛ないことを話していたかと思います。私よりもあの子の方が日向に近くて、あの子の向こうに見える、強い日差しに照らされた地面が眩しかったのを覚えています。
 その眩しい地面に、ぱっくりと割れるように真っ黒な穴が開きました。私は最初、それを見間違いかと思ったのです。あの子は、背にしたそれに気付いていませんでした。けれど、何度瞬いても、その黒い穴は消えない。それどころか、少しずつ大きく大きくなって、あの子の足元に近づいてきていました。
 何か恐ろしいものが近づいてきているような気がして、私は怖くなりました。そんな私の様子に気付いたあの子は、自分の背後に何があるのかと振り返りました。そして、その真っ黒な穴を見つめて――「呼んでる?」と言いました。
 私は意味が分かりませんでした。ただ、ふらりと足を踏み出したあの子の腕を、気付いたら掴んでいました。行ってはいけない、というような趣旨のことを口走った気もします。子どもの方がそういった超常現象に感応する力があると言いますが、そういうことなのかもしれません。わけがわからなかったけれど、行かせてはならないと強く思っていました。
 あの子は、不思議そうに目を瞬いて、それから「わかった」と頷きました。そうしたら、あの子のすぐ傍まで迫っていた黒い穴が、小さく小さくなって、遠ざかっていったのです。
 「一緒に帰るんだもんね」とあの子は言いました。それと同時に、穴は完全に消えて――何か恐ろしいものの気配は、どこにもなくなりました。私はわけのわからない恐怖や、その恐怖の源が無くなった安堵で、泣きじゃくりました。そんな私の手を引いて、あの子は家に帰りました。
 そんな私たちを迎えたあの子のお母様から、私はあの子と、あの子のお母様の血筋にまつわる話を聞くことになりました。

 『神隠し』に遭いやすい家系……こうして言葉にすると、なんて幻想じみた、それでいて陳腐な響きでしょうか。かろうじて家は続くものの、不可思議な現象によって人が消えてしまう家系。彼らがどこに行ってしまったのか、本当に『神』に選ばれ、呼ばれてしまったのか、そうではないのか、それはわからずとも、自分のことならばわかるのだとあの子のお母様は仰いました。

 ……あの子のお母様のことは? そうですか。それくらいの調べはされていますよね。ええ、あの子のお母様も、同じだったといいます。あの子と同じく、どこからか呼ばれ、招かれる――いえ、これは適切ではありませんね。引きずり込まれる業を背負った方でした。けれど、『神隠し』が珍しくはない家系だからこそ、その対処法もご存じだった。親しい人、特に血縁でない者との繋がりが、『神隠し』への抵抗となるのだと、身をもって知っていらっしゃった。

 船が波に流されないための碇のようなものだと、あの子のお母様は言いました。『船』があの子やお母様、『碇』が私やあの子のお父様なのだと。結びつきの強さ――双方から向ける思いの強さが近く、強いほど、『神隠し』から逃れることができるのだと。
 あの子の『碇』に、その時もっとも適していたのが私でした。『碇』は誰でもなれるわけではない、とあの子のお母様は言いました。心を寄せ合うことが必要な以上、あの子の気持ちが向いている人物でなければならないと。そして幼いあの子が、今もっとも心を向けているのは私で、だから、私の言葉にあの子は応えて、『あちら側』に行かずに済んだのだと。
 まだ幼かった私には、完全な理解はできませんでしたし、あの子のお母様もそれを求めてはいませんでした。ただ、私に、あの子から手を離さないでね、一緒に居てあげてね、と言いました。あの子が何かに、どこかに呼ばれて、『あちら側』に行ってしまいそうになったら、名前を呼んで、引き止めてほしいと。

 あの子もまた『神隠し』の体質であったことは、あの子のお母様にとって少なからず絶望を抱かせたことと思います。
 あの子の誕生日は冬でした。七つまでは神の子、という考え方があるそうですが、それが関係しているのかいないのか、あの子の血筋の『神隠し』は、七つになるまでは起こらないのだそうです。
 七つになったあの子が、冬を越し、春を経て、夏を迎えて、あの子には『神隠し』は起こらないのではないかと、あの子のお母様は思ってしまった。そうであればいいと願っていたのだと、二度目の『神隠し』を逃れた後に聞きました。


 『神隠し』を一度逃れても、一定の間隔をあけて、それは何度も起こるのが通例で――あの子もまた、そうでした。二度目は三年後、私とあの子が十を数えた頃に起こりました。
 一度目と違って、私はあの子のお母様から事情を聞いていましたし、あの子自身もその不可思議な現象と、それに応えたらどうなるかをきちんと理解していました。ですから、二度目は問題なく逃れられました。
 一度目と二度目の間隔が、その後の『神隠し』の現れる――この表現が正しいのかはわかりませんが――間隔の指標になるのだと聞いていましたから、つまりあの子の元には三年間隔で『神隠し』が現れることになるのだと知れました。
 あの子のお母様は五年間隔で、大抵は五年か七年だったそうですから、あの子の頻度は高い方だったようです。

 そうして三度目も問題なくやり過ごし、しばらくは安心だと、何でもない日常を過ごしていけると思っていた矢先、……あの子のお父様が不幸な事故で亡くなりました。
 あの子も、あの子のお母様も、悲しみに沈みました。当然のことでした。それでも、このままではいけないと、自らの力で立ち直られました。私は自分の無力さを歯がゆく思いもしましたが、二人が深い悲しみから立ち直ったことを、ただ素直に歓迎しました。……その先に待つ、避けられない問題があることを失念していたために。

 あの子のお母様の、『神隠し』の周期は五年でした。そしてその時点で、前回の『神隠し』をやり過ごしたのは四年前だった。あの子のお母様の『碇』だったお父様がいなくなって、たった一年で、あの子のお母様は新しい『碇』となり得る人を見つけなければならなかった。だからこそ、悲しみから立ち直られたのでしょう――けれど、新たな『碇』となる人を得るのは、簡単なことではなかった。
 ……ええ、そうです。あの子のお母様は、最後まで諦めることはありませんでした。それでも、『神隠し』が起こってしまえば、お父様のいないあの方に抗う術はなかった。
 あの子では、あの子のお母様を留める『碇』にはなり得ず、新たな『碇』も得ることができずに、……いなくなってしまった。

 それからあの子は、消えてしまったお母様の、姉夫婦に引き取られることになりました。……けれど、家を移ることはなかった。変わらず私の隣家に住んで、変わらず私と同じ学校に通いました。伯母様は日をあけずあの子の様子を見に家に訪れましたが、あの子を手元に引き取るということはありませんでした。

 ……ええ、そうです。伯母様自身はそうではなかったけれど、その血筋の特性は良く知っていらっしゃった。そして今のあの子の『碇』が私であることも、ご存じだった。だからこそ、あの子を私から遠く離れた場所に連れて行くことをしなかった。

 私もそれはわかっていました。あの子をここに留めるのは私の役目だと、そんなことすら思っていました。あの子のお母様に頼まれた七つの日から、私は使命感に酔っていたのかもしれません。愚かな子どもの思い上がりでしたけれど。


 そうしてあの子が十六になった、あの日。私はあの子を引き止めきれずに失いました。
 あの子の心が私から離れて、そうして私が『碇』の役割を果たせなくなったのなら、まだよかった。
 あの子は、私の声が聞こえていたのに、私の手が届いていたのに、「ごめんね」と言い置いて、優しく私の手を外して、自ら『あちら側』に行ってしまった。

 あの子がいなくなった部屋で、あの子がいなくなった空間を、私はただ呆然と見つめるしかできませんでした。何故あの子がそんなことをしたのか、全くわからなかった。そんな素振りはなかったのに、あの子は私を置いて行ってしまった。

 私には、『神隠し』が現れているときの、あの子の感覚がどのようなものか、詳しくは知りませんでした。あの子もあの子のお母様も、それについてはあまり話したがらなかったからです。
 ただ、一度だけあの子が漏らしたことがありました。「すごく必要とされている感じがして、あちら側に行けば満たされるんじゃないかって思わされる」――そういう、抗いがたい魅力を、引力を感じるとのことでした。
 けれど、あの子がその魅力に、引力に、屈したようには見えなかった。一度目のときのような、あちらに応えてしまう危うさはなかった。そのはずなのに、あの子は『あちら側』に行ってしまった。

 何かを察したのか、あの子の伯母様が訪ねて来て、私はようやく正気付きました。あの子が『神隠し』から逃れることなく『あちら側』に行ってしまった――あの子のお母様と同じ道を辿ってしまったことを、悪い夢であればいいと願いながらも、伯母様に伝えました。伯母様は、冷静でした。とうに覚悟をしていたのでしょう。……私に足りていなかった、覚悟を。

 あの子がいなくなった後の全ての処理は、伯母様が済ませてくださいました。あの子の最も近しい身内なのですから、当然のことではありましたが。
 伯母様は、うろたえ、現実を呑み込めないでいる私に、これは避けられないことだったのだと言いました。『神隠し』から幾度逃れたところで、いつかは『神隠し』に攫われてしまうものなのだ、『神隠し』を逃れ続け、『あちら側』に行かずに天寿を全うした者はいないのだから、と。

 それでも私は現実を――あの子が私を置いていった事実を、受け入れきれずにいました。あの子は失踪したということになって、一時期は学校内でも騒がれましたが、周囲の関心も徐々に薄れて行きました。
 あの子の交友関係が希薄であったことも一因だったのでしょう。あの子は、友人関係を築くことに積極的ではありませんでした。……その理由を、私がもっとよく考えていれば、ああはならなかったのかもしれないと、全てを知った後、何度も思いました。


 あの子がいなくなって、一年がたった頃のことです。
 あの子がいなくなってしまった現実を、私は少しずつ受け入れていきました。受け入れざるを得なかった――そうであれば、まだしも救われた。恐ろしいことにそうではなく、時と共に、全ては薄れていくものなのだと、私は思い知ったのです。自分がとても薄情な人間だったのだと、突きつけられるようでした。
 それでも、時間という不可逆の力は、あの子にまつわる全てを、私の中から少しずつ薄れさせていきました。

 あの子がいなくなってすぐの頃は、あの子がいなくなったなんて嘘で、あの子の家の玄関をくぐれば、いつものようにあの子が迎えてくれるのではないかと――そんな愚かな期待をして、あの子の家を訪れました。その度に、あの子が『あちら側』に行ってしまったあの日の出来事が、まぎれもない現実だったのだと、思い知らされるばかりでしたけれど。
 半年も経った頃には、あの子の家を訪れることもしなくなっていましたが、どうしてかその日は、ふとあの子の家に足が向きました。あの子がいるのではないか、などと思ったわけではありませんでした。何度思い返しても、その時の自分がどうしてそんなことをしたのかは思い出せません。
 ただ私は、一年前までしていたように、合鍵を使って扉を開け、あの子と最後に共にいた居間に足を踏み入れました。そうしてそこに、あの子を何度も呼び込もうとした、そしてあの子が通って行ってしまった、『神隠し』の穴がぽっかりと口を開けているのを見ました。
 真っ黒な穴は、まるで私がそれを見つけるのを待っていたように大きく大きく広がって――私を、呑み込みました。


 そこで一度、私の記憶は途切れています。次の記憶は、石造りの牢屋から始まりました。
 その直前の記憶も相当でしたが、目覚めたら牢屋だなんてわけのわからない状況でしたから、私は混乱しました。状況を説明してくれるような人も見当たらず、しっかり錠のされた牢屋から出る術は思いつかず、途方に暮れていた最中、複数の足音が響いてきました。
 どう見ても牢屋に入れられている状態で、そこに現れる人が親切な味方である保証はありませんでしたが、それでも何がしかの情報を得られるのではないかと思った私の前に現れたのは――一年前にいなくなったはずの、あの子でした。
 私を目にしたあの子は、驚愕もあらわに、信じられないと、信じたくないといった様子で、連れ立っていた人物に食ってかかりました。
 あの子と共に現れたのは男と女の二人だったのですが、女の方は男を見るばかりで、こちらに一瞥もくれませんでした。初見でもそれが異常ではないかと感じられるほどに、女は男だけを見つめていました。
 男の方は、あの子の激情を何か面白い見世物のように楽しげにあしらい、「お前ができないなどと駄々を捏ねるから、理由を作ってやったのだ」と言いました。
 あの子はさっと顔色を変えて、私を見ました。その目に怯えが混じっているのに気付いて、これは私の危機なのだと、やっと私は理解しました。

 男は嗜虐に塗れた笑みを浮かべて、「これならお前は、言うことを聞くだろう?」と言いました。私には事情はまったくわかりませんでしたが、あの子が意に染まないことを強いられそうになっていることは理解できました。そしてそれが、私という存在がここにいるからだということも。
 私はあの子に対する『人質』として連れてこられたのだと、後に男の言葉から知りました。

 あの子は、言うことを聞くから私を解放し、元の世界に帰せ、と男に言いました。男は全てが終わった後でないとそれはできない、と返しました。
 あの子が『元の世界』と口にしたことで、私はその場所がいわゆる『異世界』に属する場所なのだと理解しました。『神隠し』の存在を知っていてもなお信じがたい現実でしたが、あの子がそういうのならそうなのだろうと納得もできました。
 あの子は状況の不利をよくわかっていたのでしょう。そこではそれ以上の問答を避けたようでした。せめて私の居住環境の改善を、と男に願いましたが、男はそれも、あの子の働き次第だと言いました。
 あの子は必ず助けるから、と私に言い置いて、男たちと連れ立って引き上げていきました。

 あの子は、私を解放するために何度も男に掛け合ったようでした。けれど実を結ぶことはなく、ただ徐々に、居住環境は改善されていきました。
 あの子の立ち位置も、男と女がどういった人物なのかも、始めは何もわからないまま、私はただ牢屋に閉じ込められる日々が続きました。

 その『異世界』には『魔法』と呼ばれる超常の力があったのですが、それによって私は度々不可思議な眠りにつかされました。
 男の指示であったようですが、その意図するところは、恐らく嫌がらせのようなものだったのでしょう。あるいは趣味の悪い遊びであったのかもしれません。

 ……その眠りの中で、私はあの子の姿を見ました。魔法を使って、家を壊し、城を壊し、街を壊し――たくさんの人を、殺すあの子を。

 あの子をその『異世界』に呼んだのは、初めに牢屋に訪れた女でした。
 女は『異世界』では唯一、界を越えて魔法をふるうことができる存在で――それは本来、その『異世界』が窮地に陥った時に、それを解決できる者を他世界から呼び込むためのものだったようです。
 けれど、女は恋に狂った。世界を己のものにするという野心を抱いた男に恋し、男のためにその力を使ってしまった。あの子は、男の野望を叶えるための兵器として呼ばれた。

 けれどあの子は、兵器に等しい力を持たされたのだとしても、心のない兵器ではなく、人の痛みを知る人間でした。
 ただ一人の男の私利私欲のために、無辜の民の生活を脅かすことも、男を止めようとする人々を殺すことも、できるはずがなかった。できるはずがなかったから、――それを為さしめるために、私という『人質』を男は用意した。
 そしてその『人質』は、正しく『人質』として作用してしまった。

 ……あの子は、私という存在のためにその強大な力を振るい、多くの人々を傷つけました。人を、殺しました。
 夢という形で見るそれらが、現実にあった出来事などではなく、悪趣味極まりないつくりものの悪夢であればいいと何度も願ったけれど――それは覆しようのない現実でした。
 あの子に直接会うことも叶わない私は、夢を見させられる以外の時間を、ただ泣き暮らしました。いっそおかしくなってしまえればよかったのに、『人質』の気が触れたり、死んでしまうことがないように『魔法』が使われていた故に、それも叶わず。
 私はただただ、何のためかもわからなくなるほどに、泣き続けるだけでした。


 そうしてどれだけの月日が経ったのか――夢の中で、あの子はとても思いつめた表情をしていました。その頃には、男の野望が成されるまであと少し、というところまで来ていたようでした。
 あの子は女の元を訊ねました。女は男以外の人間には基本的に興味を示さないようでしたが、己が呼ばわったあの子には多少思うところがあったのか、ある程度やりとりが成立するようでした。

 前触れなく訪ねてきたあの子に女は怪訝な様子でしたが、それでも一応、あの子の話を聞く姿勢を見せました。
 あの子は女に、このまま利用され続けるつもりなのか、と問いました。女は一瞬顔をこわばらせましたが、何のことかと苛立たしげに問い返しました。
 わかっているはずだ、とあの子は言いました。あの男は女を愛してなどいない、ただ自分の野望を叶えるのに都合がいいから、その場しのぎの言葉を吐いて女を都合のいいように動かしているのだと。女はますます顔をこわばらせて、蒼白になりながら、そんなことはない、と叫びました。
 気付いていないふりをしているのならそれでもいい、ただずっとこのままでいるつもりなのか、とあの子は再び問いました。
 女はもう答える気はないようでしたが、あの子はそれを気にした様子もなく、あなたの選択はわかった、と静かに言いました。

 何かに気付いたように、あの子から顔を逸らしていた女があの子を見て――その姿が、一瞬で溶け崩れました。溶け崩れて、白い煙をあげて蒸発して、後には何も残りませんでした。
 それをあの子が為したのだと、私は誰に言われるでもなく理解しました。あの子が、あの子の意思で、女を殺したのだと。

 そうして次の瞬間、あの子は私の居る牢屋へと現れました。
 私は変わらず眠りの中で夢の形であの子を見ていて、そんな私のすぐ傍に立ったあの子は、今にも泣きそうな、まるで笑っているようにも見える顔で、ごめん、と呟きました。

 私の傍にいるのが、苦しかったのだとあの子は言いました。
 年齢が上がるごとに、あの子と私が過ごす時間は減っていっていました。それは自然のことでしたけれど、それがあの子には辛かったのだと。
 ただの幼馴染であるままに、幼い頃と同じように四六時中共にいることはできません。年を経るごとに世界は広がり、出会う人も増え、共に過ごす時間は減って――その果てに、離れていくような気がしてならなかったのだと、まるで懺悔するようにあの子は口にしました。
 いつか私とあの子の気持ちの釣り合いがとれなくなって、『碇』として私が作用しなくなる日がくる――それが耐えられなかったから、十六になったあの日、私の前から消えることにしたのだと。

 その自分の選択が、私をこんなふうに巻き込むことになったことを、あの子は何度も謝りました。夢の形で届いていることを、あの子は知っていたのかもしれません。知らなかったのかもしれません。
 あの子は何度もごめんと繰り返して、それから、もう全部終わらせるから、と言いました。界を越えて魔法を使う、その資格を自分が得たから、大丈夫だと。

 それは私を、元の世界に返すということでした。
 ――あの子がその『異世界』に永遠に残るということでした。

 界を越えて魔法を振るえる者は、だからこそ、自身は界を越えられない。それがその『異世界』の理でした。
 あの子がその資格を、力を得た時点で、あの子はどうあっても、私と共に帰ることはできなくなったのです。

 私は起きて、あの子に何か言葉をかけたいと思いました。
 同時に、何を言えばいいのかわからないとも思いました。
 あの子は、自らの意思ではなかったとしても、多くの人を殺してしまった。そうして自らの意思で、女を一人、殺してしまった。そしておそらく、男のことも殺すのでしょう。
 それを知っていながら、あの子にかけられる言葉を、私は持っていなかった。

 あの子は私を目覚めさせませんでした。全てを夢だと思って、忘れてほしいと願っていたのではないかとも思います。
 あの子は私を案じていました。記憶を消してしまうことができればよかった、と零してもいました。

 私には理解のできない、不可思議な模様――『魔法陣』と呼ばれるそれを床に描き終えたあの子は、そこに私を横たえました。そうしてあの子は――、…………。

 私は、帰されました。あの子を置き去りにして。
 私のために、私のせいで、罪を負うことになったあの子の犠牲の上に。


 これがあの子と、――私の『神隠し』の全てです。その後のあの子がどうなったのかは、私は知りませんし、知る術もありません。

 ……もし、あの子が帰ってきたら、ですか。考えたことは、もちろんあります。帰ってきてほしいと願ってもいます。
 ……けれど私は、今でもあの子にかける言葉を見つけられないでいるのです。
 おかえりなさいと、よく帰ってきたと、手放しで喜び迎えることができないだろう自分を知っています。だからきっと、あの子は帰ってこないのでしょう。

 ……もしかしたらそれが、私が一生背負う、罪悪であるのかもしれないと……そう、思うのです。

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