sosoの素(23)
心と身体と頭のこと 8
20代前半のこと、たまたま大林宣彦さんと何人かでお話しする機会があり、その中で「心はどこにあるんでしょう」という大きな問いを話された。その問いの前に「人は頭で物事考えるから心は頭だと言う人もいるけども、悲しくなったり感動したりすると胸のあたりに何かを感じる。だけどそこには心にあたる臓器はない」と言われて面倒なことを言う人だなーと思いつつ、ついついどこなんだろうと考えていた。その時は心ってどこなんだ?と思う程度で自分の中に心があるような気はしてるけどはっきりとした実感としての心を感じていなかった。きっと「心=感情」と思っていたような気がする。それも間違いじゃない。でも「感情=心」だと心に対して少し乱暴な捉え方のように思えて仕方がないのです。
風邪をひいて熱が出て寝込む。それが回復してくると充実感にも似た気持ち良さがやってきて身体だけじゃなく気持ちも回復してくる。食欲が出てきたり、頭痛がなくなったり、体が楽だったり、とにかく心地よくってホッとした気持ちになり、病み上がりのくせに妙に身体を動かしたくなる。
普段はしない掃除を徹底的にして綺麗になった部屋や車なんかも気持ちがいいもんだから何度も眺めたり、触ったり寝転んで見たりしてその気持ち良さを味わいたくなる。それも少し似ている。
いい状態から悪くなってまたいい状態に回復するときに充実感のようなものを感じるのかもしれない。この充実感は心に近い気がする。美味しいものを食べたり、寒いときにお風呂に入ったり、綺麗な風景をみたりした後にも同じような感覚はやってくる。
それとは逆に、一生懸命やってきたことを否定されたり、無視されたり、壊されたりすると重い雲や不用意な傷が残っていく。すぐになくなることはなく数日もしくは数年に渡った自分の中から消えてくれないこともあって、雪だるまのように次から次へと小さなささくれのような出来事を巻き込んで大きくなっていくこともある。台風一過のあとのように何かの拍子にスカッと晴れてくれたらいいけど、歳を重ねるごとに難しくなっていってるようにも思えてならない。
悲しさも苦しさに似た難しさがある。自分の気持ちを空洞化させてしまうような無力感を作り、必死で上げていた重い腰が全く上がらなくなる。指先に刺さった棘のように夢中な時は感じずともフッとした瞬間に痛みとしてやってきてチクリチクリと気持ちを落としていく。
「心」を考えると言葉のシンプルさの割に範囲が広すぎて迷子になるくらい広くて捉えどころのないんだけど、自分の中には確実にあると思える。
ある時は苦しくて苦しくてどうしようもなくなるし、ある時は嬉しすぎて死んでしまうんじゃないかと思えるくらい喜びに満ち溢れてくる。いいことでもよくないことでも過剰にやってくると自分ではコントロールすることができなくなってしまう。
そんな難しい「心」と言うものが何なのかもう少し考えていきたい。
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