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協調性と群れることの違い

 私の周りでは、協調性を持って仲間と協力して様々なテストやタスク、能力向上を図っていくことが推奨されている。このことについては私は非常に共感することができ、非常に良い取り組みだと考えている。
 だが実際に行われていることは、私からすると、みんなの仲間であり続けるために群れているだけのようにしか見えない。これは、私が拗れていてみんなと少しズレた考えをしていることを全力で擁護しようとしている意見なのかもしれない。だが、このようなことを考えだして約半年経つがまだ一向に私は本当の答えに辿り着けずにいる。日本人は、周りの人から嫌われないように他の人と違った意見を言うことを避けるとよく言われる。実際に私はこの意見に非常に賛成である。私は、アメリカの高校に在学している際に友人と話していると、「私はこう考える。」と言ったような発言を数多く聞いてきた。その上で私は、他の人と話し合いどちらの方が良い考え方なのか、正しいのか、あるいはどちらの意見も正しいのかなどを考えることが好きだった。実際に友人と話すだけでなく、学校の先生とも野球チームの監督やコーチともこのような話をよくしていた。寮生活だったので、友人とそのような話を夜中に話していたことが一番多かったが、、、
 その後、日本に帰国し大学に入り寮生活をしている。この大学での寮生活では、そのような話はしたことがない。それどころかみんなそこまで深く考えた話をしようとはせず、くだらない話で盛り上がっていたり、話し合いの場があったとしても互いの意見を考えるのではなく大多数の意見に持っていこうとするような話し合い程度でしか起こらない。そして最後には、誰かがふざけ笑って終わってしまうような程度だ。私はこのような話し合いやおしゃべりで満足が出来ない。これは、自分が他の人よりも精神年齢が高いもしくは優れていると言うことをどうしてもオッもいこ見たいと言う私のしょうもないプライドからきているのかもしれない。だが実際に、自分としての考え方が広がるような話し合いや会話ができていないのは一つあると思う。
 これらを踏まえた上で私は一つわからないことがある。これは、日本という社会では当然のものなのだろうか?話し合いなどということをあまりしない文化なのだろうか?それとも、私の大学が頭が良くないのだろうか。もしくは、仲間という物を失いたくないという考えから、他の人と違う意見をできないのだろうか。このような話が出来ないのかみんなは避けているのか、どうなのだろうか。私が思う協調性を持って協力するというものは、それぞれに得意不得意があり、そうゆうところを補い合って助け合い切磋琢磨していくものであると考えている。だが実際に私の目には、馴れ合って他の人と群れて同じ行動をしているだけにしか思えないのだ。これでは、みんなが同じことをしているので他のひとと違った経験や自分の強みという物を生み出すことはできないのではないだろうか。
 私は今も答えが出せないでいる。

***最近は国家試験の勉強に追い込まれていて更新できませんでした😭でも全て合格し、落ち着いたので更新してみました。最近は読書も始めてみましたが、やはり読むことはいまだに苦手ですwですが少しずつ自分の知識などの幅を増やせるように頑張ります!
 皆さんのコメントも❤️もお待ちしています。拙い文章ですが、これからもよろしくお願いいたします。

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