教育社会学者の育休日記♯7 彼女には、我々が見えてる世界とは全く異なる世界が見えている

「そんなに穏やかな表情3年間で初めて見ました」

部署の後輩に言われた。
そんなに厳しくしてきた意識はないし、「いやそういうことではなくて。ただほろほろ言葉がでるというか、なんか本当に穏やかそうで」と彼。

育児生活が始まってからは妻の実家で生活している。
妻と我が子は一階にいて、ミーティング前ギリギリまで我が子を眺めて、ミーティングにはいったときに言われた言葉だ。

育児しながら働く生活はあとひと月弱、6月からは完全なる育休に入る。

育児をしながら働きながら、という生活も実に学びの多い日々だ(リモートでの業務に大いに感謝)。

我が子との時間は豊かで穏やかで幸せで、ゆったりとした時間。
そこから業務にうつるとモードやリズムをシフトさせるのが非常に難しく、集中するまでに時間がかかる。
逆に仕事を終えてすぐ我が子に会って「わー」とできるか、というとそれもなかなか。

一方で、それこそが人間の原初的な在り方と思うと、穏やかでゆったりとした自分のまま仕事に向き合い、価値を生む道はないのか、と思えたりする。
そのほうが、今とはまた異なる仕事ができるのかな、とか。


もう一つ、自分に対して気づいたことがある。
自分は「様子を見る」が苦手だ。
現在、新卒で勤めた会社から転職して2社目、大学院にいって修士号を取り、博士課程に進んで研究をしながら仕事をしている身だが、それなりに仕事はできる方であると自負している。効率的に業務をすすめられるし、企画職として新しい価値を生み出してきた。

そのなかで培った業務に向かう自分のプロセスを単純化して言語化してみると「原因を特定し、考えうるソリューションをイメージ、創造し、試しながら最適化していく」といった思考スタイルにより生成されるプロセス。


しかしこれは育児にはおおむね適応できない。
なぜなら、我が子には我が子のペースがあり、それを感知、認知することがこの上なく難しいからだ。

我が子が泣いてるとき、自分に取りうる選択肢は、授乳、おむつ交換、寝かしつけの3つ。
一方で我が子が発するシグナルは無限。
時間帯やほんの数秒前、あるいは数時間前の過ごし方の影響も小さくない。
ただそれとて、何通りかのパターンにできるような気がしていた。そのパターンから、3つの選択肢のどれを選ぶか、繰り返している中で、最適化されていくのかな、と。

しかし数日たってまったくもってそんなことはないのだ、ということに気づきつつある。

この時間帯、この動作、パターンは、と思って3つのうちの1つを選んでみてもそうそう当たらない。
そしてこちらからの何かを試してみるアクションが我が子に一つの影響を与え、また状況は変わる。
ほんの数十秒時間がたっただけなのにさっきやった一つ目の選択肢がハマったりする。


そんななか気づいたのは、重要なのは我が子に流れる時間感覚、ペースを重んじること、そしておそらく我々にはもはや感じられないような微細な何かの影響を感じ取りながら生きているなかで、自分たちがとらえられるごときのことで再現性を把握しようとするのは浅はかであるという自覚を持つこと。
自分のペースを手放して、自分の捉えられる感覚の外の感覚を信じて、「様子を見る」を重視する必要があるということ。

加えて選択肢も実は3つでは当然なくて、3つの中に無限の可能性、やり方があって、その些細な違いが我が子には大きな影響を持っているということ。

例えば、寝る時間の過ごし方も、ただ眺めているのと、意識は向けながらも信頼を示して関心はあえて向けない、という構えで隣で過ごしているのはなんだかぜんぜん異なる気がしてくる。


新生児にはおそらく、大人にはない、あるいは昔にはあったが失われた感覚があるのではないか、と思わされる。


そんなことを考える中で、自分の判断を急ぎすぎる特性、原因を探してしまう特性、解決策を探りがちな特性、それらを基本的には自分のぺースや自分の中のパターンにあてはめて推考する特性といった、自分の特性にいくつも気づいていった。



あぁ、なんと育児とは面白いのだろう。

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