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「あの頃」の『大森靖子』について覚えていること

僕が『大森靖子』を精力的に消費していたのは、2013年から2015年にかけての、数えてみれば2年足らずのほんの僅かな期間だった。18歳で初めて彼女の音楽に触れ、それから20歳過ぎまでとてもよく彼女の音楽を聞いていた。アルバムで言うと、「絶対少女」から「TOKYO BLACK HOLE」までである。

僕が知った時の『大森靖子』は、インディーズシーンで常に話題の的だった。アジカンが来ると嘘をついて渋谷WWWをブッキングした上で、たった一人で会場を満員にして見せた。Tokyo Idol Festivalの舞台で、不穏な効果音と共にギター一本で登場し、圧巻のパフォーマンスでオタクたちを虜にした。ARABAKI fesで炊飯器から炊き立ての米を客に配っていた。突然、天下のAvexからメジャーデビューした。黒歴史塗れの女の子を集めてアイドルグループを作った。と思ったら、ピエール中野と(当時は明らかにしていなかったが)結婚し、あっという間に出産した。そんなこんなで、やることなすことがいちいちセンセーショナルで、一秒も目が離せなかった。

自分がはじめて『大森靖子』を見たのは、2014年の大学入学直前の春休み、あまりにもやることがなくて暇を持て余していた折、偶然赴いた日比谷野音でやっていたフェス(SEBASTIAN Xというもう解散してしまったバンドが主催していた)でのことだった。懐かしのN’夙川BOYSが出演していたのをよく覚えている。『大森靖子』は、はじめギター一本で弾き語りをしていたが、途中から「そこの女の舐めた態度が気に入らない」と客に対して苛立ちを見せ始め、最後は演奏の途中で絶叫し始め、舞台の上を転げ回り、客席に向かって暴言を吐いて退場した。誇張なく本当なので、以下の動画を見てほしい。(自分は最前列にいたのでめちゃめちゃ映っている。1:40あたり。)


こんな話はオンラインのアーカイブを辿ればいくらでも出てくるので、改めてわざわざ書く必要もないのだが、実は『大森靖子』について大っぴらに語られてこなかったことが一つあると思っている。それは、「あの頃」の彼女がどのように消費されてきたのかということだ。「あの頃」の『大森靖子』が、身一つでライブハウスを回っていた『大森靖子』が、なぜあんなにも熱狂的に人々の支持を集めたのか。そのことについて、納得的に語られている書き物があまりにも少ないと思う。今やメジャーアーティストとして各界に引っ張りだこのシンガーソングライターとなったからこそ、わざわざ「あの頃」の『大森靖子』について書いてみたい。すべて主観的な記述になってしまうのが歯がゆいが、お付き合いいただきたい。


初期『大森靖子』の作風に顕著な特徴として、歌詞に私小説的な情報の断片が散りばめられていることが挙げられる。例えば、2012年のミニアルバム「PINK」の表題曲「PINK」にはこんな歌詞が出てくる。

23年も生きとんやけんわかっとって当たり前やって言われました
生まれて死ぬこと恋愛のこと原発のこと音楽のこと
なんもわかっとらんのに歌っとんの馬鹿やないって言われました

大森靖子 PINK

「PINK」はポエトリーリーティングのような曲で、3つのコードを鳴らしながら絶叫するという形式で演奏される。歌詞の内容は全体的に独白とでも言うべき内容で、彼女の音楽に対する姿勢を表明するものになっている。その歌詞やパフォーマンスは、公共的な自己開示を拒絶するかのように激しく、他者の容易な共感や没入を許さない厳しさを称えている。初期『大森靖子』の独自性であり魅力の1つは、他者を跳ね除け、徹底的に自己の内に閉じていく私小説的なパフォーマンスであったと僕は考えている。


2ndアルバム「魔法が使えないなら」では、もっとわかりやすく他者の容易な共感や理解を拒むリリックが登場する。評価されない自分への苛立ちや、他者からの眼差しや安易な評価を徹底的に拒むリリックはブラッシュアップされ、彼女が抱えている孤独や悲愴や生きづらさ、そしてそれを乗り越えて身を立てようとする強い決意が伝わってくるものになっている。

仕事がない日は何して過ごすの 1日何回アレして過ごすの
@Youtubeさんからあたしの全部をわかった気になってライブに来ないね

大森靖子 「魔法が使えないなら」


隣のババアは暇で風呂ばっか入ってるから浴槽で死んだ
あたしは歌を歌っている どういうことかわかるだろ
ノスタルジーに中指たてて ファンタジーを始めただけさ
全力でやって5年かかったし やっと始まったとこなんだ

大森靖子 「音楽を捨てよ、そして音楽へ」


こうした『大森靖子』の自己耽溺的とも言える作家性は、彼女の真骨頂とされるライブパフォーマンスの様相とセットで理解される必要がある。当時(今もそうかもしれないが)、『大森靖子』といえばギター一本でどんなにアウェーな会場でも自分のフィールドにしてしまう、圧倒的なライブ力が評判であった。卓越したギター演奏に加えて、声色の高低や強弱を会場やオーディエンスの雰囲気に合わせてコントロールすることに非常に長けていた。自分も何度もライブに足を運んで、え!こっからこうなるの!すごーい!と思ったものだ。徹底的に「私」に閉じたリリックを、激しいパフォーマンスと合わせて剥き出しに届けてくる『大森靖子』のライブは、まるで観客に彼女の人生や苦しみ、生きづらさそのものをダイレクトに追体験する時間のようであった。そして、それはほかに類を見ない感動を与える経験だった。

また、当時としては先見的に『大森靖子』はマルチモーダルな存在だったことも言及しておきたい。彼女は「あまい」というタイトルのアメブロプラットフォームを小学生の頃から運用しており、活発にファンに向けて自らの思索を発信していた。このブログの文体がまた独特で、削除されてしまったのが本当に惜しいのだが、まるで平安時代の文体が現代語に翻訳されたかのような、句読点を自在に利用しながら文脈も主題も放り投げたような思索の羅列をひたすら浴びせかけるような強烈な文章だった。僕のようなファンは、このブログのアーカイブやTwitterやライブでの発言を反芻して、私小説的な歌詞のコンテクストを探し当てることに必死であった。というか、初期『大森靖子』の音楽は、ブログや当人のライブやメディアにおける発言を足し合わせることでしか読み解くことができない、マルチモーダルな表現の一部分であったと考えるべきだ。彼女がセカンドアルバムに寄せたライナーノーツが残っているので、興味のある方はその独特の言語表現の一端をぜひ垣間見てほしい。

主題に入ろう。自分と『大森靖子』との関わりを最もよく形容できる言葉を考えるとき、僕は彼女よ表現と作家性をある種の「サクセスストーリー」のような感覚で消費していたのだと思う。ギター一本で四国から上京し、お世辞にも精神的/物質的に恵まれているとは言えない少女時代、青春時代を過ごしたあと、暗黒期間を経てアングラシーンからギター一本でメジャーの階段を駆け上がっていく、孤高の女性シンガー『大森靖子』。消費の対象になっていたのは、彼女の曲そのもの以上に、彼女の人生や生き様、既存の音楽業界をディスラプトしながらスターダムへと駆け上がっていく姿であり、表層的な理解を拒む難解で断片的なリリックや、他者の理解を拒むような激しいパフォーマンスは、彼女がファンにとって、「支持するに値する」アーティストであるという特別感を感じさせる装置としてよく機能していたのだと思う。

あるいは、もっと直接的に言えば、「あの頃」の『大森靖子』は、なんらかの生きづらさを抱えながら生きている人の思いを代弁してくれるような感覚を確かに与えてくれていたのだ。抽象化しない、自分自身の剥き出しの生きづらさを歌っている彼女の生き様に、自分の「思い」を託した人も多かったのではないだろうか。確かに、『大森靖子』は他者の悲しみを歌ってはくれないが、どこまでも己の生きづらさに真摯に向き合い、それを表現に昇華するパフォーマンスを生み出した。その己との向き合い方が心を打ったからこそ、安直な理解を拒む難解なリリックを理解するために、人々は熱狂的に『大森靖子』の人生や思考についての情報を求めそれを消費したし、徹底的に私的な世界(私だけの「生きづらさ」)に閉じたライブパフォーマンスにも感動したのだと思う。「自分」が「自分」の欠陥を抱えたままで、それを公共的な言葉に開かずとも、他者の理解を得ようとせずとも、世の中に存在する方法を示してくれるような気がしたのだ。

彼女がスターダムにのしあがる姿は、平坦で真っ暗な「社会」における確かな「希望」として映っていた。それが、僕が「あの頃」の『大森靖子』について覚えていることだ。自分の『大森靖子』に対する熱狂的な消費が終わりを迎えるのは2015年で、それは『大森靖子』がスターダムへの階段を上り切った(ように思える)からだった。そこから先は、もっと広く支持を集めるための表現に彼女が意識的にシフトし始めた時期である。

2015年以降の『大森靖子』について、最後に簡単に書きつけておく。初期『大森靖子』にはもう一つ欠かせない特徴があった。それは、徹底的にワードをやフレーズを脱文脈化することで、言葉を本来のコンテクストから引き離す形で意外性を演出することだ。『大森靖子』の歌詞は、常に「唐突」で、「意表をつく」ものだったし、言葉のコンテクストは極めて意図的に撹乱されていた。その最たるものが、3rdアルバム「絶対少女」のリード曲で代表曲である「絶対彼女」であろう。


ディズニーランドに住もうと思うの 普通の幸せにケチつけるのが仕事
まずずっと愛してるなんて嘘じゃない 若い子のとこに行くのを見てたよ
ミッキーマウスは笑っているけどこれは夢
スーパー帰りの電撃ニュースもうお母さんになるんだね

大森靖子 「絶対彼女」

自伝を読んで後から知ったのだが、2行目のくだりは「ずっと好きだと自分に言っていたファンがあっという間にギャルバンに乗り換えたこと」を皮肉っているそうで、4行目は「加護ちゃんの妊娠ニュースを聞いた時」のことらしい。そしてサビの印象的なフレーズ「絶対女の子がいいな」というのは、加護ちゃんの子供が「女の子がいいな」と思った、という意味だそうだ。2つのエピソードは混然一体となり、そのオリジナルな意図や文脈を伝える気は毛頭ないですと言わんばかりに、剥き出しの形で提示されている。(実はこの点は、1つ目の私小説性とも関連している)あるいは、初期代表曲「新宿」が、あまりにも唐突な「きゃりーぱみゅぱみゅ」という固有名詞から始まることを思い出されたい。

当時『大森靖子』は、弾き語りで注目を集めるには意外な言葉を詰めたり口数を多くするのがとても大切だったのだ、というようなことを言っていたと思う。言葉を「意外なもの」として提示するために文脈を捨象し、アッと驚くような組み合わせで利用する。これも、欠かすことのできない大森靖子の作家性であった。

そして、今に至るまでの『大森靖子』の足跡を見るに、彼女はこちらの方向でリーチを伸ばしていくことを戦略的に選んだのではないかと推察している。「絶対彼女」のYoutubeのコメント欄は、僕がみていた10年前は『大森靖子』の才能を褒め称える音楽通みたいな人の賞賛で埋め尽くされていたが、今は(他の『大森靖子』の曲と同じように)「傷ついた女の子」の語りで溢れている。共感を拒むことで私小説的な作家性を発揮していた彼女の意図や表現の独自性を軽々と乗り越え、現代の少女たちは簡単に『大森靖子』に感情移入してしまう。TikTokの切り抜きでも眺めているかのように、断片的な情報を自分のコンテクストに引き付けて消費できてしまうその身軽さには驚嘆を禁じ得ない。そして当の『大森靖子』も、こうした少女たちに届く言葉を多く散りばめてアテンションを獲得するという方向で、その後の方向性を打ち出していったように思う(特に近年の作品は、TikTok的な消費を確信犯的に狙い撃っているように思う)

長くなったが最後に一つ。「あの頃」の『大森靖子』の表現は、今の自分を生かしている火種のようなものだ。同じように、「今」の『大森靖子』が多くの人の暗がりを照らしているのだろうと思う。僕にとって『大森靖子』は、自分を保ちながら狂わずに生きるための希望であった。そして、その時もらった力を、勇気を、知恵を、僕は今まで一度も手放していない。の子さんと2人で、一生のヒーローである。


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