マイノリティの可能性
子供の頃から、かなりの天邪鬼だった私。
少年野球では、
グローブのカタチが面白いという理由でファーストになり
サッカー部では、
一人だけユニフォームが違うという理由でゴールキーパーになりw。
「王道」や「主流」「当たり前」に対して、なぜか抵抗感があり
「マジョリティ」に属すのが、とても苦手でした。
落ち着いて考えてみると、
「自分は特別な存在でありたい」という承認欲求の裏返しかもしれませんし
主役の座につけないコンプレックスから来ているという
しょうもない理由かもしれませんw。
ただ、ちょっと違うのは、何か物事の中心から、
距離をおきたくなる感覚があるんですよね。
だから、いつでも、どの仲間や組織にも属さない境界線のようなところに
自分の立ち位置を置いてきたような気がします。
社会人になって数年後のこと。
私がずっと感じていたように
自らを境界線上に置きたくなる感覚を持っている人が
世の中にいるということを
松岡正剛さんの「フラジャイル」や「擬(もどき)」という本で
知りました。
日々、生きていく中で、
不意に脇道に逸れてみたくなったり、
なぜか物事の端っこが気になったり、
どうしても境界線をまたぎたくなったり、
あえてチグハグなことを言ってみたり、
わざわざ際どい選択をしてみたくなる、等々。
同じような人が結構いることを知って、ちょっと安心しました。
そんな「主流」「マジョリティ」コンプレックスの私が
境界線ブックの一つとして最近出会ったのが
澤田智洋さんが書いた「マイノリティ デザイン」という本です。
マイノリティのもつ「弱さ」が
これからの社会の「強さ」になる可能性があるというもので
前述した二冊とつながるような内容でした。
トルストイ曰く、
「幸せな家庭はどれも似ているが、不幸せな家庭はどれも異なる。」
つまり、多様性を探すのなら
「強さ」ではなく、「弱さ」に目を向けろってことですね。
これを企業経営に置き換えてみると
資本主義経済の中では会社は生き残るために
競合他社と比べて勝てる可能性の高いモノ・コトに投資をしますよね。
すると、まず自社の強みを活かす戦略を考えるはずです。
もっというと、社内の主戦力となるエース社員たちの強みに目を向け
その強みを活かそうとするはずです。
その一方で、「弱み」に対しては、むしろ目をつぶろうとします。
自分でもそうするでしょう。
しかし、澤田さんが紹介してくれたのは、
逆に「弱み」を起点に考えていく方が
解決策の幅は広がるかもしれない。という考え方でした。
もちろん、「弱み」は起点やきっかけに過ぎず
最終的にはそれを上回る「他の強み」と掛け合わせて解決せねば
いけないのですが、
それは必ずしも自分の中になくてもいいわけで
社会の他の人から借りてもいい。
「誰かの強み」を活かして、「誰かの弱み」を解決するのではなく、
「誰かの弱み」を解決するために、「誰かの強み」を活かす。
この順番が大事で、ここに多様性が生まれる可能性があるってことですね。
「強み」から生まれる選択肢は、
どうしても生産性・効率化を追い、単一化の道を辿ってしまうものです。
近内悠太さんの「世界は贈与でできている」という本には
社会の関係性は、等価交換だけじゃなく、
贈与から始まる関係性がもっとあるべきだという話が載っていました。
受け手が、送り手から不当にもらってしまった大きな贈与に気づき、
誰か他の人に届けてあげなくてはと感じること。
それこそが、人に真の使命感とやりがい、生命力を与えるものである。
資本主義の等価交換に慣れてしまっている私たちは、
何か他人に提供できる価値を持っていないと、
人に助けを求めることができなくなってしまっている、と。
私たちは、等価交換に慣れてしまっているので、
他人様に迷惑をかけないように
まずは自分の「強み」を活かして、他人の「弱み」を解決しようとする。
しかし、最初から
自分の「弱み」を起点に(ある意味、他人に迷惑をかけることで)
他社や社会の「強み」を引き出した方が、
より良い解決策が見つかるかもしれません。
少なくとも選択肢の豊かさにはつながると思います。
今回も色々と話は逸れてしまいましたが(ほら、言った通り!)
私たちは、もっと「弱さ」に目を向けて、
「弱さ」起点で物事を考えていくとことも必要なのかもしれません。
【参考資料】
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