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永遠の福音―7 真実の信仰とは?

真実の信仰とは?

路上や駅、そして商店街の前で、熱心に伝道する方々をよく見かけます。“イエス様を信じますか?”“神様を信じますか?”“信じて天国へ行きましょう!”彼らはそう叫びます。
アメリカでは、大通りや高速道路を走る途中に、次のような看板を時々見かけます。“主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”“今すぐ信じましょう!今日、イエス様をあなたの救い主として受け入れましょう! そうすれば救われます”
その通り、イエス様を信じるなら救いがあります。「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と聖書には語られています。私たちは、神様の恵みによって、信仰を通して救いが得られるのです。ところがひとつ、私たちが真剣に考えるべき問題があります。それは、どのように信じることが、聖書に教えられている真実の信仰なのか、ということです。
“信じなさい”という聖書の言葉を受け入れるなら、同じ聖書が、どのように信じるべきだと教えているかをしっかり受け止める必要があるのではないでしょうか。
今日、多くの教会、牧師、教会員たちが、神様を信じます、と言いながら、回りの人たちへ良くない印象を与え続けています。クリスチャンである私たちは、自分自身の言動を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。私たちの周囲では教会の建物がますます増え、ライトに照らされた十字架やイルミネーションが、夜のちまたを照らしますが、私たちの信仰生活は、ますます明るく清い者となっているでしょうか。今までよりもっと正直で、真実な心に変わりつつあるでしょうか?クリスチャンであるなら、自分自身へ問いかけるべき問題です。
「クリスチャンだと言うから信じていたのに、騙された」というような話も、たまに聞きます。「あんな奴がクリスチャンなら、神様なんか信じられない!」と、吐き捨てる人もいます。そうしたことの多くは、信じることが何であるかを、正しく理解し体験していないクリスチャンたちによってもたらされたものです。信じる時、私たちの心にどんなことが起きてくるのか、どんな変化が伴うのか、きちんと学んでいないクリスチャンが多いのです。そういう人は、自分の生活に根本的な改変もなく、ただ“救われた”と主張しているので、問題が起きた時、み言葉の原則によらないで、自分の都合のいいように行動してしまうため、そのようなことが起きるのです。

私たちの救いは信仰によるものですが、行いの実が伴わなければ、私たちの信仰は、真正の信仰でないと認めなければなりません。それゆえ聖書は、この問題に対して、次のような明確なみ言葉を提示しています。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない、不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:21~23)。

最も純粋であった初代のキリスト教会に、ある時、神学的な危機が起きたことがありました。使徒パウロの言葉を聞いた一部のクリスチャンの中で、誤解が生じて、信仰によって救われるという概念に、つまずきがもたらされました。使徒ペテロは、Ⅱペテロ3章14節で、「しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」と強調した後、このように言いました。「また、わたしたちの主の寛容は救いのためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい」(Ⅱペテロ3:15~17)。
誤解された使徒パウロの言葉を例に上げると、次のような言葉であったと思われます。「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)。
「しかし、働きはなくても、不信心者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ローマ4:5)。
「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」(ガラテヤ5:4)。

これらの言葉は、使徒パウロが、異邦人が神様の民になるためには、割礼を受けるべきだと主張するユダヤ系のクリスチャンたちに、誤解されることを恐れ、書いたものであることが、続いた述べた次のような言葉で分かります。
「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)
「それでは、どうなのか、律法の下にではなく、恵みの下にあるからと言って、わたしたちは罪を犯すべきだろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのかあなた方自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義に至る従順の僕ともなるのである」(ローマ6:15、16)。
「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。・・・兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:5、6、13)。

初代の使徒教会の当時、福音と律法の問題について危機が生じた時、エルサレム教会の指導的な立場にいた、イエス様の兄弟ヤコブは、各教会へ送り出す手紙を書く必要があると感じました。そして、彼は聖霊の感動を通して『ヤコブの手紙書』を記しました。彼は自分の手紙の中で、次のような言葉をもって、教会内に起きてきた誤解に対して、クリスチャンたちを叱責し、励ましました。
「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役にたつか。その信仰は彼を救うことができるか。・・・信仰もそれと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろうおう。それなら、行いのないあなたの信仰なる者を見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』という聖書の言葉が成就し、そして、彼は『神の友』と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:14、17~24)。
ヤコブは、その当時、教会内で誤解されていた、信仰だけで救いが得られるという教えに対して、正しい理解を与えています。彼は、悪霊どもでさえ神様を信じておののいているではないかと、問い返しました。そして、信仰が神様の存在とその真理を知って認めるだけに留まるなら、それは、悪霊が神様を認めることと何の違いがあるかと言ったのです。真心からの信仰は、私たちの承認や同意を超えて、私たちの心と思想と生活を変え、天の父のみ言葉に対する全的服従にまで至らなければなりません。そのように、ヤコブは私たちへ説教しています。
彼は、「信仰と行いと救い」の三つの関係を説明するために、アブラハムの例を用いて話しています。アブラハムは息子イサクが生まれる前、すでに自分の妻サラが、年老いたゆえに子を持つことのできない状態にも関わらず、翌年、他の女を通してではなく、老いた自分の本妻サラを通して、男の子を与えるとの神様の約束を信じました。また、神様がその約束の男の子からひとつの民族を起こし、国を形成し、メシアをその地から誕生させてくださるという約束、自分の子孫が大いなる国民となり、空の星や海の砂のように、数えきれないほど多くなるという神様の約束を、彼は固く信じました。それを信じるためには、はなはだしい信仰が必要とされました。その時神様は、アブラハムのそのような信仰をご覧になり、彼を義と認めてくださったと聖書は語ります。
ところで、アブラハムはその事実をただ、頭だけで同意したのではありません。信仰は頭で、ある事実や教えを認め同意する以上のことを意味します。信仰とは、神様のみ約束を確証し受け入れてから、真心を尽くしてみ言葉に従うことを言います。アブラハムは、信じた時、自分の名前をアブラムからアブラハムに変えました。アブラムという名前は「高い者」という意味でしたが、アブラハムは「多くの国民の父」という意味を持った名前でした。自分の子供が一人もいなかったアブラハムにとって、人と出会うたびに自分の名前を、「多くの国民の父」として紹介していたことは、すばらしい信仰を表していたものでした。
それだけではなく、イサクが生まれ、彼が20歳になった時、青天の霹靂のような言葉が神様から与えられました。ひとり子イサクを、モリヤの山へ行って、殺していけにえとして捧げなさいというものでした。殺してはならないと命じられていた愛の神様が、どうしてそのような命令をあたえられたのでしょうか?全く信じられない気持ちだったことでしょう。彼は非常に驚き悩みました。ところが、聖書には、アブラハムがその言葉でさえも信じて、神様に従って、朝早くイサクを起こし、モリヤの山へ連れて行ったことが記録されています。
アブラハムは、神様の言葉や命令が、全く理性に反するような事であったとしても、信じて行動しました。神様はいつでも、最善を与えて下さり、ご自身の愛と真実を尽くして導いて下さる方であることを信じ、その命令に従いました。
イエス・キリストを救い主として受け入れることは、この方を自分の人生の王、主人として受け入れることです。私たちが、神様を救い主として信じるという事は、神様の真理のみ言葉を受け入れるということであり、神さまの戒めをすべて受け入れ従う事を意味します。アブラハムがイサクをいけにえとして捧げるため、殺そうとして刃物を振り上げたその時、神様は彼を止められ、「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と言われました。この感動的な事実は創世記22章に記されています。
神様はアブラハムが、真心からの信心を持っているかどうかを試されたのでした。それと共に、後の時代を生きる私たちへ、真の信仰とはどのようなものであるかを説明してくださるために、このようなテストをアブラハムに許されたのでした。アブラハムのこのような服従の心に対して、神様は彼を信仰の父と呼ばれたのです。
イエス様の兄弟ヤコブは、アブラハムのこの経験を実例として挙げて、信仰とは何かを説明しました。その上彼は、アブラハムが信仰だけで義とされたのではなく、行いにおいても義とされたのであると、そのことを強調しています。それによってヤコブは、人の救いにおいて、信仰と行いは切っても切れないものであることを表しました。ボートをこぐ時、オールの片方だけこぐと、ボートが前に進まないように、信仰と行いは共に働かなければ力になえりません。信仰と行ないが同時に働いて、救いの船は、天の入り江まで無事に到着することができるのです。
私たちは、信仰によって救いを得るものであって、行いだけで救われるのではありませんが、聖書は次のように、行いの重要性を重ねて強調しています。
「人の子は父の栄光のうちに、御使いたちを従えて来るが、その時は、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(マタイ16:27)
「神は、おのおのに、そのわざに従って報いられる」(ローマ2:6)
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(Ⅱコリント5:10)
「また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう」(黙示録2:23)

ここでひとつ、注意するべき点があります。私たち人間は、自分の力で神様の言葉に従い、その戒めを守ることなどできないということです。私たちは堕落した性質を持ってこの世界へ生まれてきました。弱く、罪に陥りやすい傾向を持って生まれ、その結果数々の不従順を繰り返してきた者です。それゆえ、私たちは新しく生まれなければなりません。私たちは、イエス・キリストの新しい心を受けなければなりません。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(Ⅰコリント5:17)
私たちは、日ごとに神様の内で自我に死に、毎瞬間ごとに聖霊の支配を受けて生きる経験を通してのみ、神様のみ心と律法に従う生涯を送ることができるようになります。自分の力でみ言葉に従うのでなく、御霊の働きによってそれが可能になります。そして、神様に従うことは、神様を愛するゆえにできるのであって、私のために贖いの血潮を流して死なれた主の愛を知ることで、その愛が強い動機となり、主の言葉のすべてに服従して生きたいという願いが生じるのです。
イエス様は、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)と言われました。だからといって、私たちの従順や行いが私たちを救う何かの功績になるわけではありません。なぜなら、私たちの救いは、イエス・キリストがご自分の血潮で、私たちの罪の代価を結果を支払い、身代わりの罰を受けて下さったことによるからです。私たちの行いが積み上げられた、その功労によるものではありません。しかし、その人が神様に従い、真理に従って清く真実に変えられた生活が送れないなら、その人の信仰は、神様との関係において何かが間違っていることは明白です。真心からの信心は、神様に対する愛と従順を生み出すようになるからです。
私たちは、親に従い、親を尊敬することによって、その親の子供になるわけではありませんが、従順と、尊敬を持たない者は、その親の子共と呼ばれる資格はありません。

『へブル書』11章を、私たちはよく、信仰の章と呼んでいます。そこで使徒パウロは、歴代の信仰の勇者たちを羅列しながら、彼らの信仰と同時に、彼らの信仰の証しである行いについて語っています。たとえば、次の通りです。ノアは、信仰によって箱舟を造ったと言います。雨の降るのを見たことのない時代に、ノアが神のみ言葉を通して、洪水がやってくる事を信じただけでなく、それに備えるため、み言葉に従って箱舟を造ったと言います。そのようにする事で、ノアはその当時の人々にからかわれ、指をさされながら過ごしたことでしょう。
また、信仰によって、アブラハムは行く先を知らないで神の召しに従い、偶像の地を離れました。アブラハムは信仰によってイサクをささげました。信仰によってモーセは、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選んだ、と信仰の章では記しています。信仰によって彼らは、神様の言葉に従い行動していったのです。

信仰と行ないが共に働くという、このような教えが、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、ジョン・ウェスレー、ラウジョー・ウィリアムズ、ツィンツェンドルフ、リチャード・バクスターのような、宗教の改革者たちが保ってきた立場でした。しかし、最近では、信じるだけで救われるという、偏った教えが、キリスト教会の中で主流となりました。どうしてこのようになったのか。私たちは、もう一度、聖書を自分で調べて、何が真実であるかをはっきりと知らなければなりません。


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