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わたしが「ここ」で暮らすということ ①

誰と、どこで暮らすのか。「移住」という言葉がさほど珍しくなくなった昨今、選択肢は広がり、自分で選ぶことができるようになりました。その地域に心惹かれた、転勤で訪れた、生まれた時からずっとここに……、きっかけはどのような形でも、ここで暮らすわけを改めて見つめ直してみると、流されることなく生きてゆけるのかもしれません。

インタビュー「ここで過ごす日々」の第3回では、ここ愛媛県内子町で、じぶんの軸を持ちながら暮らす3人のケースを4回に分けて紹介します。


Case 1 石畳のパン屋 武藤裕子さん

人生を変える里山の風景との出会い

愛媛県内子町の石畳地区にある「石畳の宿」の隣で、土曜日にオープンしている「石畳のパン屋」。武藤裕子さんがつくる自家製酵母のパンは、香ばしく、嚙みしめるほどに味わい深く、パンを愛する人たちの心を掴んで離しません。

2020年には、美しい里山を未来につなげるためにクラウドファンディングで応援を呼びかけ、薪窯を設置。地元の木を薪として使い、パンを焼くことで里山が循環する仕組みに挑戦しています。


なぜ、武藤さんは、ここ、石畳で暮らすことにしたのでしょうか。


「お天道様が昇ったら仕事をして、沈んだら家に帰る暮らしがしたい、有機農業をやりたいって、主人が言いはじめたんですよ。私も、病院勤めで死にゆく人を看ていたので、自分にも訪れるそのタイミングまでに、やりたいことをやっておかなくちゃなって思いはじめて」


「田舎でパン屋をやりたい夢がありましたけど、それよりも先に、自然がある、田舎でのんびりみたいな暮らしのイメージが湧いてきたんです。じゃあ田舎で暮らそうかって」


二人の意見が合った移住先が、行ったことのない四国。そこで、歩きお遍路で巡り、移住先を探す旅に出ました。その道中で石畳地区に出会います。


「いろんな田舎を見て歩いたけど、もう、なんかねえ、景色がキラキラしていました。バスに揺られて、石畳地区に入ったら、バーって明るく景色が開けるんですよ。その感覚がすごく新鮮で、稲刈りの時期だったので、黄金色なんですよね。この田舎は違うって」

その風景が忘れられず、お遍路を終えた後にも訪れて、ここ石畳に住むことを決めます。運良く家も見つかり、引っ越しまではスムーズに。そう、引っ越しまでは。


「そのあとは、波乱万丈(笑)。もう今となっては笑い話だけど、その時はもうすごく大変で」

家は、大家さんも「やめた方がいい」と心配するほどの状態だったそう。それでも住みたいという二人のために、地域の人たちが日曜大工をして、最低限の暮らせる範囲のところは整えてくれました。あとは住みながら直すつもりが、いざ生活を始めると、なかなか手が回らず大変なことに。


「田舎暮らしと言ってもやっぱり衣食住がしっかりしていてのんびり暮らせる訳であって、ボロボロの状態で入っていったら、サバイバルですよ。見たこともないネズミだとか、小動物なり虫なり、極寒に耐えるとか(笑)」



地域のために、私ができることを

思い描いていたイメージとは全く違うサバイバル生活と同時進行で、パンの修業先を探すも見つからず。そこで、武藤さんは、ここで、自分に何ができるのかを考え続けました。


「10人以上のおいちゃんたちが集まって日曜大工をしてくれて、おばちゃんたちも野菜を持ってきてくれたりしたんです。見ず知らずの私たちにそこまでのことをしてくれて、その恩返しを何かしたいなあって思って。その一歩目が、地域の困りごとが人手不足だったので、忙しい農家さんたちを手伝いに行きましたね」

それまで農業をしたことがないからこそ、一つ一つが新鮮で、勉強だったと振り返る武藤さん。地域の人との距離も近くなっていきます。


「みなさん、すごく優しいし、綺麗好き。一緒にお仕事をして、私が初めて石畳に来た時に美しいと思った景色が、住んでいる人たちの一人ひとりの美意識がすごくしっかりしているからだったんだなっていうのがよくわかりました」

地域との関係性を築きつつ、パン屋の夢も諦めてはいませんでした。石畳の宿と農家の仕事をしながら、隙間時間に本を片手に、実験のようにパンを焼く日々を送ります。


「ハード系のパンをつくりたくて実験していたんです。でも、農家さんのお手伝いのおやつに出てくる菓子パンはみんな柔らかいやつ。だから、ああ、私のパンは受け入れてもらえない、相当自分に自信ができるまでは、地域の人には渡してはいけないなって思っていました」



「だから、もう実験あるのみ。本に書いてある通りにやってもなかなかうまくいかなかったから、自分のつくりたいハード系でありつつ、年配の人にも地域の人にも喜んでもらえそうな中間どころをずっと探りながら実験をしていました」

「ある程度できるようになってきてから、『一つ食べてみて』みたいな感じで、パンを差し上げて。いい反応をもらえるようになってきてから、こんな感じでバリエーションを増やしていけたらいいのかなっていう感じでやってきましたね」


地域と私のパンと主人の仕事がつながる

地域の人にもパンを食べてもらえるようになったのが2016年頃。2007年に移住してから、その間、子どもが産まれて忙しい中でも時間をかけてコツコツと積み上げてきた武藤さんですが、タイムスリップして過去に戻りたいと思うような時もあったと言います。移住前の過去に。


理想があると、現実とのギャップをどう埋めていくのかが難しいですね。でもね、一番大変なのは、やっぱり夫婦間、夫婦の在り方じゃないかなって思いますね」


「結婚して、移住して、お互い知らない土地に来て、やったことがないサバイバル生活をして、はじめて尽くしですよ。生活から仕事から人付き合いから。好き同士で結婚して、夫婦になって暮らしていても、お互いが精一杯だから、支えあえられないっていうのが結構ありましたね」


農業研修を受けたご主人は、かつては内子町の主要産業であった炭焼きに出会い、その技術を残すために炭焼き職人の道に進みます。未経験の山仕事への挑戦でした。

「お互い好きなことをやろうとは決めていたから、主人にも見つかって良かったなと思いました。でも、パンをやりたかったのに、自分はパンじゃないことをやって、そんなだからお互いこうギクシャクしたこともあって、大変でしたね」


ご主人の仕事も手伝っていた武藤さんでしたが、今は、炭には適さない木を使い、薪窯でパンを焼くように。ご主人の仕事と自分の仕事、そして石畳の里山の風景を守ることがつながるようになりました。

「その流れになったのは、本当、つい最近というか、クラウドファンディングを立ち上げるちょっと前ぐらいですね」


「単純に考えたらすぐ結びつきそうだけど、でも、「主人の仕事」と「自分のやりたいこと」と「地域の役に立つ」っていうことが、こう一つになるっていうか、輪になるっていうイメージがなかなかなくて。それがやっとこう自分の中で納得できたのが、もう2020年ですね」


「薪窯は絶対つくるってずっと思っていたけど、つくるのが難しいとか、お金がかかるとか、気持ちだけではどうにもならない部分がいっぱいありました。でも、その3つが輪になるのが、自分の中で確信が持てた時に、無理かもしれないって思っていたいろんなことが、できるって思えて。それで、クラウドファンディングに至りましたね」


どこで暮らしていてもパン屋の夢は実現できたかもしれません。もっと早いスピードで。

でも、ここで暮らす中で、使われなくなった畑に小麦の種を蒔き、その小麦で酵母をおこしたり、地域の人の顔を思い浮かべながら研究したり。時間をかけたからこそ生み出せた味があります。

そんな武藤さんの歩みや姿勢は周りの人たちに伝わっているのではないでしょうか。その挑戦を地域の人たちは、「やったらええわい」「かまない」と、見守ってくれています。

これまでも、これからも。

石畳のパン屋

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Coordinator Mai Oyamada
Writer Mami Niida
Photo Ko-ki Karasudani