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書くということは?

 会社が新体制になって(名前も変わって)、新しい風が吹きそうな予感はするものの、その風にあたりに行くヒマがないくらい、人手不足を感じる。新卒研修を終え、初めて執務室に入って部に合流した時に感じた、「僕らのチームにおいでよ!」みたいなキラキラムードは、もう夢まぼろしだ。いまはチームではなく個の時代だ、と言えばそれまでだが、後輩に華やかなムードを醸し出す4年目になれないのかと思うと、少し寂しい。

 入社時の内定者懇親会で「案件を掛け持ちすることはありますか?」と質問したことを思い出す。いま思えば、勘が鋭かったと思う。その時の返答は「そういう時もあるかな?」だった。嘘はつかれていない。けれど、明らかに、そういうケースは少ないよというニュアンスだった。
 ちなみに、「汐留付近でおすすめのランチはありますか?」と聞いた同期は、光の速さで辞めてしまった。ランチを食べる機会は結構少ない仕事だったから、現実との落差にガッカリしてしまったのだろう。

 ここまで人手不足だ掛け持ちだと窮状を主張しておきながらも、辛いから辞めたいという単純な思考は無い。ただ、同期や上司が辞めていき、自分も続けるか否かの選択を迫られている感じが、4年目っぽいなーというだけ。
 辞めるタイミングに関しては、早いうちじゃないと会社に迷惑がかかると入社した頃は思っていたけど、今はもう、そんな対外的な因子は関係ないなと思っていて、どちらかといえば重要なのは、いつ、自身の英気の衰弱にケリをつけられるか?ということな気がする。要するに、自分の問題。

 何かを本格的に始めなければなんとなくマズい、という危機感すら薄れていくのがわかる。そのまま安住し続けるのか、一か八かで飛び出してみるのか。もうすでに骨抜きにされてるようで、正常な判断ができる自信がない。

 約1年間、noteの更新を忘れてしまっていたけれど、同時に、自分のライフステージも忘れてしまっていたような感覚がある。文章を書くということは、自らと向き合う儀式だ。読む人に伝わるよう懸命に言葉を選んでいる最中、現在の自分が置かれた状況を的確に表す言葉に出会うことがある。そうして、それが不思議と、これからを生きていく道標になったりする。

 たとえ深く潜っても、すぐ浮かび上がって、書き続けなければいけない。書き続けないと、心を亡くす。そう繰り返して、危機感を自らに植えつけてみる。自浄作用に頼るのは、きっと不健康だと思うけど。

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