見出し画像

議論する、ということ

学生時代、オーストラリアのど田舎の大学で最初に受けた授業は、週に8本論文を読んで、その内容を出席者全員でディスカッションして、しかも一言でも発さないと出席がつかないという鬼のような時間だった。教室には日本人が自分一人しかいなかったので、”日本人はどう思うのかな?”などという質問は全て自分に飛んできたのをよく覚えている。

英語が母語である人間に共通していることは、言語マイノリティに対する想像力に欠けていることだ。英語が話せない、ということが人に植え付ける圧倒的な劣等感、その状況が与える苦痛に思いを馳せることができない。だからと言って、すみません僕は英語が苦手なのであなたの言っていることがわかりません、なんていうのは絶対に嫌だった。

その授業に出席している現地の学生が少しも勉強していないことを自分はよく知っていたし、課題の論文なんてものの2〜30分流し読みしているだけで、あとは適当にネットや何かで見聞きした内容をつなげて話して最もらしい”意見”を言った気になっているだけなのを、よくわかっていたからだ。

それでも、私は英語が第一言語でないというだけで、圧倒的にその場では弱者だった。英語で話すためには、言語としての英語を操る能力を有しているというだけではなくて、英語圏の文化やコミュニケーション様式、身体的な身振り、ノリ、ミーム、政治、性、といったあらゆる社会的な記号を理解し身体化していることが求められる。

そういう事実を痛感するのは、例えば”冗談”が交わされる場面だ。冗談が面白いのは、言語の向こう側に広がっている社会とか文化に対する規範的理解との”ズレ”が生じるからであって、その前提が欠けている人間には”冗談”を理解できても”笑う”ことはできない。どんなに日本語が達者なノンネイティブに漫才を見せても、母語話者と同じようには笑えないのと同じである。


この記事は、私がそのオーストラリアの修行時間の中で最初に読んだ課題の一つである。直訳すれば、”あなたに意見を言う資格はない”となる。しかし、実際にこの記事の中で主張されるのは、次のような内容である。

例えば、あなたが反ワクチン主義者で、ワクチン接種が身体に有害であるという”意見”を持っているとする。そのこと自体を禁じることはできない。ただし、その”意見”が尊重され、科学的な正確性を争う場において、疫学的な専門家の”意見”と同等に扱われる資格がある、という信念は否定される必要がある。

反ワクチン主義は、ワクチンに対する人々の受容や選択を検討する場面において、他の意見とともに平等に尊重されるべきだが、科学的根拠に基づく”統計的な真実”を検討する場面においては、その限りではない。

二つの議論はシンプルに、同じ土俵に立っていない。あるいは、前提を共有していない。同じルールで戦おうとしていない。だから、議論は成立しない。逆に言えば、用意されている土俵に乗っていない”意見”は、尊重されるべきだとは言えない。

用意されている土俵。例えば、私の苦痛に満ちた修行時間においては英語で話すことがそれであったし、論文を読んでいること、その内容から論理的に自己の主張を組み立てること、であった。それができない人の意見が、他の人の意見と同様に尊重されるべきだという主張は成立しない。ルールに違反するからである。



さて、もう少しこの話を一般化すると、次のようなことがいえそうだ。すなわち、あらゆる議論には前提が求められる、ということである。それは、土俵を用意するということに他ならない。例えば、プロダクト改善をするために、Aという施策をとるべきだ、というアイデアと、Bという施策をとるべきだ、というアイデアが対立しているとする。どちらかを選ぶ必要がある時、私たちは何を根拠にA, Bを選択すれば良いのか。それを用意するのが、議論の前提である。

仮にAは、前職の経験から絶対に成功するという経験知によって提案されているアイデアだとしよう。そしてBは、プロダクトの観測と推論に基づく統計的論拠によって提案されているアイデアだとする。それらは、異なる論理体系のもとである程度の合理性を持って提案された主張である。別の論理体系(≒言語、文化、規範)が提示する主張を、そのまま比較検討することは、反ワクチンと疫学家の議論の例を引くまでもなく、とても難しい

だから、Aを主張する人物とBを主張する人物が適切な議論を行うためには、その土俵を用意せねばならない。何をもとに決めるのか、何を共通言語とするのか、どういった論理を求めるのか。Aに寄り添ったルールを作るなら、経験知の裏付けとなる指標(e.g. どの程度の人間が経験によって共感するかというアンケート結果)が論拠と指定されるべきだし、Bに寄り添うのであれば効果指標を決め、その指標に対する効果の試算(e.g. B実施前後のページ遷移率の変化)などが論拠とされるべきである。

このルールメイク(≒土俵作り、前提の共有)こそが、議論の前提を作り、意思決定プロセスの根幹を為す。ルールのないところで戦わされる議論はことごとく無意味で、不毛であり、もしそういうものが”議論”と呼ばれて日常的に実践されているのだとしたら、私たちはまずルールを作ることに最も注力する必要がある。つまり、共通言語を作り、共通する論理体系を作り、どうやって決めるのかをきちんと決めるのである。

多くの場合、統計的に適切に処理されたデータは、異なる論理体系を架橋する共通語になる。あとはそれを軸に、データを主張するための論理枠組みを整える(データはグラフで視覚化する、実施前/実施後で推移を試算する、など)。最後は決め方だが、多数決を取るっても良いし、全員が納得するまで話し続けても良い。このプロトコルが決まってから、やっと意味のある議論が始める。

自分がこうした前提だとか土俵だとかルールだとか共通論理のようなメタ論理に異常なこだわりを見せるのは、冒頭で述べた修行空間での経験が大きく影響しているのだと思う。メタ論理を内製するためには、自己相対化の経験が求められるためである。自分が培ってきたルールが少しも通用しない世界に身一つで放り出されること。意識的に他者のルールを言語化し、身体化し、そのルールに従って戦ってみること。その過程で、自己のルールも言語化し、相対化すること。自己に耽溺している状況から常に自己を引き剥がす、破壊的な生き方を試みる。あのオーストラリアの田舎空間はそういう修行を私に課した。

そもそも、多くの人は自分と他人が違う論理体系(ラカンの言葉で象徴界)のもとで生きていることに無頓着である。日常生活を送る上で支障のないレベルのディスコミュニケーションは、恒常的に発生しているが、多くの場合それは対応不要なバグとして放置される。だが、ことに”議論”を行うとなると、こうした論理体系のズレが致命的な意味を持つシーンがある。同じラベルで違うことを話していたりとか、同じ身振りで違う意図を伝達している場合が最たる例である。

だからこそ、議論を可能にする土俵作り、ルールメイク、前提の共有には、どれほど注力してもしすぎることはない。このことは、昨今はやりのダイバーシティとかにも繋がってくるが、それはまた別の機会に取っておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?