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現実エッセイ #2 渋谷にて

 小田急線から井の頭線へと乗り継ぎ、僕は渋谷に降り立った。ここはスクランブル交差点。今日もMAGNET(109メンズ館)のオーロラビジョンでは三千里薬局のCMが流れ、その愉快なメロディーが街のサウンドスケープを支配している。

 と思えば同じビジョンで、フジロック・フェスティバルの若手オーディション、ルーキー・ア・ゴーゴーの告知映像が流れはじめた。去年のルーキーステージに出演した15組の断片的な映像が流れる。その中で『カラコルムの山々』の演奏も紹介されていた。僕は初めて渋谷の巨大スクリーンに映る自分の姿を目の当たりにする。なぜか感動や興奮はまったくなかった。むしろ、「あれ?短いね」と呟いてしまうほど、冷静だった。この意外な気持ちの正体の答え合わせは、もっと長い時間、しかも画面いっぱいに自分の姿がスクリーンに映った日に改めてしようじゃないか、と思った。

 渋谷には自分の”青い”記憶がたくさん落っこちている。何気ない日常にはそれらの記憶を思い出すことなく平気で踏んで歩いているのに、今日は何故か、渋谷の街に強い風が吹いて、その記憶たちが花びらのように宙を舞っている。だからつい、懐古したくなったのだろうか。

 まず、風が僕の顔に当てたのは高校2年生の夏の記憶。当時も一緒にバンドをやっていた小川諒太と、練習帰りにスクランブル交差点で遊んだことだった。おそらく夜の7時頃。僕たちは楽器をケースから出して、信号が青になるのを待っていた。信号が変わった瞬間、交差点の中央へ駆け出し、まるでマネキンのようにポーズを決めて固まる。ただそれだけの、今となっては何が楽しいのかさえ思い出せない不可思議な行為だが、あの日はこれを何度も繰り返した。

 そんな自分たちの姿を写真に撮って遊んだりもした。すると外国人観光客もおもしろがって、僕らの写真を撮りはじめた。その直後、Twitterで僕たちの行為を羨んだOLのツイートがプチバズったりもした。若さが羨ましいなんて、そのOLはきっと疲れていたのかな。あの夜の蒸し暑さ、底知れなかった高校時代の体力、渋谷をまるごと使って遊んでやろうという意気込み……何もかもを新鮮に感じる若さと夏めく街のコロナ前の活気を、心の中を吹き抜けた風が思い出させた。

 あれから6年が経っている。

 スクランブル交差点を抜けて、センター街へ入った。センター街の正式名称が「バスケットボール・ストリート」になったのは2011年のこと。でも、そんなことを知っている人はどれくらいいるのだろう。昼下がりの授業をサボった大学生グループとすれ違いながら、センター街をさらに奥深く分け入る。突き当たりにあったマクドナルドが見えた時、風に乗った別の記憶が、また僕の顔に当たった。これはさっきよりも古い、中学2年の記憶に違いない。

 カラコルムの山々の前に『NewWave』というコピーバンドを組んでいた。結成したのは中学1年、解散したのは高校2年のとき。僕はギターを弾き、ボーカルは同級生の女の子だった。「カラオケで98点を出す人がいるらしい」という噂を聞いて、すぐに彼女に声をかけた。

「一緒にバンドやろうよ」

 あの頃、演奏できるチャンスは秋の学園祭だけ。僕たちは中学2年になってすぐ、スタジオに入って本気で練習を始めた。その最初の練習が終わった日、ボーカルの彼女と2人、このマクドナルドで打ち合わせらしきことをした。こんなに歌が上手いんだから『Superfly』の曲がいいんじゃないか、とか、紅一点バンドなんだから『紅』をやろうとか、この先、どんな曲をコピーしていくのか、意見を出し合った。中学2年の僕は、女の子と2人でカフェ(マクドナルド)にいることになんだかドギマギしていたことを思い出す。

 曲の難易度もバンドのことも、何も知らなかった。でも、とにかくこういう打ち合わせと練習を繰り返しながらバンドを前に進めなければ、という闇雲ながら馬力の備わった希望を持っていた。何年か後、今の記憶の花びらが未来の自分に当たったら、今と同じようにそわそわした気持ちで、2024年の僕の闇雲な力強い希望を振り返ってほしいと切に願う。

 センター街を抜けたら、東急ハンズの角を曲がって美竹通りへ。246にぶつかるあたりまで、僕は記憶の花びらが舞い踊る中を歩き続けた。僕は渋谷の街が今の自分を形作った場所であることに、改めて気づく。自分で見てきた景色のはずなのに、昔のこととなると脳内の映像が色褪せているのは何故だろう。こんな(とくに名前のついていないであろう)現象を不思議に思いながら、僕は青山学院大学の正門をくぐった。

p.s. NewWaveの行末、そしてカラコルムの山々の結成に至るまでのエピソードは、また日を改めてこのエッセイに綴るつもりです。

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