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雨音に気づいて

 コツコツ、という音。マンションやアパートではこれ程に聞こえてこない、屋根からの新鮮な響き。台風が近づくと、いつか銃弾大の穴が空くんじゃないかと心配にさせるくらいに、それは激しさを増す。けれど僕にとっては、どこか心地よい気がした。雨風をしのぐことができている、ということが、僕に生を感じさせる。ここまで何とか1ヶ月、耐えて来れたようだ。

 ボーイスカウトに所属していた中学生時代、「日本ジャンボリー」という朝霧高原で行われた全国イベントに参加したことがあった。1週間近く、タープテントを皆で張って寝泊まりするのだが、朝霧と地名にあるように、天候の安定しない湿った空間だったので、途中で何度も嫌気が差したのを覚えている。泥と落ち葉で汚れたレインコートや、ブルーシートの隅にできた水たまりに浸かったリュックたちを見るたびに、帰りたいと思った。共同生活に打ち解けられなかったわけではないけど、心から野外生活を楽しんでいる仲間たちとは距離を感じ、少し孤独を感じていたというのもある。
 でも、夜更けの雨粒がタープに当たる音は、とても好きだった。ひっそり降るはずの雨が、硬い音を鳴らすことで、急に存在をあらわすこと。そして、視界は不明瞭だけど、何らかに守られているという安息。もちろん、ずっと寝ていたいという思いもあっただろうけれど、ずっとこの音を聴いていたい、という趣が主にあったと思う。家に帰ると、決して聴くことが出来ない音だったから。

 この1ヶ月は、キャンプをしているような感覚があった。ドアの蝶番を電動ドライバーで外し、椅子とテーブルを2階に運び入れ、粗大ゴミをまとめる。より良い暮らしにしようと自らアクションを起こすのは、立ちかまどを試行錯誤しながら作っていたあの頃に似ている。
 ただ、いつまでもそんな意気揚々とした心持ちは続かない。2年前の一人暮らしで耐性が付き孤独感に慣れてはいるけれど、大きなお屋敷では音に余計に敏感になるために、どこからか聞こえてくる「ミシッ」という音には、少し怯える。霊感、というよりかは、寝ている間に空き巣にねらわれるのではないか、という現実的な心配がそこにはある。
 でもそんな時は、この屋根と壁をタープのように捉え、雨音にじっと耳を傾けるようにするのだ。あたりが雑草にまみれているからと言う訳ではないが、この家は、自然と共生しているようだ。そう感じるのは、こんな雨の日だけでない。よく晴れた日、雲の動きと光の差し具合でリビングの明るさは秒刻みで激しく変わるごとに、僕らは太陽の下にいるということを再確認する。周りの環境に流されて生きることも、悪くないのかもしれない。

 窓外の竹林がすごい角度で左右にしなるのを見て不安になる。雨樋はすでに壊れかけていて、機能する前にこの突風で飛んでいってしまいそうだ。火災保険の話がもう少し早くに出ていればと、後悔するシミュレーションを脳内で行ってしまう。同時に、起こるべくして起こったのだと、仕方無さに意識を集中させて、楽観視しようとする僕がいる。ぼーっと、眺める。
 翌朝、竹林の被害は何もなかったことを確認した。それどころか、庭の雑草は、1週間前より少し背が高くなっている気がする。植物の生命力は凄まじい。僕もいつか、フォレストキーパーとして生きることを余儀なくされそうだ。さもないと、この心地よい響きたちは失われてゆくように思えるからだ。

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