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永遠の福音―5

5分でわかる真の教会の見分け方  

私は、なぜ人々が、自分たちが通っている教会へ続けて通うのか、分析したことがあります。教会の人たちと話してみると、彼らがある特定の教会へ出席する理由が分かります。親の代からクリスチャンだった人の場合、彼らはたいていこのように言います。
「私がこの教会の会員になった理由は、私の両親がこの教会へ通っていたからです。私だけではなく、私たちの家族全員がこの教会の会員です。私は幼い時から、母親に背負われて教会に通い、ただ一度も、この教会が聖書的に正しい土台の上に立てられた、真の教会であるということについて疑問を持ったことはありません」。
皆さんがもし、自分自身の聖書研究と選択に基づいて教会を選択したのではなく、単に、親がそこの教会員だったからとか、親がその教会の長老や執事だったからその教会の会員になっているとしたら、それはクリスチャンとして、正しい判断といえるでしょうか?もし皆さんが、仏教の信者だと仮定してみましょう。この私が、仏教の信者である皆さんの前で、聖書を開き、イエス・キリストは神様の御子であることをはっきり証明したとしても、皆さんが「私はお寺に通う仏教の信者であって、私の両親も仏教の信者ですから、私がイエス・キリストが神様の御子であることを明白に悟ったとしても、私の宗教と信条は変えられません」と言えるでしょうか?ある人が、特定の宗教を、親から受け継いだとしても、それがその宗教が真実な宗教であることの保証ではないことは当然です。
ジャングルの中に住む、人食い人種について考えてみましょう。もし私たちが、彼らのところに行って、栄光あるイエス様の恵みについて説明した時、その食人種がこのように言ったらどうでしょうか。「私たちの先祖は、代々人食い人種でした。私の祖父も、曾祖父も人食い人種でした。それゆえ、かりにあなたの宗教が、唯一のまことの宗教だとしても、私は自分の宗教と部族の伝統を決して捨てられません」。この場合、私たちは彼に「そうですね、あなたの先祖が皆、人食い人種だったのですから、あなたもやはりその伝統を離れる必要はないですね」とは言わないと思います。決してそのようなことは言いません。
自分がその教会で育ったからとか、あるいは、親がその教会の会員だからというような単純な理由ではなく、もっと明白な、聖書的な理由によってクリスチャンになるべきです。

「あなたはどんな理由でその教会に通っていますか?」という質問に対して、次のように答える人もかなりあります。「私がこの教会の会員になった理由は、この教会へ通う人々が良い人だったからです」。
けれども、このような答えも、決してクリスチャンらしい答えだとはいえません。皆さんの職場の中にも、立派な人や好きな人はいるでしょう。だからといって、皆さんの信仰をその人と一致させるべきでしょうか?皆さんは、お店の人が良い人だから、常連客になることはあるでしょう。だからといって、皆さんは、その店員の信じる通り、信じて受け入れるべきでしょうか。そうではありません。ある教会の会員が良い人だからという理由だけで、自分の魂と救いに深く影響を及ぼす教会を、不注意に選択することは、とんでもない話しです。

真の教会と真理の関係   

多くの人は、単純に、近くにある教会を選び、行く傾向があります。昨日まで長老教会へ通っていた人が、引っ越したら、近くのバプテスト教会に通うようになることを、時々見ることがあります。最近のように交通渋滞が多い時に、遠くまで運伝しなくても済むように、また、高い燃料も節約出来るのでそのようにするかもしれません。しかしもう一度、皆さんに尋ねます。「住まいと教会の間の距離は、自分自身がどの教会に行くべきか決める一番の理由になるでしょうか?」。
聖書は、クリスチャンが、自分と家族が通うべき教会を選ぶことにおいて、とても確実な指針を提示しています。「万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである」(Ⅰテモテ3:15)。

教会は、真理の基礎の上になければなりません。私たちがある特定の教会に出席する最大の理由は、親がその教会の会員だからではなく、家族が通うからでもなく、教会が近いからでもなく、一生ずっと通った教会だからでもなく、その教会にいる人々が良い人たちだからでもなく、教会の牧師の人格が気にいったからでもありません。そうではなく、自分の通う教会が、聖書の教訓と真理を正しく教え、それに一致しているゆえでなければなりません。もし、自分の通っている教会が、聖書の教える真理に一致していないとすれば、私たちは、いかなる代価を払っても、真理を土台としている教会を探さなければなりません。
ある方々は、時々このような質問をします。「今日、キリスト教は300以上の多くの教派や教団が存在しますが、これほど多い教会の中で、どの教会が、神様がこの最後の時代に立てられた唯一の真の教会なのか、見つけることができるでしょうか?」私たちはこのような質問に対してま、聖書の中から、答えを知ることができます。イエス様は「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教(doctrine,教理)が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」(ヨハネ7:17)。これが真の教会を探し出す方法です。人が、真心から神様のみこころを正しく行いたいと願うなら、彼は“教訓”すなわち、聖書の教理(doctrine)を先に正確に理解するべきだということです。皆さんは、本当に神様のみこころを行いたいと思いますか?それでは、皆さんはこのように祈るべきです。「主よ、私は今、主に心を完全に明け渡したいと思います。主が私に願われることがあるなら、どんなことでも従いたいと願います。もし、私が今、変わることを主が願われるのでしたら、私は喜んでその変化を受け入れたいと思います」。
ある方はこのような質問をします。「数えきれないほど多くの教えと教理が、各教団や教派にある中、どのようにしたら、その教えが聖書的であるか明白に区別出来ますか?本当に神様に心を開いていたなら、真理が分かりますか?」。預言者エレミヤは、次のような約束と保証の言葉を記しました。「あなたがたはわたしを訪ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを訪ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」(エレミヤ29:13、14)。皆さんが真心から真理を知りたいと求め、神様が真理を見させてくださった時、快く皆さんの考えと行動を改めたいと願うなら、皆さんは真理を知るようになるでしょう。
この問題に関連して付け加えたい事は、神様は、真理を持って捧げる礼拝を喜んで下さるということです。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊(spirit)とまこと(truth,真理)とをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」(ヨハネ4:23)。

真の教会を構成するクリスチャンの特性

ひとつ明確な事実は、各時代を通して、神様の真の教会によって真理が伝えられてきたということです。この世にあって、神様の真の証人がいなかった時代は決してありませんでした。この、真の教会とは、目に見える建物や、組織によって構成された教会ではありません。真の教会は、各々異なった信条や教派の中にいたとしても、神様の真理に、心と生涯を捧げたクリスチャンたちで構成されています。神様は、あらゆる教会の中に、神様の忠誠なる男女を持っておられます。それはいわば、見えない教会です。神様は、見えない教会の正直で忠誠なる男女を、神様の真理へと導いておられます。ですから、真の教会を探す時に、車を走らせながら、「どの教会がいちばん大きなのか?」などと探さないでほしいと思います。聖書の歴史によれば、真の教会はいつの時代も、たいへん小さい群れでした。真の教会の特徴は、規模によるのではなく、神様の真理に対する忠誠心にあります。
『ヨハネの黙示録』は、最終の時代、神様に真心から従うクリスチャンを、2種類に分けています。

1)女の残りの子ら

各種の象徴を用いて記録された『ヨハネの黙示録』において、龍は悪魔、サタンを意味しますが(黙示録12:9)最終の時代にサタンは、「女の残りの子ら」、すなわち、神様の真の民(真の教会)と戦います。その場面が、『ヨハネの黙示録』12章17節に描写されています。「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために出て行った」。このみ言葉に言われているように、最終時代に悪魔が戦う、真の神の教会に属するクリスチャンの特徴は「神様の戒めを守りイエスのあかしを持っている」者です。このような特徴は、最終時代に、全世界的に強要されるようになる獣の刻印を拒み、獣の像を拝まない群れとして反復され現れます。「その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:11,12)。「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰(イエスの信仰・欽定訳)」を持ち続ける者たちが、真の教会なのです。

2)バビロンから出てくる神の民

たとえ、誤った教理や非聖書的な教えを持っている、バビロンになってしまった教会の中にも、真理を固く掴んで、良心に語りかける御霊の声に耳を澄ましながら暮らす、神様の真の民が存在します。神様は最終の時代に、彼らをバビロンの教会から出て、神様の真の教会と連合するよう呼びかけておられる姿が、ヨハネの黙示録に次のように記されています。「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった』。・・・わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ』」(黙示録18:2,4)。「神様の戒めを守りイエスのあかしを持っている」女の残りの子らが、真理を宣布し、真の福音を伝えながらバビロンの教会が倒れた事を叫ぶ時、バビロンに属していた神様の真の民は、女の残りの子らが述べ伝える真理のメッセージを聞いて、自分たちが属していたバビロン教会から出て、神様の真の教会と連合するようになるのです。

今まで注意深く見た通り、最終時代に現れる真の教会の特徴は、目に見える立派な建物や組織ではなく、神様の戒めを守ることです。今日、多くの教派と教団が、それぞれ異なる形で神様の救いを説明しています。しかし、おびただしい数の救いについての教えがある中で、どれが、この終わりの時代に、女の残りの子らが伝える救済論でしょう?どの教えが、正しく『ヨハネの黙示録』が明白に指摘している、女の残りの子らの特徴と調和しているでしょうか?この重要な質問について答えを出す前に、このような提案をしたいと思います。「どの教えが神様の戒めを正しく取り扱っていて、どの救いの教えがヨハネの黙示録に現れている女の残りの子らの特徴と正しく調和しているか、聖書を注意深くみてみましょう!」と・・・。
聖書が語る真の救い、神学的にそれは“信仰による義”と言います。それは、信仰を通してキリストの義を受けて救いを得る道を示す教えです。次回では、さらに、「女の残りの子ら」が信じて教えている救いについて調べてみたいと思います。特に、今日キリスト教界に数多くある、誤った救いについての考え方がどうして出来たのか、歴史的な背景と、その教えの問題点が何であるかについて、真の聖書的な救いと比較しながら調べてみたいと思います。皆様が、次回もさらに聖書を深く学ばれ、この学びを通して、真の魂の救いと、永遠の命への道を見つけ出していただけますよう心より願っております。

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