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日本語とリーダーシップ



こんな時代だから、自分たちの運命は

自分たちで切り拓かなければいけない。

そのためには、良い出会いと

負荷を乗り越えることで得られる自らの成長が必要。


この文脈で、今はあまり調子が良くないですが

自ら機会をつくり、機会によって自らを成長させる。

というリクルートのスローガン(?)は、個人的に好きですね。


つまるところ、運命をひらくために

何が必要かということになると

「オーナーシップ」、「リーダーシップ」ということになるのでしょう。


ただ一言でリーダーシップといっても、いろいろありますよね。

岡田監督やユニクロの柳井さん。

田中角栄と福田赳夫。

欧米風と日本風。


その中で、日本のリーダーシップを紐解く面白いコンテンツが

言語学者の金谷武洋さんの話がありました。


「日本語に主語はいらない」という著書で

賛否両論を巻き起こしているようですが

学術的な正確性はさておき、

日本語が主語的というより、述語的な言語だという説には、同意です。

英語翻訳とかすると苦労するのも、主語と目的語ですしね。


金谷さん曰く

日本語は、主語がなくても(曖昧でも?)成立するようになっており

誰か一人が責任を担うのでなく

全員で責任を負い、全員でやるという思想に基づいている。

なるほどねー。


「なんて主体性も、責任感のない言語だ!」と

言われてしまいそうですが

会話する二人が、一対一に向き合う対立構造ではなく

会話する二人が、横に並んで同じ方向を見てビジョンを共有している

そんなイメージの違いがあるんでしょうね。


日本映画とアメリカ映画のラストシーンのレイアウトにも、

この2つの違いが顕著に現れるらしい。

恋人同士が激しく抱き合って終わるアメリカ映画のラストシーン

恋人同士が夕日を眺める後ろ姿で終わる日本映画のラストシーン

言われてみれば、確かに思い浮かぶ節もあります。

また、海外の留学生が日本語を学ぶと

共感性が高くなり、優しくなる。という説も面白い。


一方で、英語は主語を明確にするから

当然のことながら、自己主張が強くます。

「誰が」から文章を考えますもんね。


もちろん、これ自体は良い悪いではないですが

いったんダークサイドに入ってしまうと

何かあったときには、犯人探しや責任の押しつけ合いをしてしまう。

主語が明確ってことは、自然に目的対象も明確にしたがるってことです。


この違いの興味深いアウトプット例として

広島の平和記念館公園の慰霊碑には

「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」

という主語のない文章があり


沖縄の平和記念公園の慰霊碑には

日本人だけじゃなく、アメリカ人の戦死者の名前も記されているそうです。

こんなところにも、違いが出るんですね。


ちなみに世界的に見たら

主語が必須な言語は、英語を含めたった7つだそうです。(少ない!)


圧倒的な少数派なのに

声の大きさでメジャー感をだしているのが面白い。ブランディング上手!


ちなみにシェイクスピアが活躍していた

18世紀当時のイギリス英語の文法は、主語が曖昧だったらしいです。w

主語の役割が強まったのは

移民が集まって生まれたアメリカの歴史と関係があるのかもしれません。


主語的な英語と、述語的な日本語。


ここに日本のリーダーシップの

一つの目指す姿があるように感じます。


松尾芭蕉曰く、

「言い仰せて、何かある。」(全部言ってしまったら、何も残らない。)


ここに、何やら日本式リーダーシップの極意がありそうです。




【参考文献】

「日本語に主語はいらない」 講談社選書メチエ 金谷武洋 

「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」飛鳥新書 金谷武洋

致知1月号 致知出版


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