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天安門の子供たち

6月4日なので天安門のことでも書いておく。1989年4月、胡耀邦の死去をきっかけに北京大学の学生を中心としたデモンストレーションが発生。瞬く間に北京市内を席巻する規模に拡大。要求は民主化で、CIAをはじめとする西側諸国の情報機関がデモ隊を物質的に支援していたことがわかっている。鄧小平を中心とする8大元老は学生に融和的だった党総書記趙紫陽を解任し、北京に戒厳令を発令。6月3日夜、重武装した人民解放軍が北京に進軍、一夜にしてデモ隊を解散に追い込む。以降、今日に至るまで天安門事件は中国の正史に掲載されず文字通り歴史の闇に葬られる。中国国内での大規模な民主化運動はこれ以降発生せず、共産党の一党独裁は堅持されている。

僕は華人2世である。父親は湖北生まれの中国人だ。そしてこの事実は、中国や中国人を笑う冗談を誰かが言った時にあえて明かすことにしている。後からその事実を知ったら複雑な気持ちになるだろうという、僕なりの配慮の現れだと思って欲しい。日本人は多様性に対する脆弱性が高い。僕はダイバーシティ枠として多数派に配慮した行動を常に心がけている。

中学に上がる頃、いわゆる嫌中嫌韓ブームがやってきた。竹島と尖閣を巡る領土問題の少し後に、中国人観光客の爆買いブームがやってきた。日本人の対中感情は歴史的に悪化し、僕のような日本生まれ日本育ちの華人2世でもその煽りをちょびっとは受けた。

例えば、中学の社会の授業で、教師が中国人のことを悪し様に罵るのを延々と聞かされた。友達の親に中国人が起こしたニュースの動画を見せられ、「あなたの国からおかしな人たちが来ている。あなたは遺伝子レベルで劣勢だ」と言われた。付き合っていた女の子の親から「中国人が戸籍に入るのは許せない」と言われた。駅の構内で中国語を話している父親がいきなり胸ぐらを掴まれて「お前日本人じゃないの?出ていけ」と中年男性に怒鳴りつけられた。

でも一番覚えているのは「俺は中国人は嫌いだけど、お前は違う」という赦しを高校で友達に与えられた記憶。そうか。自分は赦されているからここにいれるのかと思った。僕は人の気分次第で居場所がなくなるガイジンで、だから自分を受け入れてくれる友達には感謝しないといけないのか、と。

…などと、そんな殊勝なことは実際には一切思っていなくて、「お前らの承認なぞ知るか!」と吐き捨てて、一生日本社会と下らない人間模様に悪態をついていた。なんで片指で数えられる歳のうちに離婚した父親のことでウダウダ言われなきゃいけねえんだよ、バーカ!くたばれ!と思っていた。

僕は自分の半分をどう受け入れるべきか、18歳になってもわからなかった。だから色々考えるためにオーストラリアに住んでみることにした。意気揚々と乗り込んだ太陽の国で、「開放的な文化に触れ本当の自分を見つけました!笑」というわけには全く行かず、オーストラリアにいるアジア人も白人に常にブチギレていて、あ〜どこ行っても同じなんだなと妙に納得したのを覚えている。

僕のように、華人の血は引いていても、言語もわからず血縁ネットワークからも遠い人間が、自分がハーフであるという事実をどう受け止めて生きるべきか未だに全くわからない。大学でアジア日本研究を専攻に選んで、中国の歴史や中国語にはやたら詳しくなったが、自分のアイデンティティに関してはなんら有益な学びは得られなかった。僕の半分はいまだ、なかったことにされるか、見なかったことにされるか、の二択だ。

そんな自分が唯一中国とのつながりを感じる出来事が、この天安門事件である。何を隠そう、我が父は天安門事件に参加していた北京大学の学生の1人だったのだ。と言ってみたものの、父に何を聞いたところで「朝起きたら大学に誰も居なくて天安門に歩いて行った」くらいしか出てこなくて、異常に聞きがいがない。実際、歴史に残る瞬間って案外そんな感じなのかもしれない。

だから、あまりに語らない父の代わりに僕は想像することにしている。湖北の農村から(中国は都市と農村で戸籍が異なり、農村戸籍の人には厳しい移動制限が課されている)身一つで北京に上京した学生が、改革開放の最中で急激に都市化する北京に足を踏み入れた瞬間の喧騒。突然無人になったキャンパスのひんやりした空気。そして6月4日、近づいてくる人民解放軍の戦車の轟音、民衆のどよめき、銃声。そこにいた父と友人たちの声、身振り、汗、湿度。

行ってみるとわかるが、天安門はやたら見晴らしのいいただの広場だ。僕はそこに立つとき、天安門に集った群衆に思いを馳せる。中国が改革開放の大きな唸りの中で湖北の農村から送り出した若者が、日本ははるばる東京にやってきて自分が生まれたのだ。僕は中国人や中国には自分をうまく重ねられないが、天安門に集った若者の中に自分を見出すことはできる。似たようなことがあればきっと自分も、なんの考えもなしにそこにいた。何かが変わるかもしれないという期待と焦燥だけを胸に、父の隣に。

僕と中国は、父は、天安門を通じてつながっている。だから6月4日は特別な日で、天安門は特別な場所なのだ。

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